他校生の告白
高校二年生の六月十三日のことだった。梅雨入りを果たし、不安定な気候が続いていた。気候が安定せず、六月とは思えないほど肌寒い日もあれば、湿気によっては余計に蒸し暑く感じる日もある。
その日は曇天だった。今にも泣き出しそうな厚い雲が空を覆っている、暗い朝だった。
通学の為にもう何度も乗っているバスの座席に腰を落ち着けていた。前方には優先座席が固まっている為、私はいつも後方の空いている席に座る。一人掛けの座席に座る私の隣に立った少年が、こう口を開いた。
「初めまして、梨本と言います。差し支えなければ僕とお付き合いしていただけませんか?」
にこにこと笑う少年は、回りの目も気にせずそうあっさりと言いきった。そのあまりにも情緒のないそれが、私の人生で初めての告白だった。
◇◆◇
それから一週間が経った。私はその告白にしてはあまりに淡白な物言いに困惑はしたものの、はっきりとお断りをした。何しろ、彼は名前すら知らないほど、明らかな他人だったからだ。知らない人と付き合えるほど、私は大胆な人間ではない。
それなのに、
「おはようございます。柿崎さん」
梨本と名乗った彼は、あの日以来毎朝のように私に声を掛けてくるようになった。私よりも三つ後の停留所から乗車する彼は、いつも一人掛けの席に腰掛ける私を見付けると、にこにこと笑顔を浮かべ、こちらに近付く。名前を聞かれ、素直に答えてしまったことも今では後悔していた。
「おはよう、梨本くん……」
「今日も朝から柿崎さんにお会いできて、なんというかその……テンションが上がりますね」
「…………そう、それはよかった」
特別普段と変わり映えのないテンションでそう言われても、全くそうは見えない。そこまで考えて気付いた。いつの間にか『普段の彼』という発想が出て来る程度には、彼の存在に慣れてしまっている。
「あのさあ、梨本くん」
「何でしょう?」
「私と付き合いたいって前告白してくれたよね?」
「はい、しましたね。そして振られてしまいました」
あっさりと彼はそう口にする。痩せぎすだが背が低すぎる事はなく、アイロンの掛けられた有名な進学校の制服を着ている。自然に整えられた髪にも清潔感があり、にこやかで一見すると取っつきやすい少年だ。爽やか、と言っても良いだろう。
しかし、口を開けばいまいち理解出来ない言動があまりに多い。
「普通、告白して振られたら距離を置くものじゃないの? 気まずいじゃん」
ましてや、私達は元々知り合いでもない。こうして梨本くんが近寄ってさえ来なければ、私達の縁はあの日のあの数分だけで終わったはずだ。
「振られたら、挨拶をする事も許されないんですか?」
「そこまでは言ってないけど……」
あの日以前は全く接触しても来なかったのに、振られてからぐいぐい距離を詰められる意味が分からなかった。普通は逆ではないのだろうか。告白するまでに距離を詰め、振られて距離を置くものな気がする。
それをそのまま伝えれば、梨本くんは納得がいったかのようにうんうん、と頷く。
「告白するまでは全くの他人だったじゃないですか。他人に朝の挨拶をするのは変です。けれど、僕が告白をする事によって、お互いに名前を知りました。僕らは晴れて知り合いに昇格した訳です。知り合いを見付けて声を掛けるのは、何ら不思議なことではないでしょう?」
あまりにも自信満々に堂々とそう言われ、思わず『う、うん。そうかな……』と頷いてしまったが、頷いてから今は肯定するところではなかった、とすぐに後悔する。ここで流されてしまうから、梨本くんはいつまでも私を気に掛けてしまうのだ。
「けど、私は梨本くんを好きじゃないし、話しかけても意味ない」
突き放す為にそう言ったのだが、彼はやはりまるで傷付いた様子もなくにっこり笑う。
「柿崎さんと関わることに意味があるんですよ」
彼は、私と同じ高校二年生とは思えない素直さでそんなことをさらりと口にする。毎朝の通り、どう反応すれば良いのか困惑する私をよそに、梨本くんは停留所に着きましたよ、と私の降車を促した。
◇◆◇
「ねぇえ、めぐちゃん。どう思う?」
「めぐちゃん言うな」
昼休みに梨本くんの事を相談しようと一年時のクラスメートを訪ねれば、友達である生島の彼氏のめぐちゃんも一緒だった。よく考えれば、この二人は付き合う前から友達だった為か、いつも一緒にいるので当然だった。余程気が合うのだろうと思う。同性だったら普通に親友になっていたのではなかろうか。
めぐちゃんはめぐちゃんと呼ばれる事に毎度きっちり文句を言うが、その一回の文句を言えばあとは見逃してくれるので、その要望に耳を傾けたことはない。
「せっかくだし男の子の意見を聞かせてよ」
「俺はそいつじゃない。よってそいつの意見は分からん。以上」
「めぐちゃん、正論は誰も救わないんだよ」
当然私を困惑からも。私達のやりとりを見ていた生島が、くすくすと笑う。生島は以前まで、まるで物語の王子様のような振る舞いをしていた。紳士のごとく女性をエスコートし、優しさを振りまいていた。王子様を意識していたからか、彼女の笑い方は妙に上品で、少しだけドキドキする。
生島は綺麗になった。元々整った容姿をしていたが、彼女が意識的に女性らしく振る舞う事によって、最近ではさらにその魅力を増している。彼女が髪を伸ばし始めたり、王子様らしい振る舞いを止めたのはめぐちゃんと付き合い始めてからで、それを知った私は思わず唸ったものだ。めぐちゃんすげえ。
「でもそれだけ食い下がるって、余程柿崎のことが好きなんだね」
「付き合ってやれば? 試しに」
「めぐちゃん適当に言ってるでしょ? 知らない人とは付き合えないでしょー!」
