1592年6月10日 十三湊集落
コシャマインと出会ってから、早速、湊周辺の貧民窟の改修を始めた。幸か不幸か彼らアイヌ人達は財産など殆ど持っていないので、住んでる家を壊されて文句を言う人間はいなかった。この十三湊は放置されてかなり経っているようで、俺達が泊った屋敷にしても、コシャマインがいた大家にしてもかつては立派な屋敷だったのだろうが、最早、建て替えるしか再建の方法はなさそうだった。他の家も同様である。
家を建て直すにあたって、彼らアイヌ人の希望を聞いてみた。彼らなりの伝統家屋のスタイルがあるのではと思ったからである。
彼らアイヌ人の家屋はチセと言い、地面に穴を掘り基礎を作らず直接木の柱を建てる掘立柱建物である。特徴的なのは屋根だけでなく壁も茅を使っている事だろう。従ってチセを建てるには大量の茅が使われるのだ。
因みにアイヌ人には大工という職業はないらしい。近所の人皆で協力して家を建てていくのが習わしなんだそうだ。
幸いな事に茅なんてそこら中にいくらでもある。何しろ、この辺は開発放棄地だったのだ。雑草である茅の宝庫でもある。
むしろ、彼らはなんで今まで、ここにチセを建てず、朽ち果てそうな家に住んでいたのか不思議なくらいである。
というわけで木は解体した古屋の柱で賄えそうだが、やはり痛みが激しい物などもあるので、幾つか新品を調達することにした。
そこで、出番なのが林業が主要産業の一つである阿曾沼広長である。彼は領地に文を出し、建材と木材の目利きという老人を手配してくれた。
彼らが持ってきたのは桟橋にも使われていた腐りにくいというアカマツである。チセは地面に直接建てるのだから良い選択だ。
そして古屋から出た廃材の鑑定は阿曽沼領自慢の木材の目利きに任せたのだが、この老人、名を”与作”という。
樵の名人で名は与作。祖父が良く歌ってた演歌みたいだ。
鞍馬天狗といい、この世界は異世界だとは思うが、元の世界の人間の創作が現実化しているというか、何か元いた世界とリンクがあるような気がしてしまう。
その辺りも解明できたら、俺も知識のみチートから脱却できるかもしれないが、今一つ取っ掛かりがないのが難点だ。
やがて与作から報告が来た
『元は銘木だった物が多かったのですが、腐食が激しく、使えそうなのは各家の大黒柱くらいです』
まあ、そうなるだろうな。
しかしチセの大きさなら、和人の家の大黒柱なら腐食部を切り落としても充分使えるだろうとのことだった。
結果、元大黒柱をふんだんに使用したチセはこの集落の首長であるコシャマインと近習が住むことになった。
こうして、僅か一ヶ月で十三湊の貧民窟はチセ15戸を数える大コタン(アイヌ語で集落)に変貌し、アイヌ人からはトサコタンと呼ばれるようになった。
コタンにはチセの他に高床式食糧庫に男女別の共同の厠、祭壇も設置された。
アイコウインによると、祭壇はイナウという神への捧げものを行う場だという。塀和によれば神社にも同様の祭壇があるそうで、正倉院のような高床式の倉庫といい、アイヌって本当に異民族なのか?という疑問が湧いてきた。
伊勢神宮に内々に祀られて以降、神社から恩恵を受ける事が多いので大分認識を改めたとはいえ、元来、宗教嫌い取分け生臭坊主の仏教嫌いな俺は、
・生臭仏教に穢されたのが今の日ノ本
・生臭仏教に穢されていないピュアな日ノ本がアイヌ
なのでは?と考えてしまうのだ。最も歴史学者でない俺には考察も検証もする術はないのだが
ともあれ、それら公共施設に加え、塾も開校(といっても雨天中止の青空教室だが)し、アイヌの人達にも関東言葉と文字・算術を覚えて貰う事にした。講師は中山照守、相馬秀胤、松田定勝、土岐頼実の若手四人に阿曾沼広長と歩き巫女が津軽弁への通訳を適宜務める事にした。
また戸籍の作成もするがこれは塀和がいるので安心して任せられる。




