モノモタパ王国侵攻
杯の小さい歴史ジャンルで、毎日更新しているにもかかわらずランキングにも入らない。
まあ、こんなマイナーな作品があっても良いかもしれないですね(苦笑)
今、読んで下さってる読者様にご満足いただけれるよう、今後も更新していきます!
”コガ””サイカ”の一団が新たに加わり一年が経過した1588年。この間、表向きは交易船の管理を行いながら、武器の充実に努めて来た。
マスケット銃は状態の良い物はそのまま使用、悪い物は金属部分は鋳つぶして種子島製造に当てた。
和弓の制作。森林の中には竹もあるので、弓の制作も行われた。矢羽は鳥類から雑多に採取したが、いずれも高水準の矢を作る事が出来た。和弓は弓術師という専門職もいるが、日本では害獣退治や大名からの徴発のために農民でもある程度の品は作れることが多いのである。コロニーに弓術師がいないのに和弓が作れた要因はそんなとことにあったのだ。また、金属を種子島制作に廻したために、槍は木槍が中心となった。ただ、アフリカの森林の木材は日本では考えられない程豊富である。漆のような樹液を出す木もあれば、避蚊剤に使える香りの強い木、強度も未熟な鍛冶師が仕事した鉄より遥かに硬い木もある。しかも大木が多いので伐採し日陰で2~3年乾燥させれば充分槍として使える品を揃える事ができた。
また、これまで、互いの出自について詮索しないようにしてきたが、国として独立するにあたって、日本時代の名前を明らかにしておこうということになった。
以下が、公表された各々のプロフィールである。
”トノ”:日本名・諏訪勝頼。天目山で自害直前に真田の忍びの手引きで影武者と交代。忍びと共に直江津から平戸に向かい南蛮船に乗船
”タロ”:日本名・武田太郎信勝。諏訪勝頼の息子。真田の忍びにより父と共に救出された。
”イデ”:日本名・明智光秀。山崎合戦で敗れ落ち武者狩りにあい、その後盗賊に売られ、最終的に南蛮奴隷に。ポルトガル人にはMITUが呼びにくいのでHIDEと呼ばれたのが名前の由来。ポルトガル語ではHは発音しない。
”ゴロ”:日本名・明智十五郎光慶。明智光秀の息子。
”サカ”:日本名・酒井氏武。明智光秀家臣。
”ウン”:日本名・森成利。通称・蘭丸。本能寺で信長の最後に立ち会った後、弟らと共に脱出するも野武士に全員捕らえられ、その後、奴隷商の手で南蛮奴隷に。名前は三兄弟の中で一番年上だったから
”ドイス”;日本名・森長隆。通称・棒丸。名前は三兄弟の真ん中の意。
”トレス”:日本名・森長氏。通称・力丸。名前は三兄弟の3番目の意
且つて、織田勢に攻め滅ぼされた武田勢が2人に織田家家臣が6人。
本能寺を攻めた明智光秀に攻められた信長の近習森3兄弟。
まさに呉越同舟だが、南蛮船乗船時代から数えれば5年を超える付き合いであり、日本から遠く離れたアフリカの地で、最早、敵同士に戻ろうとする者はいなかった。
雑賀衆も織田家とは因縁浅からぬ仲だったが、雑賀を滅ぼし日本での居場所を奪ったのは羽柴秀吉であり、この頃には織田家の印象は薄い物になっていた。
こうして、様々な人生を辿ってモザンビークの地に集合した侍達は新天地で新たな下剋上を図っていく事になる。
彼らが最初に接触したのは監視役の現地アフリカ人だった。彼らはモノモタパ王国の人間ではなく、テテの北方にあるマラヴィ王国からポルトガル人に奴隷として売られた者達だったのである。従って、モノモタパ王国侵攻に否はなく直ぐに味方になった。
次に接触したのは対岸のアジア人コロニーである。彼らには統率をとる人物がいるわけでもなく、監視役のマラヴィ人奴隷が日本人に従っているので否応なく味方になった。
こうして、日本人、マラヴィ人、明人他アジア人の奴隷で構成されたおよそ500名の兵がザンベジ川の上流を目指した。
テテより上流のザンベジ川は急流域や滝もあり難所も多いが、積み荷の乗せた貿易船でなければ遡上は充分に可能である。3日程でモノモタパ王国に到達した。
モノモタパ王国は王国となっているが、ザンベジ川周辺の首長の連合国の色彩が強く、各々の首長毎に軍も編成されている。奴隷軍が最初に接敵した首長国はマニカ、キベテ、セダンダだった。鉄砲、弓といった遠距離攻撃手段を持たない彼らは奇襲攻撃に全く無力で直ぐに降伏した。このうち、マニカは金を産する土地だったが、奴隷軍がポルトガルとの金交易は不平等であり、不当に搾取されていると伝えるとこれを信じ、3国ともモノモタパ王国内での領地拡大を目指す事に合意した。
本作は既に史実とは大きく隔たっています。従って今後は創作人物の登場が増えていきます。
そこで、読者様の中で”本作に登場しても良い”という方はいらっしゃいますか?
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