正直に言えば、付き合ってから好きになるのもアリだと思っている派だが、梨本くんは何だか得体がしれなくて安易に頷けない。見た目が致命的に無理という訳ではない。
ちょっと痩せ過ぎなところは心配やら羨ま妬ましいやらだが、むしろ清潔感があって好感度は高い。ただ、あのいまいち噛み合わない会話が、どうも向き合っていて不安な気持ちになる。
「ていうか、あれ?」
先程の生島の言葉で、私はとんでもないことに気付いた。
「そういえば私…………好きとは言われてないような?」
付き合って欲しい、とは言われたが、そういう彼の感情めいたことは一切聞かされていなかった。なんということだ、告白とはそうした想いの丈を語るものではなかったのか。
いや、別にこうしないといけない、というような作法などないのだろうが、何を考えているか分からない梨本くんが相手だと、どうしても穿った考えを持ってしまう。
「緊張して忘れてたんじゃないの?」
生島はそう口にする。それがまあ、一番有り得る発想だが。しかし、どうにも、どれだけ梨本くんの顔を思い出しても、そんな殊勝なタイプとは思えなかった。
◇◆◇
翌日の朝、さっそく私はそれを尋ねてみることにした。私の事が好きなの?なんてとんでもない自惚れ発言のようだが、付き合いたいと言って来たのは彼の方なので、何も恥じる事はない。うんうん、そういう事にしておこう。私はそう自分に言い聞かせ、無理矢理納得させる。
いつものように乗車して朝の挨拶を告げる梨本くんへ、私は食い気味に尋ねた。
「梨本くんは、私の事が好きなの?」
彼は、珍しく虚をつかれたように目を丸くする。あ、ちょっと可愛い。普段にこにこし過ぎていっそ不気味に感じていたので、その思わず漏れてしまったような表情には少々好感を持てた。
「…………そうですね、おそらく」
「おそらくって何? 普通、好きだから付き合いたいものじゃないの?」
「何もかも初めてなもので、そうはっきりとは……」
煙に巻くような普段の調子は鳴りを潜め、彼は珍しく歯切れ悪く口にする。どうも戸惑っているようだ。私は少し、会話の主導権を握れたように感じて気分が高揚する。
「だって、そうじゃないならどうして私と付き合いたいの?」
こんな機会は早々ない、と調子に乗ってそう問い詰めれば、彼はまず向かい合った状態で視線を逸らした。んー、と呟きながら次に視線は上を向き、右に流れ、それからようやく私の目へと戻ってくる。視線が合って、途端に調子に乗った事を後悔した。何だか無性に嫌な予感がしたのだ。
「泣いて欲しかったからかなあ」
梨本くんはそう、へら、と笑いながら口にした。さっきまでの気分の高揚はすっかり消え失せ、私は確信する。これはあれだ。変態だ。他人の苦しみに異様な喜びを感じるタイプの変態に違いない。やはり名前を教えるべきではなかったし、私は徹底的に無視して避けるべきだったのだ。
田舎でバスが三十分に一本しか来ないから、と同じ時間のバスに乗り続けてきたが、私はさっさと一本早いバスでの通学に切り替えるべきだった。そうやってあからさまに避けると傷付けるかな、なんて妙な気遣いを持った自分自身を心底罵倒したい。
「あの、別に柿崎さんを傷付けて泣かせたい訳じゃありませんからね?」
余程私の後悔やら怯えが顔に出ていたのか、梨本くんは苦笑しながらそう口にした。私は完全に疑いを隠せず、立って吊皮を掴む彼をジト目で見上げる。
「じゃあ、どういう意味?」
梨本くんは誤解を解くべく言葉を募るようだ。まだ完全に疑いが晴れた訳ではないが、私の早とちりだったならそれに越した事はない。ぜひ、もう少し気持ちが軽くなる言い訳を聞かせてもらいたかった。
梨本くんは、私の視線を受けてにっこりと笑う。
「柿崎さんには泣き顔が似合うなって思っただけですよ」
十分問題ありだと、引きつった私の顔で察して頂けると有難い。
◇◆◇
梨本くんはあれだろうか、泣き顔フェチなのだろうか。あるいはドSの人? 私はやはり悲しそうな顔よりは、笑顔の方が取っつきやすいし見ていて明るい気持ちになれて好きなので、きっと彼と分かり合える日は永遠に来ないだろう。
そういう訳で、変な情けは無用だと、とうとう私は三十分早いバスで登校する事にした。久しぶりの静かな通学は、ちょっとうきうきしてしまうほど心地のいいものだった。私はどうも思った以上に梨本くんの猛攻に疲れを感じていたらしい。
その日一日、私の機嫌は良かった。相談をしていたので、昼休みにこういった結果になったと生島とめぐちゃんに報告に行き、めぐちゃんに冷たい目で見られるくらいテンションが高かった。
やはりあれだ。人には自由が必要なのだ。かつて自由を求めて壁を壊したように、人の自由への渇望と、それを手に入れた喜びは何ものにも代えがたいものがある。
それ、なのに、
「お疲れ様、柿崎さん」
私はぞっと血の気が引いた。放課後、下校しようと校門を潜れば、不本意ながらよく見慣れた人物がそこに立っていたからだ。何やら騒がしいとは思っていたのだが、どうやら他校の生徒がそこにいた事が原因だったらしい。
「何でいるの?」
「今朝は柿崎さんにお会い出来なかったので、寂しくて」
物珍しげに他校生へ視線を向ける周囲の人たちなんて気にも留めず、いつも通りにこやかに笑う梨本くんに、脅されているような心地になった。彼を避けた私が悪いのだと、そう責められているような。
「梨本くん、怖い」
馬鹿正直に、私の唇から拒絶の言葉が出た。ストーカーだ、こういうのをきっと、ストーカーと言うのだ。どうしよう、私は警察に行くべきだろうか?
