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ザンベジ川下流域 テテ

日本人奴隷が最初にアフリカに来たのはいつの事だろうか?


16世紀初めにポルトガルが澳門に渡来し、1557年からは澳門はポルトガル人居留地となった。


それに先立つ1543年にはポルトガル人も乗船していた倭寇船が種子島に漂着し、1549年にはフランシスコ・ザビエルが来日している。


16世紀の日本と言えば正に戦国時代の真っただ中であるから、倭寇船に売られた日本人奴隷もいただろうし、かなり早い時期にアフリカに日本人奴隷がいた可能性もある。


最も、こういった奴隷は生活に困窮し口減らしの為に売られた者、戦乱で田畑を奪われ流民に身をやつした者達であり、歴史に名を遺した人物はいない。いや、いたとしても、日本では死亡扱いとなっており実態は不明のままである。




1584年にモザンビーク島に到着した貿易船に載っていた日本人奴隷は質という点では史上最高クラスだった。何しろ武将クラスが8名も載っており、その内の一人は息子と配下の忍びを幾人か従えていたのだから。


ポルトガルは奴隷同士の意思の疎通を円滑にすることを優先し同国人の奴隷を出来るだけ一か所に纏めて配置し使役する事が多かった。日本人奴隷が多かったのはザンベジ川下流域にあるテテという交易都市の郊外である。


1584年の奴隷たちも当然のようにテテに配属された。


このテテの日本人奴隷コロニーには、以前は日本で元大名だった父子の奴隷がいた。父親はテテで半年ほど過ごした後マラリアにかかり死亡したが、残された子供が中心となって他の地域にいる日本人奴隷とも通信のルートを開拓したり、コロニーの纏め役を担っており、皆から”トノ”と呼ばれ尊敬されていたが、二年前に労働中に川舟が転覆しワニに襲われ命を落としてしまったという。


以来、テテは纏め役不在の状態が続いていた。そこに今回、一度に武将級が8名もやってきたのである。


配下を従える元大名は早速”トノ”と呼ばれ日本人奴隷のリーダー役に祭り上げられた。その息子は名前から”タロ”と呼ばれた。10人近い配下の忍びはその身軽さを利用して早速周辺の地形調査を始めようとしたが、滞在歴の長い日本人奴隷に最低気温が30℃を下回る事がないテテの厳しい暑さ、周囲の野獣の凶暴さ、マラリアの怖さを教えられ、テテの暮らしに慣れるまで現地語の習得を優先する事にした。


残る武将は初老の男”イデ”。武士としては年齢が過ぎているがその分、知識豊富な文化人の一面もあり、日本人奴隷コロニーの知恵袋としてやがて存在感を発揮していく。彼は戦に敗れ落ち武者狩りに会い身ぐるみ剥され配下と共に盗賊に売られたという。配下は連行中に盗賊に抵抗して殺され南蛮船に載せられるときには彼と息子に家来一人の3人だけになっていたそうだ。


最後は、”ウン”、”ドイス”、”トレス”ポルトガル語で1,2,3を意味する若い三兄弟だ。彼らもまた合戦に敗れ主君の最後を見届けた後戦地から逃亡し、逃げ回っている間に南蛮人相手の奴隷商に捕まり船に載せられたという。


テテを始めとするザンベジ川下流域に日本人奴隷はおおよそ5千人程いると言う。


しかも、群雄割拠していた日ノ本と比べると猛暑も手伝ってか警戒も驚くほど緩かった。その上、難解な日本語を学ぼうと言う外国人は誰もいなかったから、日本人奴隷たちは図らずも秘密の暗号を駆使する大集団となっていたのである。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 更新お疲れ様です。 [一言] 日本・モンゴル・朝鮮半島は文法が同じだとか。 なので単語を覚えれば何とか会話が成立する、と何かで見かけました。 モンゴル出身の力士はインタビューにも普通に応じ…
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