サブロー
10年前、遊び友達から仲間外れにされていたサブロー、いや賢治は、辛くも厄災を逃れた。たった一人、裏山の惨劇から生還を果たしたが、網膜に焼きついた赤い風景は、賢治の精神を長年かけてじわりじわりと侵食していった。物語世界へと没入し続ける賢治の仕事が、それに拍車をかけた。
「サバイバーズ・ギルト。君は罪悪感を感じてしまったんだ。4人にはそれぞれ夢があった。太志は子供たちに夢を与える仕事。あげはは疲れた大人を癒やす仕事。優希は病魔に冒された老人に寄り添う仕事。達弘は社会を大きく変えていく仕事。
それなのに賢治は、なんの取り柄もない自分だけが生き残ってしまったと、自らを責め苛んだ」
「そうだ……。僕は一番年上だったのに。誰も守れなかった。僕がしっかりしていれば、みんなを死なせることはなかったかもしれないのに……」
「だから君は、がぜん張り切って小説家を目指した。死んでいった子たちの分も、人生を紡いでいくために」
「その通りだ、サブロー――いや」
「かまわない。僕のことは便宜上サブローと呼ぶがいいさ」
「分かったよ、サブロー。僕にだって夢はあったんだ。もしかしたら、あの日のことを書けるかもしれない。真相を解明する手がかりになるような本を」
「でも君は満足しなかった。だから手っ取り早く満足したいため、近道を選んだ。罪滅ぼしのため、死んでいった子供たちの人格を己の中に作り出し、身体を差し出すことで、その人生を歩ませようとした」
奇しくもあの日「鬼」に殺された順番通りに、人格は生まれていった。
サブローは操作パネルを調節した。モニターの一つに、1ヶ月前の光景が映し出された。
「最初は太志が生まれた」
「家の一室を改造して、週に何日か、僕はゲームにのめり込んだ。次第に母さんに暴力を振るうようになった」
応接間モニターの中で、グラスを持った母が現れた。彼女が人数分より多い6つのグラスを持っていったのは、日頃「賢治」の人格から、6人で裏山で遊んでいたと聞いていたからだろう。実際、応接間には賢治一人しか映っていない。彼は突然立ち上がると、母に右フックをお見舞いした。
サブローが再び機器のつまみをいじった。
「次にあげはが生まれた」
「僕は女の子にだってなれた。ゲイバーの店員として、あげはと名乗って接客をした」
週に数日、夜は「あげは」の時間だった。あげはは華奢な賢治の肉体に可憐な衣装を纏い、男を癒やす店へと繰り出した。4つの人格はそれぞれの生活・それぞれの携帯電話を所持していたが、数日前のあの日、あげははどこにも繋がっていない携帯電話で賢治と話をした。人格同士では会って話すように錯覚することもできたし、電話という形で会話することもできた。しかし周りから見れば独り言のようにしか見えなかったし、通話の記録も残らなかった。
「優希は君の表の顔になったね」
「昼間は看護学校に通うようになった。女の子っぽい男子学生として」
実際に裏山で死体を掘り返したのは、賢治一人だった。「達弘」「優希」「賢治」、3つの人格が代わる代わる現れ、役を演じた。警察の取り調べを引き受けたのは「優希」だ。真面目な学生としての信用があったから、話はこじれずに済んだ。
突然、サブローは思い出し笑いをした。
「『解剖実習で使う動物を探していたんです』――ぷぷ、そんな下手な言い訳ってあるのかな」
「その時はなんとかなったんだから、いいだろ」
翌日、優希が病院で襲われた時、賢治は家から駆けつけたわけではなかった。意識が交代しただけだったのだ。「優希」が薬品で倒れた後、彼女の人格だけが消え、残った「賢治」が現れた。そしてすぐにガスを吸って意識を失った。
「最後に達弘が生まれた」
「彼の人格は、昔に夢見ていたように社長を目指した」
しかし簡単になれるはずもない。「達弘」は犯罪紛いの行為で成り上がった。賢治の別人格たちは皆、自力で運命を切り開く度胸とがあった。短期間にゲームが上達し、夜の蝶となり、国家資格にも近付いた。達弘も曲がりなりにも成功を収めた。一度死んでいるという経験が、その根底にあったのかもしれない。
「達弘は度重なる襲撃で疲労していた。精神は別でも、身体は共有していたから。だから小柄なサブローに遅れをとった」
「良い線を突いていたけどね。殺したような衝撃を与えれば人格は消える――実質的に『殺せる』ことに気付いた彼は、先に賢治を襲わせようとした。その隙に人格を乗っ取るつもりだったんだ」
この1ヶ月に連続して起きた4つの「殺人」。それは肉体の消失ではなく、精神の消失だった。人格の喪失だったのだ。
サブローはいつの間にか地下室のモニターを巻き戻していた。台座の上で自らを縛っていく男の姿が映されている。その人格は「達弘」だ。
「達弘はあろうことか、ぼくを利用して『賢治』の方を消滅させようとしたんだ。そして完全に肉体を乗っとろうとした。他の3人が消えたのをいいことに!」
「だけど達弘の企ては成功しなかった。夢の中に現れたんじゃ、防ぎようがないから……。君の正体はやはり幻覚なんだろう。だけど、どうして僕は『サブロー』を作ったんだ? 僕たちの生活は上手く回っていたように思えるけど――」
「どこがだよ!」
サブローは怒鳴った。
「君はまだ気付いていないのか? 昔から全く変わっていないね!