体が震えないように、鞄を肩に掛けている左腕を、右手でぎゅっと握った。顔はおそらく青褪めているし、声の震えまでは隠せなかったと思う。すると、梨本くんは少しだけ困ったように眉を下げた。
「すみません、やり過ぎました」
梨本くんは、あまりにあっさり謝罪を告げる。怯えていた私は、思わぬ彼の素直な態度に困惑し、まばたきを繰り返す。
「怖がらせてすみません。すぐに退散しますので。それでは失礼します」
そしてその身を翻し、梨本くんはバスの停留所があるのとは逆の方向に向かって立ち去って行った。そう言えば、行きは毎朝同じバスで顔を合わせているが、帰りのバスで彼と鉢合わせたことはなかった。
もしかしたら、帰りは違う道順で帰っているのかもしれない。まさか、本当はいつものバスの沿線に住んでいるのではなくて、私を付け狙ってあのバスに乗っているということは流石にないだろう。そう信じたい。
安堵から腰が抜けそうになりながら、私はのろのろとバスの停留所に向かって歩き出す。校門から出ていく同じ学校の生徒たちの好奇の視線すら、気にする余裕がなかった。
◇◆◇
次の日、私はいつも通りの時間のバスに乗った。梨本くんに学校まで来られたのが相当恐ろしく、それならば朝のバスで数十分顔を合わせる方が余程ましだと思えた。
先程から、小雨が降り始めた外の景色を、バスの中からぼうと見詰める。傘を持ってきておいてよかった。家を出たときは微妙な曇り空だったので、傘を持ってくるか随分悩んだのだ。
いつも梨本くんが乗車するバスの停留所で停車すると、心臓がバクバクと脈打ち始めた。血の巡りが異様に早くて、背中には変な汗を掻いていたが、これは湿気の籠った不快な熱さのせいなのだと自分に言い聞かせる。バスの中は快適な程度に冷房が利いていたが。
「おはようございます、柿崎さん」
彼はいつものように私に声を掛ける。その声に、一瞬肩を震わせる。ぎこちなく顔を上げれば、いつもとは違い、困ったような顔をした梨本くんと目が合った。その顔が、いつもの妙ににこやかな笑顔よりは余程人間らしくて、少し安堵する。
「昨日はすみませんでした。やり過ぎました」
すぐに、梨本くんは謝罪の言葉を口にした。その頼りないというか情けないようにも見える表情が珍しく、本心から謝ってくれているように見える。もしかしたら、彼としてもちょっとした悪戯くらいの気持ちだったのかもしれない。
「もういいよ……」
そう真剣に謝られると、何だかこちらが変な意地を張っているようにも思えてきて、小さな声ながらはっきりとそう伝える。めぐちゃん辺りがこの様子を見ていたらちょろ過ぎ、とでも言われてしまいそうだ。その場合は生島に慰めてもらおう。
「もう会えないかと思いました」
会わないようにしたいとは思ったが、私は学生の身で、両親は去年夢のマイホームを建てたばかりなのだ。まさか引っ越す訳にもいかない。私の家からは最寄駅が遠く、登校するにはバス以外の手段は選びにくい。否が応でも私はこのバスを利用するしかない。
「梨本くんはさ、帰りはバス使わないの? 帰りに会ったことないけど」
「放課後は塾に行ってるので、帰る時間が遅いんです。それで会わないんじゃないでしょうか?」
なるほど、私は相槌も打たずに心の中で納得する。それきり、私達の間には沈黙が流れた。いつもは何かしら会話をしていたが、さすがに昨日の今日で、梨本くんも空気を読んでくれたらしい。彼の殊勝な態度に恐怖は和らいだが、今度は反比例して少なからず腹立たしさが芽生えている。
私の通う高校前の停留所に辿りつき、いってらっしゃい、と口にする梨本くんに、拗ねたまま小さく行ってきます、と返して降車する。地面に降り立っても小雨は止んでおらず、私はお気に入りの赤色の傘を開いて歩き出す。背後からバスの発車する音が遠めに聞こえた頃、呼び止める声が届いた。
「柿崎さん、待って!」
梨本くんだった。彼の高校に一番近い停留所は二つ先のはず。まさかまた何か怖いことをする為に追い掛けて来たのかと身構えたが、彼の右手に見慣れたピンク色のハンカチが握られていることに気付く。
「忘れ物ですよ」
傘も差さずに私の目の前まできた梨本くんは、それを私に差し出す。そういえば、バスに乗車する際、少し濡れていた身体をそれで軽く拭いたのだった。そしてそのまま膝の上に置いたのだが、忘れて落としてしまったらしい。
「え、え? ごめん、わざわざ! バス行っちゃったし、どうしよう? 次のだと間に合わないよね?」
「ここからだったら歩ける距離ですし、お気になさらず。それじゃあ、」
「あ、待って! 傘は?」
「このくらいなら平気です!」
そう告げて、梨本くんは雨の中を駆けて行った。バスは彼の学校の前で停車するので、私がハンカチを忘れなければ雨の中走って登校することはなかったのに、と罪悪感が湧いてくる。
小雨とはいえ、雨の中を傘も差さずに登校して風邪でも引かないかと、一日中心配して落ち付かなかった。
◇◆◇
私の心配は杞憂に終わり、梨本くんは次の日の朝もいつも通りバスに乗車した。
「本当にごめんね」
「別に大丈夫ですよ」
迷惑を掛けてしまったと申し訳なくなって改めてそう告げれば、彼は穏やかにそう口にして、それからじっと私の顔を見つめた。あまりに真っ直ぐ見詰めるものだから、居心地が悪くてどぎまぎとしてしまう。視線を逸らせば、彼はいつもの微笑みを浮かべた。
「風邪引かなかった?」
「六月にあの程度の雨じゃあ風邪なんて引きませんよ。さすがにそこまで軟弱ではありません」
そう彼は言ったが、吊皮を掴む梨本くん手首は、ちょっと心配になるくらい細い。それは手首だけではなくて、彼は全体的に同じ年頃の男の子に比べると随分細かった。肌も白めで、顔なんて時々青白く見えるほどだ。どうにもそういった見た目から、不健康な印象を持っている。
「……梨本くんさ、普段何食べてるの? むしろ何を食べてないの?」
思わず我慢出来ずにそう問い掛ければ、彼は目を丸くする。その表情は、少しだけ彼を幼く見せた。
「どうしてそんな事を聞くんですか?」
「え、えーと、見習いたいっていうか……参考までに昨日の夕飯は?」
自慢ではないが、私は食べたら食べるだけ肉になる体質である。その為に、食事にはそれなりに気を使っているつもりだ。本当に何の自慢にもならなくて虚しい。お菓子も食べ過ぎないように、ひ、控え……控えられるように気持ち頑張っている。
「あー……ええと、昨日は」
何気ない世間話の範疇だと思うのだが、梨本くんは妙に歯切れが悪い。不思議に思っていると、彼から驚くべき返答が届いた。
「夕飯食べてなくて。元々夜は食べなくて、」
「え! なんで……」
「夕飯、苦手なんです」
