1591年10月1日 治水事業
洪水による防疫給水対策に9月の大半を使った後、本格的に治水事業に取り組み始めた。これは俺の領地だけの問題ではないので、対岸の氏房さん、氏勝さんにも声をかけ共同事業にしようと思ったのだが、彼らは一様に、「治水?なにそれ?」って感じで全然話が進まなかった。この時代の関東に住む者にとっては、あの程度の洪水被害は毎年のことであり、馴れっこになっているのだろう。
仕方がないので、伊勢家だけで下総上総側に堤防を設置することになった。
こういう時頼りになるのはやはり歩くチート集団・三つ者施設隊である。
彼らは甲斐時代にも治水事業を差配した事があり、ノウハウも豊富だった。
現代で堤防といえば、コンクリートが一般的だが、この時代だと、秩父でセメントは採れるが、鉄筋が用意できないという大きな問題がある。鉄筋という基礎なしにただコンクリートを堤防に被せても洪水の際に一緒に流されてしまう。
その点、施設隊の設計する堤防はこの時代に非常にあった物だったのだ。
土砂を盛り上げて作った堤防の斜面には一面の竹を植える。竹はきめ細かい根を張るので斜面の強化には最適の植物なんだそうだ。数年後には風流な竹林に育ってくれるだろう。
俺が唯一口を出したのは河川敷を広く取れ!一言だった。
河川敷は平時には葦など水質改善作物を植えれば良いし、広場を設けて各種訓練場を設置しても良い。角力など遊興の場としても使用できる。川に設置する船着場は簡易な物にし、いざと言うときに舟や設備を撤去、堤防の外まで迅速に移動できるよう工夫した。そして、肝心の堤防だが、土砂を運んできて麻袋に入れ積む。何だか、石田三成が忍城攻めでやった事に似ているが、この下総は土地全体がガス田であり、簡単に土地を掘り返すわけにはいかない。しかし、俺は各地の鉱山開発権を持っているのだ。鉱山から舟で土砂のピストン輸送を開始させた。
通常の川岸から500メートル程の地点に堤防を設置していく。これを、太日川や香取海、印旛浦など、広大な範囲で実施するのだ。来年の野分シーズンまでになんとか間に合えば!という大事業である。
そんな中で三つ者が提案してきたのは太日川と香取海を繋げないか?という物だった。確かに香取海という広大な内海に注ぐ鬼怒川・小貝川からの被害は太日川に比べればとても小さかった。香取海は内海といっても太平洋に繋がっているのだ!いかに濁流が押し寄せても水位の上昇は太日川の比ではなかったのだ。
この案は採用され、関宿城付近で太日川を分岐させ香取海上流の広河までの運河を建設することになった。運河建設なんてこの時代では大事業だが、俺には何と言ってもダイナマイトがある。元々ノーベルは土木作業の為にダイナマイトを発明したのだ。一年前とは違いニトロセルロースを使用したより高威力のやつもあるので、大丈夫と考えた。
三つ者の堤防構築の方法は”シンゲンヅツミ”と言うらしい。太日川本流と運河の分岐点に川の流れを真っ二つにする巨大岩を設置する必要があるという。
つまり、上野や下野といった川の上流から大岩を運んでくる必要があるのだ。
普通なら難作業だが、俺達には強い見方がいる。そう、象達である。彼らは洪水をも生き延び今も元気に草を食んでいる。そろそろ働いて貰うとしよう。
施設隊の先遣隊により予めリストアップされた巨大岩の元に向かう。
彼らのお眼鏡に叶ったのは、巨大であることは勿論、移動させて問題ないか、つまり安全確認に合格した岩である。巨大岩を退かしたら土砂崩れでは本末転倒だからね。象と同じくらいデカい巨大岩をクメール人の女の子に率いられた二頭の象が巧みに転がし、丸石をコロに使用して川岸まで転がしていく。最大の難関は舟に載せる時だ。舟三艘を縄で繋いだ筏のような形になった舟に無事載せられるだろうか?
大木を繋いだ大板まで巨大岩を転がした象たちは、梃の原理を利用し板の反対側に二頭とも乗ることで巨大岩を持ち上げ、見事舟に落とし込んだ。舟が壊れるかと心配だったが水上で浮力を得ている舟は耐えて見せた。これには人間象ともに拍手喝采!象たちに飼葉を弾んだのは言うまでもない。
こうしてた作業を繰り返し集めた巨大岩は都合4つ。流石にこれを只置くのは心配だったので、大木を梁にしてコンクリートで基礎を固めて設置した。
運河の方はダイナマイトが猛威を振るったらしく、岩を集めている間に完成していた。もともと支流のつもりだからそこまで大きく作る必要がなかったというのもある。あとは運河も加わってより長大となった堤防の設置だ。
土を盛ったら踏み固める。を繰り返すのだが、ここでも象は大活躍。頼もしく踏み固めてくれる上、象見たさに領民が大勢集まって来るので踏み固めは極めて順調。
俺としては象堤と名付けたいくらいだよ。この調子なら来年の野分には間に合うだろうと確信して、以後の作業は三つ者施設隊に一任した。




