日本人奴隷の仕事
蝦夷編が終わったと思ったら、次の舞台はアフリカ。
日本史ファンには縁遠い舞台が続いたのがいけなかったのか、ブックマークされてる方が一気に5人も減ってしまいました(>_<)
日ノ本はもう幕府が開かれているし海外を舞台とせざるを得ないわけですが、これは仕方ないですね。
ここテテはザンベジ川の船運の集積場としてポルトガル人が建設した町である。
といのもテテより下流の河口までは大型船の航行が可能だが、ここより上流は急流域や滝があり小舟でしか行き来出来ないのだ。しかし、上流域にはモノモタパ王国という大きな国がありポルトガルはその国と交易していたので、必然的にテテで荷揚げ、荷下ろしの仕事が必要になる。
ポルトガル人自体は奴隷に高圧的な態度をとる事は稀だが、彼らはこんな酷暑の地でも欧風の石造りの家を建てて住んでおり暑さで労働力としては全くカウントできない。その点、日本人は現場に豊富にある葦や木材を使用し出来る限り通気性を確保した家を建てるので船運は事実上日本人に委ねられているという状態だ。
因みにテテとは現地の言葉で”葦”という意味である。
また、マラリア対策も現地アフリカンの協力もあり避蚊効果の高い草を燃やした煙やそれらの樹液を体に塗る事で対処してきた。この地のアフリカンは温厚でのんびりした気風の人が多く仕事はやり易い相手だった。
さて、モノモタパ王国がポルトガル人に卸してくる商品は主に金と象牙である。一方、ポルトガル側からはガラス等インド、中東の品が売られて行ったが、荷運びを一手に引き受ける日本人奴隷の懐にそれらの品の一部が入って行った事は言うまでもない。
また、モノモタパ王国からは古い遺跡から出土した鉄器が齎されることがあり、それらは全くポルトガル人は興味を示さず、日本人奴隷の鍛冶師が回収していくのが常であった。先代の”トノ”は鍛冶師を従えてこの地に来ていたのである。
鉄はテテの北にあるマラヴィ王国も産地であり、日本人奴隷の見事な細工物の漆器、蔓細工の籠などの交易品は充分交易品となりえたのだ。
こうして、日本人鍛冶師の元には鉄が集まり、玉鋼の日本刀には及ばないが、この地では他の追随を許さない刃物の密造が行われていったのである。
大河、ザンベジ川流域は農耕にも適した土地である。米こそ取れないものの、モロコシ(キビ) 、シコクビエ(稗)、トウジンビエ(稗)、更にポルトガル人が持ち込んだトウモロコシが栽培された。
モノモタパ王国からはアフリカ稲という米の近縁種ももたらされた。遥か西方からもたらされた種で彼らは食べないので日本人に譲ってくれた。このアフリカ稲からは一応米は採れるが収穫量は非常に少ないので吉事など特別な日にしか食されない貴重品となった。
この辺りで採れる繊維は意外に多彩である。麻はどこにでも生えている。猛暑もあり麻の織物が日本人の普通の着物である。
一方、現地アフリカンは麻も着るが一部木綿も着ている。ザンベジ川上流部は高原地帯で昼夜の寒暖差も大きいのだとか。
また、川の対岸には明人のコロニーがあるが、そこでは絹の生産も行われている。蝶類もまたどこにでもいるので技術のある者さえいれば生産は可能だ。
他には、アジア人コロニーではポルトガル人がブラジルから持ち込んだパイナップルの葉を用いて布を織る人達もいる。
繊維に関して最も悲惨なのは本来のこの地の主である筈のポルトガル人である。自分達の文明が最高で土人達から教わる物などなにもないと信じ切っている彼らは、この酷暑のテテでもウールを使ったビロードの衣類を着ている。
やがて、彼らポルトガル人は船が来ても石造りの商館から出てこなくなった。通関手続きに必要な印章等の道具を全て日本人に渡し、全ての作業を丸投げするようになった。日本人のなかには没落した元商人もいるので、ここでも、利潤追求の機会を得たことになる。もはや戦乱にまみれる本国より暑さ以外は快適な生活水準と言って良いかもしれない。