何という事でしょう! 私は思わず心の中で唸った。夕飯が苦手ってどういう事だろうか。体質的に食欲が湧かないという事だろうか。ついつい食べ過ぎてしまっていつも後悔している私としては、正直羨ましくも思える。
いやいやでも、よくよく彼の細すぎるくらいの体型を見て、尚且つ十七歳の男の子であることを考慮すると、それは非常に不健康でよくないことではないのだろうか。
「家の人に心配されない?」
「親は、たぶんもう諦めてると思います」
「ううん、気分悪くなっちゃうとか?」
「何というか、食べると顔が熱くなって、噛んだときに口の中で唾液が溢れるのが気持ち悪くて……」
その感覚がいまいち想像出来なくて、私は素直に疑問符を飛ばした。顔が熱くなるというのは、彼の家ではアツアツの献立ばかりが並んでいるということだろうか。確か美味しそうなものを見たときとかに唾液は増えるので、それはむしろ食欲をそそられているのではないかと思うのだが。
「僕にとってはそれが普通の事なので」
梨本くんは、そう困ったように笑った。当たり前の事を妙に追及されても確かに困るだろう。私だって、どうして夕飯の後のアイスを我慢出来ないの? と言われれば返答に困る。美味しいからとしか言いようがなかった。
「今日は晴れそうですね」
話題を変えたかったのか、窓の外を見た梨本くんはそう呟く。昨日一日中降り続けた雨は夜の間に止み、雲の間から太陽の光が覗いていた。今朝見た天気予報によると、そろそろ梅雨が明けるらしい。これからはきっと、ぎらぎらとした太陽が肌を焼く暑い日が始まる事だろう。
◇◆◇
七月が二週目に入った月曜日、私は不安に襲われていた。毎朝決まって一番前に並んでバスに乗車していた梨本くんの姿が見えない。おかしい、いつもなら扉が開いた瞬間に私と目が合うのに。
次々と乗車していく人々は、何やら妙に運転席側の地面に視線を向けながら乗車して行く。嫌な予感と呼べるものが私の中を駆け巡っていた。
そわそわと落ち付かずに乗車して行く人を一人ずつ確認して、最後の一人が乗車し終わっても、そこに梨本くんはいなかった。もしかして今日はお休みなのだろうか、と何の気なしに少し身体を乗り出して乗車口の方を覗けば、見えた。
「す、すみません!」
私は発進しようとしていたバスの中で声を上げて、慌ててバスを停めてもらう。謝って降車口を開けてもらい、大慌てでバスから降りた。私を降ろすと、バスはすぐに発進していく。
外へ一歩踏み出すと、途端に蝉の大合唱が耳に飛び込んで来た。大地を燃やしそうな勢いで照らす太陽が、じりじりと半袖の私の腕を焼く。一気に全身から汗が噴き出した。
「大丈夫?」
停留所で、梨本くんが蹲っていた。膝に顔を埋めるようにしていてその顔は見えないが、さすがに毎朝顔を合わせているので、見間違えようがない。彼の姿が見えたので、慌ててバスから降りたのだ。
梨本くんが、ゆっくりとわずかに顔を持ち上げる。その顔色が、ぞっとするほど悪かった。
「柿崎さん?」
「どうしたの? 気分悪いの?」
思わず早口でまくし立てる。体調が悪いのは間違いないけれど、一体彼はどうしてしまったのだろう。よくよく見れば三十度を越える気温の中、彼はろくに汗も掻いていなかった。熱中症とかだろうか。
「ちょっと、頭痛くて、吐き気がするだけ。大丈夫だから」
「全然大丈夫じゃないじゃん!」
分かってはいたけれど、やはり体調が悪いらしい。私はどうしたらいいのか分からなくて、不安でちょっと泣きそうになった。
「本当、平気。もう、帰って寝るから、大丈夫」
そう言って、梨本くんはふらふらと立ち上がる。今にも倒れそうで何も大丈夫には見えなかった。もしかして救急車とか呼んだ方が良いのだろうか。でも、何とか立ち上がって歩いているし……私はしばらく悩んで、すぐに彼の後を追った。
「鞄貸して。送っていくから」
「そんな、柿崎さんは、学校に行かなきゃ」
「せめて家に入るのを見届けないと、授業に集中できる訳ないでしょ」
ああもう、そんな事を気にする暇があったら早く家に帰って、と思いながら彼の学生鞄を無理矢理奪い取る。梨本くんは何か言いたげに、鞄を追うように腕を上げたが、それもすぐに下ろされる。私に鞄を返すつもりがないことに気付いたのか、それともそんな気力もないのか。
「すみません……」
梨本くんが、心底申し訳なさそうに口にする。私は、彼の身体が傾いたときにすぐに支えられるように注意しながら、気にしないでと口にした。
「最近、急に暑くなって、たぶんそれで、対応出来なくなっただけかと」
「とても『だけ』って感じには見えないけど……」
「…………夏は嫌いなんです」
ぽつり、と呟いた。そして体調が悪いのに、それでも言わずにいられなかったのか、ぼそぼそと頼りない声で言葉を続けた。
「暑くて、ベタベタして、うるさくて、痛くて、嫌いです」
「そっかあ、夏は嫌いなのか」
それならどの季節なら好きなんだろう、そうふと考えれば私が何かを言うよりも早く彼は言葉を続ける。
「冬も嫌いです。寒くて、路面が凍ると危ないし、厚着は面倒で、良い事がない」
「春とか秋は?」
「春は花粉が飛んで天気も変わりやすいし、秋は秋で急に色を変えていくのが気持ち悪い」
「全部じゃん」
梨本くんはいつものにこやかな笑顔を浮かべる余裕もなく、目付きを悪くして、忌々しげにそう呟いた。
私は、彼と朝に数十分会話する程度の関わりしかなく、まだ知り合って一ヶ月も経っていない。不気味で怖いと思ったこともあったし、未だに彼みたいな人をストーカーと呼ぶのかと疑っている。知っているのは名前だけで、連絡先すら知らなかった。
それなのに何故だか自然と、その顔が一番彼らしいなあ、と思った。
◇◆◇
十分ほど掛けて歩けば、ここです、と言って梨本くんが足を止めた。今のふらついている梨本くんに合わせたペースで歩いているので、普通に歩けば五分ほどの距離だろう。
梨本くんの家は一軒家だった。玄関の前に駐車スペースがあり、一台自動車が停まっている。何となくシンプルなデザインだな、と思った。我が家よりは一回りとは言わないけれど半回りくらいは大きそうに見える。
「すみません、柿崎さん」
「だから大丈夫だって。はい、鞄」
そう言って預かっていた鞄を差し出す。彼は申し訳なさそうに、あるいは気分が悪そうに眉尻を下げていた。
尋ねてみれば、家族は仕事で家にいないらしい。一人にするのがどうにも心配だった。
「大丈夫? 飲み物とか買ってこようか?」
熱中症とかなら、水より経口補水液の方が良いだろう。そう思って問い掛けたが、彼は私の提案をあっさり断った。
「家に色々あるから平気です」
「え、えーと、じゃあ、そうだ! 連絡先教えるから、何かあったら連絡して!」
