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1592年4月26日 クルージング(印旛甫~釜石)

俺はヨットの構造については知っていたが、実際にヨットに乗ったことはない。何しろ研究馬鹿で実験室に籠ってばかりだったからね。


なので現代も含めて始めてもクルージングだったが、外洋いや太平洋の沖合は風が凄い。ヨットで無風状態に遭遇したら?などという心配は全く無用だった。


正木水軍の巧みな操舵でどんどん北上していく。一日で小名浜まで来てしまった。


問題はここからだ。竜骨キールがある以上、ある程度の水深のある港でなければ直接接岸できないのだ。


ここ小名浜は元々岩城家の領地だったが、伊達家が領有するようになって以来、漁港として整備された新しい港である。しかし、所詮は漁港、小舟程度しか接岸できそうもない。


今日、出港したばかりで食料には困ってないので、水の補給だけして沖合に錨を降ろし休むことにした。


ヨットの内部だが双胴船の方は二階建て構造になっており、一階は5人部屋が四つ、二階は5人部屋が三つに食堂と操舵室、トイレは各階の船尾の囲いを設けただけの文字通り垂れ流しである。天井階にはバリスタと大筒が設置されている。大筒は船首にも一つ。バリスタでないのはカルバリン砲の方が射程が圧倒的に長い為だ。館長室とかそんな本格的なものは設置されていない。


俺の部屋は、一階にありラーニャ、ザワティと三人だけで使っている。そこは領主だからね。


面白かったのは小名浜からの差し入れに笹蒲鉾があったことだ。笹蒲鉾といえば現代での仙台名物。しかし、この世界の伊達の領都は黒川、現代でいえば会津若松である。仙台が無くても笹蒲鉾は作られるのか!と思わず笑ってしまった。


まあ伊達家の家紋は笹だそうだから笹蒲鉾作られても不思議ではないか。因みに中々美味しかった。伊勢家ご禁制の醤油を付けていただいた。醤油はまだ品質が安定してない上、量が取れないのでご禁制としてあるのだ。


翌日は釜石まで向かう。ここまでは、正木水軍も何度も往来しているので勝手知ったる路ならぬ海である。


ただ、釜石以北は正木水軍も行ったことはないと言うので、羽黒党に命じて八戸港から案内船を釜石まで派遣して貰う手筈になっている。


こうして、自分で船旅をしてみて、改めて実感したのは、今の日本には地図・海図も水深図も存在してないという事である。羅針盤はあるが、沿岸航海では地形を見て場所を把握するのであまり使用していないようだ。今回は同行していないが九鬼嘉隆の九鬼水軍では羅針盤を使用しているという。


やはり日本とその近海の地図は作成すべきだろう。だが、自分も測量の知識は乏しい。三角測量とか原理はしっているが・・尚、通常の検地には縄を用いていたが、縄では地形の正確性は期待できないだろう。


そう!こういう時こそ自分に与えられたかも知れないチート技術だよ!


自分の朧げな三角測量を伝える事で、これを大きく昇華させてくれる人が現れるかも知れないではないか?あの、伊能忠敬も房総の出身だったっけ。

忠敬は天体観測も行っていたという。この時代、外洋を行くには天文の知識は必須だな。現代ではほぼ趣味の学問となってしまった天文学だが、この時代ではまだ現役の旅の知識だ。天文に明るい人材も確保できないか、今度密貿易船が来たら相談してみよう。


と一日景色を見ながら考えていたら、夕刻には釜石に着いた。


ここは、元は小さな漁村だったが、鉱山からの鉄鉱石を運搬するために大型船が停泊できるよう大きな桟橋が設置されている。今夜はほぼ二日振りの陸上での宿泊である。

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