宮川賢治
「退院おめでとうございます」
「ありがとうございます」
2度目の入院生活ですっかり顔なじみとなった看護師が、賢治を見送りにきてくれた。短い監禁生活の間に衰弱しきっていた賢治は、優希が襲われた病院に再び入院していたのだ。生死の淵を数日間さまよったものの、高度な治療と手厚い看護のおかげで賢治は一命をとりとめたのだった。
「まあ、いつかまた来てね。怪我で来るのはもうごめんやけど」
「お世話になりました……本当に、ありがとうございました」
賢治は車椅子の上で深々と頭を下げた。別れを惜しみながら、心の中では彼女に二度と会うこともないだろうと思っていた。賢治は、隠れ鬼の最後の一人になってしまったのだから。
とめどなく、涙が溢れてきた。なんだか無性に悲しい気持ちだった。
「あらあら」
母は賢治の顔にハンカチを当てた。その横顔は慈愛に満ちていた。
「もういいよ。大丈夫。母さんが何度だって守ってあげる。あなたはいつまでたっても私の子供なんやから」
「母さん、人前だよ……」
賢治は頬を赤くした。看護師は微笑ましく親子を見守っていた。
もう賢治は、自力で隠れることも、逃げることもできない。
自宅へ戻った賢治は、意外にも、これまでにないほど穏やかな日々を過ごしていた。死を覚悟したからだろうか。不思議なくらい、小説の執筆が捗るのだ。後遺症で足を動かしづらくなっていたが、一日中パソコンに向かっているため不都合は感じない。達弘が明かした残酷な真実もさほど気になっていなかった。売れなくてもいい。本にならなくてもいい。今は頭の中の物語を吐き出す作業が、この上なく楽しかった。
達弘は発見された時、心臓の壁に穴が開いていたという。死に物狂いで強度の運動を続けると、最後にはああなるそうだ。彼は最期に、どんな夢を見ていたのだろうか。
「かくれおにしよぅよ」
賢治にも、ついにその時が訪れた。
「もういいかい」
部屋の壁に、こちらに背を向けて短パン姿の少年が立っている。実際に声を聞いてみると、やはり恐ろしい。しかし賢治の心にはさざ波一つ立っていなかった。4人がすでに通った道だ。太志。あげは。優希。そして達弘も。僕は彼らに導かれるように旅立てば良いのだ。
賢治は車椅子を操作し、狭い書斎を出た。
「まあだだよ」
暗い廊下をのろのろと進んでいく。この1ヶ月、葬儀や死体捜索で何度か外出はしていたはずだが、家の中を見るのは随分と久しぶりな気がした。気付かないうちに、染みや汚れが増えているように思えた。
床のどす黒い、凹んだ跡が気になった。別の部屋の扉が、外向きに小さく開いている。賢治は片手を伸ばし、ドアをぐいと引き寄せた。
部屋の半分はゴミで埋め尽くされている。放置されたパソコンのモニターでは、勇者を失った世界が、それでも以前と変わらぬ営みを続けていた。
「ここは……太志の部屋?」
「そうだよ」
すぐ後ろで子供の声がした。
「まあだだよ」
それでも賢治は焦ることなく、どこか夢心地で、部屋の並んだ廊下を進んでいく。
扉を開いた。極彩色のキャミソール、ブランドもののバッグ、派手な下着類が乱雑に干された部屋。
扉を開いた。勉強机。壁を埋め尽くす参考書。女の子らしいぬいぐるみがベッド脇で並んでいる。
「もう。女の子の部屋は覗いちゃだめって、ママに言われなかった?」
「……まあだだよ」
賢治は廊下を抜け、開けた空間に出た。応接間だ。照明の一部は割れ、壁には穴が開いている。床には乾いた血痕や白い歯の欠片が転がっていた。先月訪れた時から数十年は経ってしまったかのような荒廃ぶりだ。
「この前もこれくらい汚かったよぅ」
「まあだだよ」
おかしい。さっきのはあげは、そして優希の部屋か。太志の部屋といい、どうして賢治の家に彼らの部屋が存在しているのか。これは夢なのか?