そう思い至って慌てて鞄を開ける。確かメモ帳の一つくらい鞄に入れていたはず、と学生鞄の内ポケットをごそごそ探す。なかなか見付からず、さして整理整頓せずに何でも突っ込んでいたのを反省した。
ようやく見付けて、ついでにシャープペンも発見する。
「そこまでしてくれなくていいのに。というか、置いて帰ってくれて良かったのに」
「気付いて見捨てるなんて、そんな可哀想なこと出来る訳ないでしょ」
メモ帳に自分のアドレスを書き、一枚めくって彼に差し出す。すると、梨本くんにメモを持つ手を掴まれた。
「可哀想?」
「え、ああ、うん?」
何か失言でもしただろうか。可哀想、という言葉は同情的でもしかして相手のプライドを傷付けるような言葉だったのかもしれない。私は途端に不安な気持ちになって心臓がどくどくと脈打ち始める。暑さだけでは無い汗が一気に溢れた。
「可哀想なら、じゃあ、柿崎さん。僕のために、泣いてくれる?」
しかし、彼から告げられた言葉は、予想外なものだった。以前も彼は似たような事を言っていた。私に付き合って欲しい、と言ったのは泣いて欲しかったからだと。以前はただの変態かと怯えたものだが、今になって不思議と、それに対し怯えよりも疑問が浮かんだ。
「どうして、梨本くんは私に泣いて欲しいの?」
腕を掴まれたまま、見上げて問い掛ける。泣き顔が似合うと思ったとは言われた事があるが、今になってもう一度それを尋ねてみたいと思った。
彼は自身よりも背の低い私を見下ろして、口を開く。何かを喋り掛けたと思ってその様子を見ていれば、彼は私の腕を掴むのとは反対の手で、ぱっと自身の口元を抑えた。
「ごめん限界。吐く」
「ええええ大丈夫!?」
「平気平気。平気だから、学校行って。さすがに吐くとこ見られたら死にたくなるから、早く」
顔を背けて、口元を手で抑えたまま俯いた梨本くんは、そう言って覚束ない足取りで玄関へ向かう。そこで私は連絡先を書いたメモを手に持ったままだったと気付き、慌ててその後を追って彼の学生鞄の外ポケットにねじ込んだ。
「何かあったら、ちゃんと連絡してね」
梨本くんは振り返らなかった。頭は微かに揺れていたが、それがふらついているからなのか、頷いているからかは、後ろから見送るだけの私にはよく分からなかった。
◇◆◇
二限目には何とか間に合って、先生に事情を説明して席に着いた。どうしても梨本くんの調子が気になって授業は全く手に付かず、ソワソワとしたまま昼休みを迎える。そこでようやく、梨本くんからメッセージが届いた。
『今朝はすみませんでした。一眠りすれば体調も落ち着きました。ありがとうございます。』
そうした簡素な内容だったが、私は大いに安心した。今朝は本当にひどい顔色をしていたので、少しでも楽になったなら嬉しい。
私は内容を確認すると、すぐに返信の用意をした。
『良かった! でもまだまだ無理しちゃだめだよ。返信はいらないから、ゆっくり休んでね!』
それでようやく心のつかえも取れ、私は一気に気分を上げながら友達とお弁当を囲んだ。使い慣れた二段のお弁当箱を開け、フォークを取り出したところでまたスマホが震え、メッセージの着信を告げる。ロックを解除して中身を確認すれば、梨本くんからの返信が届いていた。
『柿崎さんの連絡先ですが、このまま登録させてもらってもいいですか?』
どうしてわざわざそんな事を尋ねるのだろう、と考え込む。一方的に押し付けたのは私なので、別に構わないのだが。そこまで考えて思い出した。
そうだった、私は少し前まで彼に物凄く怯えていたのだ。ストーカー疑惑は未だ継続している、はずだ。今朝は慌て過ぎてそんな事は頭から飛んでしまっていた。何より、ここしばらくは普通の世間話ばかりをしていて、少し警戒心が薄れていたのかもしれない。
梨本くんは当然それに気付いていて、こうして尋ねてくれたのだろう。そして、そう尋ねてくれるように私の事を気遣ってくれるのなら、登録してもらっても構わないような気がした。
本人には言えないけれど、正直今朝見た彼があまりに弱々しく、また普段からもあの細腕が相手ならば何かあったときも撃退できるのではないかと思うと警戒するのを忘れてしまう。正直羨ましいのだが、あの手首。
『別にいいよ。私も登録させてもらうし』
そう返信すると、ありがとうございます、という一言の返信が届いた。私は今度こそ、フォークを握り直し、昼食にあり付けたのだった。
◇◆◇
梨本くんとは、毎朝バスの乗車中に少し顔を合わせるだけだった。そこにあれ以来メールが加わった。だからと言って、ずっとやり取りをしている訳ではないが、毎日ちょっとしたことで二、三通のメールを交わしている。
内容はいつも他愛ない。例えば、下校中に猫を見付けたとか夕飯に出たハンバーグが美味しかったと私がメールすることもあれば、梨本くんからはお勧めのアイスの情報が送られてくることが多かった。
彼は暑いのが嫌いだからかアイスが好きらしく、色々と食べ比べているらしい。梨本くんのお勧めを試しに食べてみれば私の舌にも合って、アイスの話をしているときが一番盛り上がっているかもしれない。どうやら、味覚が近いらしい。
始まりこそ、もしかしたら変態かも、ストーカーかもしれない、と怯えを伴うものだったが、今では実に良好な友人関係を築けていた。平和で、とても良い事である。
しかし、友人になったと報告すれば、めぐちゃんに『尊敬すればいいのか馬鹿にすればいいのか判断に迷う』と言われた。彼は実に可愛げのない男である。
こんな男のどこがいいのよ! とふざけて生島にしがみ付けば、彼女は『うーん。うーん……うん?』と首を傾げて顔を真っ赤にしていた。あんな生島は初めて見た。バカップル爆発すればいいのに。私に謝れ。
「何だか怖い顔をしてますけど、どうしました?」
「え? ああ、ごめんごめん」
まさか知り合いのバカップルを呪ってましたとも言えず、私は適当に笑って誤魔化した。深く突っ込まれる前に話題を変える。
「明日から夏休みだけど、梨本くんは何か予定あるの?」
「僕は、うーん。ほとんど塾の予定が入ってるので、これといっては……」
「えっ、夏休みまでそんなに塾に行くの?」
思わず顔を顰める。私なら絶対にごめんである。勉強は苦手だった。特に理系は鬼門だ。テスト前ギリギリになってようやく教科書を開き、なんとか赤点だけは回避している。それ以上の勉強はどうしたってしたくなかった。
「大変だねえ」
「まあ、毎年の事ですし」
「毎年……頭いい人は大変だ」
彼の通う学校は所謂進学校と言われている。梨本くんの友達とかもみんなそういう風にして夏休みを過ごすのだろうか。すごいと思うし尊敬もするが、絶対に真似したくはなかった。
「あの……」
「うん?」
ちょっと遠い目をしていたら、梨本くんが口籠りながら言葉を発する。