小説家という曜日感覚の狂いやすい仕事をいいことに、4つの人格は君の人生を侵食していったんだよ」
「まさか。みんなはこのことを知って……?」
「その通りだ! ああ、馬鹿らしい!」
賢治は慟哭した。優希が謝ろうとしていたことはこれだったのか。みんなは賢治に隠し事をしていたのだ。結局彼は仲間外れにされていた。目の前の少年の言う通りだ。サブローと呼ばれていた頃と、なにも変わっていなかった。
「みんなは賢治の好意につけ込んだんだ。当の本人がなにも気付いていないのを良いことに、身体を好きに使い始めた」
「そんな。嘘だ」
「でも君は優しい人間だ。完全に乗っ取られるまでこの生活を続けただろう。だからぼくがこらしめてあげたんだ」
そういえば、賢治の子供の頃のトレードマークは、すきっ歯だった。賢治はサブローの歪んだ口元を見ながらぼんやりと思い出した。
「あの日みたいに皆がいなくなれば、賢治がいじめられることはなくなる」
「だから僕は6番目の人格を作り出したっていうのか! 心の中に、鬼を……」
サブローは動揺する賢治におかまいなしに、矢継ぎ早に犯行の様子を挙げていった。
「太志の時は簡単だった。足をつるって滑らせて、死なない程度に頭を打ち付けるのさ。首の神経を痛めてしまったけどね」
「あげはの時は、絶妙な力加減が必要だった。自分で自分の首を絞めるんだからね。でもちょっと興奮したかな」
「優希が吸ったガスはそもそも致死量に達していなかったけど、人格に強い精神的ストレスを与えれば良かったから、あれで十分だった」
「達弘は強気な手段に出たね。ぼくも賭に出ざるを得なかった。疲労が蓄積されていると言っても、精神的にも肉体的にも屈強だ。だから強烈な一撃を与える必要があった。完全に心を折ってしまう一撃が」
4人がなす術もなかったのも納得できる。安全な隠れ家などなかったのだ。鬼は最初から心の隙間に入り込んでいたのだから。
賢治はふと寒気を覚える。ではあの時も――病院で男の子をタコ殴りにした時も、あれは賢治の人格だったのだろうか? 母親に暴力をふるっていたように。人を殴った嫌な感覚が手に蘇ってきて、賢治は吐き気を感じた。
いや、身体の不調はそれだけが理由ではなかった。4つの人格がショックで消えてしまうたびに、賢治は死にかけてきたのだ。頭を強く打ち、首を絞められ、達弘の時などは、心臓に穴が開いてしまうほど。生還できたのは奇跡だろう。
「これはぼくにとっても賭けだったんだ。でも『賢治』の人格を守るにはこうするしかなかった。多少身体の方が故障してもね。
でもいいよね。今は車椅子だってあるし、いざとなれば臓器も取り替えられる!」
明るく笑ったサブローの言葉を、賢治は愕然とした気持ちで聞いていた。本当に、今まで自分の中にこんな鬼が棲み着いていたというのか……? 賢治は空恐ろしいような、寒気がするような、最低な感情に塗れていた。
「……君は、これからどうするつもりなんだ。目的は果たしただろ」
「そうだね。でもぼくは消えたりしない。いつでも君のそばにいる。また君がいじめられそうになったら、いつでも鬼になる。何度でも守るよ」
それまではさよならだ。サブローは目深に被った帽子を取り、笑った。賢治は眩しいものを見るように目を細め、露になった顔を凝視した。
「あ、でも折角だからこれだけはやっておこうかな」
サブローは茶目っ気たっぷりに微笑んで、人差し指を賢治の上下の唇の中に差し入れた。賢治はつられて、細い指に吸い付く。
安心したのか、賢治の意識は今度こそ限界を迎えた。車椅子に座したまま深い眠りにつく直前に、賢治は遊びが終わる合図を聞いた。
「みぃつけた」