運命の1587年
1584年に”トノ” ら8名の武将が来てから3年、テテは実質上は日本人奴隷の支配下と言ってよい状況になっていた。ポルトガル商館長らは酷暑やマラリア、珍しく仕事熱心な商人が赴任してきた時は、忍びがこの地で捕獲したコブラやブラックマンバの毒で命を落としていった。
そんな訳で、今やポルトガル商館は完全に傀儡である。
また、明人始め他のアジア人コロニーには金や鉄器での交易を通して味方につけ、本来なら奴隷監視の任にある現地アフリカンは、ポルトガル船から交易の度にクスねて来たインド中東の物品で篭絡、最早配下同然の存在となっていた。
因みに彼ら現地アフリカンの武器は竹槍が殆どである。日本人より遥かに体が大きい彼らの力で振るう竹槍は大変な威力である。また、密林地帯が多いためか彼らは弓を殆ど使用しない。
そんな中、1587年は、3年振りに新たな日本人奴隷が入植してきた。彼らは2つのグループからなる、それぞれの一団であり、一方は”コガ、もう一方は”サイカ”と呼ばれていた。
”コガ”とは甲賀衆であり、”サイカ”とは鉄砲で名高いあの雑賀衆である。
”サイカ”には高度な鉄砲使いも居れば鉄砲鍛冶もいる。そして、テテの日本人コロニーには先代の”トノ”が連れて来た鍛冶師もいるが、彼らも元々は鉄砲鍛冶だったのである。以前、”イデ”が先代父子の墓標に参拝した際、そこに残された家紋から”浅井殿”と言っていたので、この鉄砲鍛冶は国友出身の鍛冶師だろうと推定されていた。
現”トノ”の配下の忍びに甲賀衆、国友出身の鉄砲鍛冶に雑賀衆。各々の出自は詮索しないのが暗黙の了解となっている日本人コロニーだったが、これほど戦力が充実してくると、最早、コロニーで満足していられなくなってくる。何しろ彼らは下剋上の世を生きて来た人間たちなのだ。例え農民と言えども人間を傷つけ、時には命を奪う事に逡巡するような人達ではない。
更にここテテには大量のマスケット銃、弾丸、火薬が残されていた。
且つて、ポルトガルとモノモタパ王国の関係が悪化した時期があり、ポルトガルは千名からなる大軍をザンベジ川に派遣したことがあった。
だが、ポルトガル本国から来た艦隊はマラリアや眠り病に次々と襲われ、戦闘前に壊滅してしまったという。その艦隊が残して行った銃火器がテテに残っていたのである。資源豊かなアフリカといえど火薬は作れないので、この艦隊の遺物は大きな戦力として日本人コロニーで収集し秘匿されてきていたのだ。
甲賀衆は、先に来ていた忍びからマラリヤや野獣等この辺の自然の危険、現地人の肌に溶け込み隠密活動するための森で採れた実の種子から絞った油にすり潰した木炭を混ぜた黒塗りを教わった。
また、先住の忍び達が蛇や鰐を使役し、時に人を襲わせることもあると聞き驚いていた。爬虫類を使役するとは流石の甲賀も知らなかったようだ。
雑賀衆の鉄砲鍛冶達は国友衆から鍛冶場を見せてもらい、この辺りの燃料である家畜の糞を使った竈を見学した。外の酷暑が涼しく感じる程の高温だった。そして、長年燻っていた旧式のマスケット銃を使用するか、潰して種子島を作り直すか話し合った。テテ近郊では鉄は採れないが銅や鉛は手に入るので再製作は可能なのである。