「柿崎さんは、どこかに行かれたりとか」
「友達と遊んだりはするけど、あとはバイトするくらいかなあ」
のんびりしすぎていまだバイト先を見付けられていないが。明日からまずはバイトを探して、早く始めよう。夏休み限定のバイトで探すつもりだが、もし条件の良さそうなところがあれば、九月からも働けるといい。
「もし、良ければなんですけど」
「うん、なに?」
梨本くんは私から視線を外し、斜め下の方へ目を向けていた。合わせられない視線が、少しばかりもどかしい。
「夏休みの間は、こうして顔を合わせる事もないと思うので、都合の合うとき、会えませんか?」
「……………………」
じわり、じわり、彼の表情が強張っていく。気付けば頬の血色がよくなり、耳に至っては真っ赤に染まっていた。何か、梨本くんが猛烈に恥ずかしがっている。その何かが、何であるかに気付いてこちらまで気恥ずかしくなってしまう。
「すみません、嘘です」
「えっ、嘘なの!?」
「…………嘘じゃないです」
拗ねるような、まるで観念したような声だった。その様子がまるで小さな子どもみたいで、思わず噴き出してしまう。何だか微笑ましいような気持ちになった。
初対面のときはどちらかというと静かで大人っぽい印象だった。しかし、この一ヶ月の間で垣間見て来た梨本くんの素の表情と思えるものは、今みたいにちょっと子どもっぽいものが多い。そして私は、彼のそういうところは好ましく思っている。
「笑わないで下さい」
「あはは、ごめんごめん」
「忘れて下さい」
「それは無理かなぁ」
そう言えば、彼がますます頑なな表情をする。それがまたなんだか、いいなあと思ってしまって、私は素直に笑って返事をした。
「いいよ。また連絡するね」
梨本くんは、表情を変えずにどことなく拗ねた様子のまま、ちらりと横目で私を窺う。じろじろと私を観察して、ようやく顔ごとこちらへ向いた。しばらく何かを言いあぐねいているようで口をもごつかせていたが、ちょうど私の降車する停留所に着き、ぽつりと呟いた。
「待ってます」
私は彼に手を振ってバスから降りた。
◇◆◇
幸いにして、バイト先はすぐに見付かった。学校の最寄り駅から少し歩いたところにあるカフェで、小さいながら落ち着いた雰囲気で気に入っている。
店長は朗らかなおじいさんで、店員の人数は少ないが仲は良く、特に一番後輩で年下でもある私は、まだバイトを初めて日は浅いもののとても可愛がってもらっている。
八月になってからも、私と梨本くんは相変わらずの関係を続けていた。日に何通かのメールをして、私のバイトと梨本くんの塾の終わり時間が重なるときは一緒に帰る。代わり映えのない毎日の中の、代わり映えのない関係だった。
ただ一つ変わったことと言えば、帰宅するバスの中で梨本くんと隣合って座るようになっていた。
一緒に同じ停留所から乗車するのに、いつものように私だけ座っているのも変な話である。何より、ちょっとした違和感はあるものの、私はすでに私達の関係は友達だと誰に憚る事なく言えるようになっていた。友達といるのに、私だけ甘える訳にはいかない。
友達なのに、並んで座ると少しだけ緊張する。それはおそらく私だけではないのだろう。梨本くんも、私と同じく、二人がけの席でなるべく端に寄って座っていた。
「アルバイトは、慣れました?」
「え、ああ、うん! 先輩とかも優しいし、何とか!」
今日、テーブルを片付ける際、お客さんの飲み残しの水を零して机をびちゃびちゃに濡らしてしまったのだが、情けなさすぎて言える訳がなかった。二度としないように気を付ける、と固く誓って今日のバイトを終えたのだ。
よかったですね、と梨本くんが微笑む。それきり沈黙が落ちた。最近少しだけおかしいのだが、彼といるといやに沈黙が気になるようになってしまった。
「梨本くんは塾大変?」
「まあ、それなりに。充実はしています」
「よかった! 私も人生で一回くらい勉強で充実してるとか言ってみたいなあ」
しかし、実際そんな状況に陥ったら私は全力で逃げ出そうとするのだろう。目に浮かぶようである。
「そういえば。あのね、同い年だし敬語でなくていいんだよ」
梨本くんは初対面から一貫して、私と敬語で話している。もしかして癖なのだろうか、と思ったこともあるが、よく考えてみれば時々ポロッと敬語が崩れているのでそういう訳でもないのだろう。
「え、ああ。そう、ですか?」
「うんうん」
「ええと、じゃあ、うん。そうする」
梨本くんが、少しぎこちなく言い淀みながらそう口にする。少し俯きがちの横顔が何だか照れくさそうにも見えて、私はまた体温が上昇した。バスの中は冷房が効きすぎるくらいよく効いているはずなのに、私だけが変に暑がっている。
梨本くんに気づかれたくないなあと思っていると、ぽつり彼が口を開いた。
「あの、柿崎さんは夏休みの課題とか終わった?」
「うっ……嫌なことを思い出させないで……」
ちょっとずつ進めてはいるが、まるで終わる気配が見えないのが現状である。何故、夏『休み』であるのに課題をせねばならないのか、休まらない。これでは全然休まらない!
辛うじてこの間の登校日に提出の分だけは終わらせることができたが、それ以外はしっかりと残っている。
「それなら今度休みが被るときに、一緒に図書館で勉強しませんか?」
「えっ、いいの?」
「柿崎さんが嫌でなければ」
一人だとついついサボりがちになってしまうので、正直そのお誘いはありがたい。勉強家の梨本くんが一緒ならば、きっとサボり魔な私も真面目な空気に呑まれて勉強に集中できるだろう。
「じゃあ、お願い! いつがいいかな?」
「僕は毎週日曜と水曜日の午前なら空いてます」
「あ、ほんと? ちょうどお盆明けの日曜がお休みなの」
この日にしようか、と言えば梨本くんは快く頷いてくれる。その様子を確認して、手帳に予定を書き込んでから彼の顔を見て、思わずヘラヘラと笑う。どうしたんですか、と問われてますます笑みが深まった。
「梨本くん、敬語に戻ってる」
そう指摘すると、彼はぎょっとするように目を丸くして、バツが悪そうに目を逸らすのが、何だか少し可愛かった。
◇◆◇
約束の日曜日、ちょうど我が家と梨本くんの家の中ほどにある図書館で、私達は向い合って座ると黙々と宿題を片付けていた。
分からないところで頭を悩ませていると、梨本くんはすぐに気づいて声を掛けてくれた。やはり、彼は私よりもよほど頭がよく、分からないところを教えてくれる。家で一人でするよりも余程捗っていた。
しかし、その分梨本くんの勉強が進まないのでないかと心配になったのだが、彼は大丈夫と言うばかりである。
さて、そうして真面目に勉強をする中、私は少なからず緊張していた。