「夢じゃないよ」
いつの間にか、賢治の手は完全に止まっている。それでも車椅子が動き続けるのは、サブローが後ろから押してくれているからだった。
「……僕を捕まえないのか」
「まぁだだよ。あはは、逆じゃん!」
サブローの哄笑が薄暗い家中に響き渡った。賢治は軽い耳鳴りを感じながら、違う部屋に案内された。
そこは太志の部屋と雰囲気が似ていた。異なっていたのはパソコンの数。壁一面に幾つものモニターが設置され、どれも薄暗い映像を流していた。中には先ほど見た部屋のいくつかもある。賢治の目が引き寄せられたのは、左隅の画面。小さな部屋の様子が映し出されていた。中央には、解剖に用いるような無機質な台座が次の獲物を待ち構えている。
「ここは達弘の隠し部屋だよ」
その達弘とおぞましい夜を過ごしたあの地下室の様子を、賢治はモニター越しに凝視した。この家の地下にあるに違いない。賢治はめまいも感じていた。ある恐ろしい真実にもう少しでたどり着けそうで、もう一歩のところで二の足を踏んでいた。それを知ってしまえば、二度と元には戻れないと悟っていたから。
「それでも君は知らなければいけない。なんでも言い出しっぺが責任を取らなければいけない。
この生活を始めたのは、賢治。君なんだから」
「サブロー。だから、僕は、まだだって、」
「もういいんだよ、そんなことは」
サブローは苛ついた口調で賢治の後ろから離れると、モニターを操作し始めた。目深に被った野球帽のせいで、やはり横顔は覗えなかった。
「だいたい『サブロー』ってなんだよ。三郎君か? そんな人間がいるって、本当に思っていたの」
「いや、確かにサブローはいたじゃないか。僕たちが見殺しにした、可哀想な上級生――」
「違う! サブローは死んでなんかいない」
「じゃあ、君は生きている人間なのか」
「そういう意味じゃない。ただサブローとあだ名された人間がいただけだった。本名は全く違う。
お前、本当に小説家か? 宮川賢治」
賢治が息を呑んだのと同時に、モニターの一つが切り替わった。動きの少ない他の画面とは異なる、鮮やかな映像。ニュースキャスターが、緊張の面持ちで速報を伝えていた。
『たった今入ってきた情報です。先月二十日、○○市の住宅街の裏山で発見された児童の遺体は権田太志くん(失踪時12歳)と判明しました。同じ山からは別人のものと思われる白骨化した子供の遺体も複数見つかっており、警察は10年前の複数児童失踪事件の手がかりとみて捜査を続けています――』
耳を疑った。太志の遺体が見つかった? お葬式はもうとっくに済んだじゃないか。それに子供って……。複数の遺体?
「真相は逆だ。サブローが死んだんじゃない。10年前、たった一人生き残ったのがサブローで、他の4人が殺されていたんだ」
賢治はサブローの言葉を信じられなかった。しかし唐突に脳裏に浮かぶ光景があった。夕焼けに染まる裏山で、「赤鬼」がいた。そうとしか形容できい怪人だった。顔の上半分を覆う鬼のお面を被っていたのだ。口元には残忍な笑みを浮かべ、次々と仲間を捕まえていった。
「……そうだ。どうして忘れていたんだ。『サブロー』は、風の又三郎からつけられたんだった……」
「小説家志望で、名前がそれじゃあ当然だね。標準語のせいで周囲からも浮いていた」
「僕が、宮川賢治がサブローだとするなら、君はなんなんだ。僕が作り出した幻覚だっていうのか」
「どうしてそんなに驚く。君はそれどころじゃないくらい、想像力豊かじゃないか」
自宅にあった4人の部屋。すでに死んでいた4人。1週間があっという間に過ぎていくと感じていた僕。最近になって急に時間ができたように感じていた僕。その僕がたった今、サブローという幻覚と対話しているという事実。
そして、賢治は確かに覚えていた。賢治が賢治以外の4人として生活していた記憶を。
「僕は多重人格者だったのか」