1591年9月1日 野分
今日から9月、長月である。新暦で言えば10月の中旬といったところだろうか?
いやあ、参った参った。え?何に参ったって?台風襲来とそれに伴う河川の氾濫にだ。台風はこの時代の言葉で野分と言うそうだ。
確かに大地を分けるかのような猛威だったよこの時代の設備で台風を凌ぐのは。
特にここ房総は太日川(渡良瀬川の下流)と鬼怒川が注ぐ香取海に挟まれており、洪水には物凄く弱い土地だというのが良く分かった。
しかも房総は低地に位置しており、一度水が出れば中々引いていかない。
一年前はまだ小田原にずっといたから気が付かなかった。
現代日本の河川の治水事業やダム建設が如何に凄い事か思い知った。
さて、洪水の被害はというと、先ずは水に流され失われた人家畜物である。
戸籍が作られていたから現在確認中だが、少なくない人が犠牲になったのではないか?
そして家畜、氏郷から貰った松坂牛10頭も失ってしまった。おのれ洪水め!
物的被害は先ずは工房の竈が水没した事。水を含んだ竈に強引に火を入れれば壊れてしまう危険があるとの事で、自然乾燥が進むまで暫くは操業停止を余儀なくされた。折角ガラスが特産品に育ち始めた所なのに、これは痛い。
そして、最も恐ろしいのは疫病である。何しろ洪水ほど無差別に飲み込んで襲ってくる物はない。厠だろうが肥溜めだろうが全て飲み込んで下流に流れて来るのだ。
例え水が引いても、それだけでは安心とは言えないのだ。
しかし、現代のような安全な消毒剤などとても用意できないのがこの時代だ。
この時代で用意できるものと言えば、
1.酸化カルシウム・生石灰
秩父で取れた石灰岩を熱して得られる。水害の少なかった上総・安房に運び生成した。微生物の殺傷に用いる。
2.次亜塩素酸ナトリウム液
井戸の殺菌に欠かせない物質だが、安全に製造する方法がない。
現代では電気分解によって水酸化ナトリウムを作るがこの時代はそもそもまだ電気自体がない。
そこで、明礬からアルミを抽出する時にラーニャから教わった方法で炭酸ナトリウムを製造。酸化カルシウムを加水して作った消石灰と混ぜて作成した。食塩は安房から調達できるが灰を緊急に大量に必要としたので木を伐採して燃やしたり、洪水による汚染地帯にある家屋などの木材を強引に天然ガスで燃やしたり、かなり危険を冒して調達した。汚染されたと言っても、それらを焼却地まで運搬することが危険なのであり、燃やして灰にしてしまえば安全なのである。
これを入れた井戸水は消毒済であり感染症の心配はなくなるが、昔の水道水や「プールの臭い」がするので、この時代の人にはより危険に感じるらしく説明が大変だった。
その他、オルソ剤、所謂蛆殺しも必須なのだが、製造にコールタールかベンゼンが必要で現時点で入手不可能。ベンゼンは石油由来なので新津での優先製造品目に加える事にした。
そんな訳で蛆ボウフラを殺す殺虫剤がない。やむなく砒素を便槽やら死骸のある家畜小屋に撒こうとしたが、その前にと思って、吹さんに聞いたら、
シラミならクララの根がよく効く。蛆なら蠅毒草の根を煮詰めて撒くと良いと教えてくれた。流石、毒なら吹さん!クララも蠅毒草も房総で手に入れるのは難しくないので、領民に大号令をかけて集めさせた。
無論、こんなことやっている間にも蛆やボウフラはどんどんハエや蚊に育っていくが、便槽にはヒ素、死骸のある家畜場には近寄らないことを厳命し、なんとか凌いだ。
そんなあたふたしている所に波田家の向崎甚内が配下を引き連れてやって来てくれた。どうやら、新米城主の俺が苦戦しているだろうと踏んで応援にきてくれたようだ。表向きとはいえ、そこはプロの厠汲み取り業社、実に手際よく作業をしてくれる。しかも、領内の浮浪者共を集めて手伝わせたり手際のよい者にはリーダーに任命したりとマンパワーの確保も迅速だ。汲み取った汚物は舟で外洋に運び投棄させた。
広大な下総だが、波田屋の活躍と領民が集めたクララと蠅毒草のお陰で、なんとか、パンデミックは防げそうだ。
波田家には房総に支店を出すよう正式に要請した。今まで房総には厠掃除業者はいなかったのだ。みんな肥料にまわしていたからね。しかし、これからは畜産にシフトしていくのだから、汲み取り業社は必要になる。もう一つは河川に堤防の設置だ。これは三つ者の施設部隊に相談しよう。
下総を何とかしている間に、一応俺の領地である伊豆諸島の状況も水軍に視察に行かせたが、もともと、大河川がないので汚物の被害は少ないとの事。島民は蠅毒草の事を知っており、便槽にはたっぷり撒いていたそうだ。目下の課題は野分で押し寄せた海水による塩害だそうだ。斜面にある椿畑も結構被害を受けたらしい。ただ、これも島民たちには毎年の事なので分担して作業して対処していたとのことだった。
今回の野分の件で、自分が如何にこの世界の人を上から目線で見下していたかを思い知らされた。現代からやってきた化学者と言っても、材料がなければ何にもできない。生石灰や次亜塩素酸ナトリウム液を領民を危険に晒して生産し散布した程度だ。今回活躍したのは吹さんや波田家などこの世界の知識層と彼らに差配された地元の領民達なのだ。伸びに伸びた天狗の鼻をへし折られた気分だった。