原因は友達の生島である。完全に生島のせいだった。久しぶりに会って会話をしているときに、ぽろりと梨本くんとの勉強会について伝えた。そのときに彼女が言ったのだ。
『あれ、付き合ってたの? デートだよね』
そのときの私の感想は一つだった。その発想はなかった、これに尽きる。確かにそうだ。私だってこれが私じゃない誰かの話ならばデートじゃん、とニヤニヤしたに違いない。しかし、まさか自分にそういう華やかなワードが降り注ぐ日が来るとは思っていなかったのだ。
お陰で前日の夜に何を着ていけばいいのかと全力で頭を悩ませてしまうことになった。夏休みに入ってから、何度か私服で会っているのだし、いつも通りの服装で良いとは思うのだが、そう自分に言い聞かせる度に『デート』という単語が私の中で嵐を巻き起こす。
悲しいことに、デートなどという素敵なワードとは無縁の人生を歩んできた私は、容易くそれに踊らされ、何を着ていこうか散々思案し、昨夜は眠るのが少し遅くなってしまった。昼食後の午後からの待ち合わせで良かった、と安堵したものである。
結局、よく着ているショートパンツに襟付きのブラウスになった。図書館は冷えるといけないので、それに薄手のカーディガンを持参した。案の定だんだんと肌寒くなってきたので、外出前の私の判断は的確だったと言えるだろう。
うん、普通の格好だ。普通の格好。別にデートしましょうなんて言ってないし、ただの友達同士の勉強会だし、普通の格好でいいのだ。
「疲れた?」
昨夜のことを思い出していれば、ぼうとしてしまっていたのだろう。梨本くんがこちらを見てそう問いかけた。平気だよ、と答えたものの彼は左手の腕時計を確認して、少し休憩しようか、と提案する。
時計を覗きこませて貰えば、時計の針は十四時半を少し過ぎたところで、勉強会を始めてから約一時間半が経っていた。
教科書などを一旦片付けて、誘われるままに図書館の外へ出る。今日も太陽はお休みをあげたいくらい元気いっぱいで、思い切りよく私の肌を焼いてくる。外の自動販売機でそれぞれ飲み物を買って、日陰になっているベンチで二人揃って腰掛けた。
「直射日光が当たるとあれだけど、日陰だと気持ちいいくらいだね。中、寒かったから」
「ああ、冷房効きすぎてたよね」
最近ようやく敬語を止められた梨本くんが、そう相槌を打つ。梨本くんには自分を冷えから守ってくれる筋肉も脂肪も無さそうなので、私より寒そうに見えてしまう。
男の子にこんな風に思うのは失礼かもしれないが、目の前で一度体調不良に陥っていたからか、どうにも梨本くんに儚い印象があった。
「……飲む?」
相変わらず細い手首に目を奪われていれば、物欲しそうに見えたのかもしれない。自身の持つ炭酸のグレープジュースをちらりと見やった梨本くんは、首を傾げて私を振り返る。
「え、いいの?」
ちなみに私が買ったのはりんごジュースである。ついついいつもの気分でそう答えて、ぴたりと固まる。脳内に『デート』という生島の声が浮かんでしまったからだ。回し飲みなどあまり気にしないタイプではあるが、彼のことを『そういう相手』として考えてしまうとさすがに躊躇うものがある。
「やっぱりいらない……」
「そう?」
梨本くんは何も気にした様子もなく、再び手の中の缶を口につける。私以上に、彼はそういうところを気にしないのだろうか。
仮にも付き合って欲しい、と始めに声をかけてきたのは梨本くんの方である。それとも、友達付き合いをしてしまえば、やっぱりイメージと違うな、となってしまったのだろうか。悲しいことに女子力に欠ける自信はある。
ちょっと待って。これではまるで私が梨本くんと付き合えなくて残念に思っているみたいではないか。
「あのね」
「うん」
それでもずっと気になっていることが、引っかかっていることがあって、自意識過剰みたいだろうか、と思いながらも恐る恐る口にした。
「梨本くんは、付き合ってって言ったでしょ」
「うん」
「どうして、私だったの?」
好きなの?と以前尋ねてみても、よく分からない返答しか得られなかった。私のことを好きでも何でもないのかもしれない。恋人が欲しかっただけ、とか。それならそれで、その相手に何故私が選ばれたのか知りたかった。
梨本くんは膝の上で、両手で缶を包み込み、視線をそちらに下げて少し口ごもった。じっと待っていれば、観念したように口を開いた。
「五月くらいに体調悪くて塾を早退したことがあったんだけど、そのとき駅前でバスを待ってたら柿崎さんがいたんだ」
私が梨本くんを認識したのは付き合ってほしい、と言われたときが初めてで、知らない内に見られていたと思うとちょっとドキドキした。
変なことはしていなかっただろうか。いつのときのことかはちょっと思い出せない。学校から駅前まで徒歩圏である。放課後に遊ぶとなると駅前が多く、駅からバスに乗ることも珍しくなかった。
「柿崎さんは電話をしてて、何を話していたのかは分からないけど、良かったねって何度も言いながら泣いてたんだ。電話の向こうの人に何かいいことがあったみたいだった。よかったね、よかったね、ってずっと泣いてた」
「うわあ、そんなとこ見てたの? 恥ずかしい…………」
そこまで言われてなんとなく思い出した。長い間片思いをしていた友達の恋がようやく叶ったと聞いて、感極まって泣いたときだ。一年間の片思いの様子を間近で見ていたので、私まで感動してしまったのだ。
「僕はそのとき、羨ましいなって思った。僕は人のためになんか泣けないし、僕のために泣いてくれる人もいない。そう気付いて、すごく自分が虚しくなって、羨ましくて」
缶ジュースに向けられていた彼の目が私へ向く。
「この女の子に、僕のために泣いて欲しいと思ったんだ」
そう言われて、彼のこれまでの言動、全てを理解できるような気がした。誰かのために泣くだなんて、親しくならなければできる事じゃない。
では、親しいとはどういう状況だろうか。他人同士が最も親しい状態。例外もあるだろうが、一般的に恋人同士がそれだと感じる人は多いだろう。そして、梨本くんもそう思ったのだ。
梨本くんはやはり、私を好きな訳ではなくて、私の性格とか中身とかどうでもよくて、きっとあの場でああいう風に泣いていたら誰でもよくて。ただ、偶々私はそこにいただけで。
「そういうことだったんだあ」
私はにっこり笑ってそう言った。二ヶ月間抱えてきた疑問がようやく解消された。すっきり爽快、平和的解決というやつだ。うんうん、と何度も頷く。それから無性に喉が乾いていたので、手の中のりんごジュースを飲み干して立ち上がった。
「ねえ、また暑くなってきたし、中に戻ろうよ」
「あ、うん」
梨本くんも、慌てて缶ジュースを飲み干して私の後に続く。館内に再度足を踏み入れ、外とは違う清涼な空気に思い切り深呼吸をする。再び流れていた汗も、ここにいれば一気に引いていく事だろう。梨本くんに一言断って、私は勉強を再開する前に女子トイレへ向かった。
幸い利用者はおらず、すぐに洋式トイレに入り、鍵を閉めた。
「………っう……」
その、瞬間。頬が、顔が燃えるように熱かった。悔しい悔しい悔しい。梨本くんは私の疑問に答えてくれた。ただそれだけだ。友達なんだから、実はこういう理由で泣いてたんだよって友達カップルのお騒がせな話でもすればよかった。それなのに、全然そんな言葉浮かんで来なくて。
ただ、悔しい。彼は友達だと繰り返し唱えていたのに、安易に傷つく自分が許せなかった。
私は馬鹿だ。そんなことは私が一番よく知っている。私は馬鹿で、単純で、脳天気で、だからこそ夢を見てしまうのだ。こんな私でも、誰かに好きになってもらえるのかもしれない、なんてやっぱり単純な夢を。誰かの唯一になれるかもしれない、なんて。
その結果がこれだ。梨本くんは、私という人間に興味を持ってくれた訳ではなかった。誰でも良かったのだ。私じゃなくても、誰だって。
それに傷付いてしまえるくらいには、いつの間にか梨本くんの存在が大きくなっていた。期待を持たせて裏切るなんてあんまりだ。絶対、絶対彼の前で、彼のせいでだけは泣いてやるものかと、唇を噛んだ。
◇◆◇
それからの夏休みはろくな思い出が作れなかった。バイトは充実していたし、友達と出かけたりとそれなりに楽しんだつもりだし、何とか残す事なく宿題も終わらせることができたが、ふとした瞬間のうんざりした気持ちはついぞ拭えなかった。
梨本くんとメールをする頻度は極端に減った。私からメールを送ることはなくなり、彼からメールが届いても一日経ってから返信したりするようになった。追加でメールが送られてくることもないので、自然とメール自体が減っているのだ。
私はきっと酷いのだろうと思う。勝手に彼の好意を期待して、勝手にそれがなかったことに傷付いたのだ。あまつさえ彼に対し、責めるような気持ちまで持っている。そうして今度は半ば無視だ。少なくとも友達という関係であったのに、友達という枠組みの中での関係すら放棄しようとしている。
それでも、そう自覚してもやっぱり私は梨本くんと距離を置きたかった。だって、彼の前でだけは泣くものかとそう決めたのだから。
そして、迎えた九月一日。私はいつもの時間のバスに乗らなかった。一本早いバスに乗って登校した。梨本くんと顔を合わせない為だ。そこまですれば、私が避けていると彼も確信したのだろう。
学校を出る頃に、梨本くんからメールが届いていた。
『僕は何かした?』
私はそれに返事をしなかった。
◇◆◇
さあもうこれで会うこともないだろう、私は夏が始まる前までの日常を取り戻すのだ。梨本くんのことなんてさっさと忘れてしまえばいい。
そう、思っていたのに。どうして忘れていたのだろう。彼は時折ストーカーかと思わせるほどの行動力を見せる。
「柿崎さん」
さあ今から下校しようと校門に向かうと、前を歩く人が校門へチラチラと視線を向けていた。何だか見覚えのある光景である。
嫌な予感がしつつも足を止めずにそちらへ向かえば、嫌な予感とは当たるもので、そこに浮かない顔をした梨本くんが立っていた。他校の生徒が校門前にいれば、そりゃあ視線を集めるものである。
「何でいるの」
「避けてるよね?」
梨本くんが、じっと私を見つめる。その目に責められているように感じて、暑いだけではない汗が、吹き出すような気がした。息が詰まって呼吸がし辛い。
言い訳をしようとした。あるいは、もう距離を置きたいのだと伝えようとした。しかし、そのどちらも明確な言葉にはなってくれなくて、焦りばかりが膨らんでいく。口から、言葉も上手く出てくれない。それなのに、梨本くんの視線ばかりが気になって、いても立ってもいられない。
足が動いたのは反射だった。だって何だか、無性に泣きたくなってしまったのだ。私は梨本くんを前にして、何も告げずに駅とは反対方向に駆け出した。目的などなく、ただ目の前から逃げたい一心だった。
「待って!」
梨本くんの、初めて聞くような大きな声が聞こえた。走りながら振り返れば、彼もまた走って追いかけてきていることに気づく。なんで!
私はますます必死に走って逃げた。追われると逃げたくなるのは人の性だ。より一層止まれなくなっていた。
無我夢中に走って適当なとこで曲がって、とにかく逃げ切ることだけを考える。すれ違う人々にぎょっとしたような顔で見られたが、構っている余裕はない。せめて知り合いには見られたくないなあ、と思いながら走っていった。
どのくらい走っただろうか。おそらくそんなに長い距離ではない。夏の太陽の下で走ると、驚くくらい体温が上がり、顔といい、背中といい、汗が吹き出してくる。その勢いが、立ち止まった瞬間に一気に増す。太ももを伝う汗が、ハイソックスまで滴っていくのが、気持ち悪い。そこで一旦足を止めた。振り返れば、梨本くんはもういない。
よし、撒けた、と満足感に浸ろうとして、不意に嫌な予感がした。とても嫌な予感が、むしろ予想が浮かんでしまい、私は何度かその場で足踏みをしたものの、結局来た道を戻り始めた。
「だっ、大丈夫?」
そうすれば、案の定と言ってしまっていいものか。奥まった住宅街の一角で、梨本くんが肩で息をしながら蹲っていた。慌てて駆け寄れば、ヒューと細い呼吸音が聞こえる。どう見ても大丈夫には見えない。
屈んで手を伸ばそうとすれば、その手を梨本くんに掴まれた。
「…………っい、」
「辛いでしょ? 喋んないでよ」
「……ひどっ、い」
掠れた声と同時に、掴まれた腕が痛んだ。まるで溺れた人がぷかぷか浮いてる木片に縋るように、強い力が籠められている。
「柿崎さんは、ひどい…………ひどいっ」
「…………何が」
メールを無視したりしたので、そう責められる心当たりはある。けれど、私は私で梨本くんに対して『酷い』と感じているので、思った以上に冷たい声が出た。
座り込んで組んでいる両腕に顔を俯せた梨本くんの、額やこめかみを流れる汗をハンカチで拭って、昼休みに買ったオレンジジュースを手渡した。
本当は冷えたスポーツ飲料とかの方が良いのだろうが、今持っているのはそれしかなかった。水分を摂って休めば、少し呼吸も落ち着くだろうか。梨本くんは大人しくそれを受け取って、身体に流し込んだ。
「ごめん」
「いいよ、別に」
水分を摂って気持ちも落ち着いたのか、私の腕から手を離した梨本くんは、静かに謝罪を口にした。こちらとしては、彼を介抱するのは二回目なので慣れたものである。やはり、彼はあまりに体力がなさ過ぎる。もっと食べるべきだと改めて確信した。
暑いだけかな、と少し躊躇ったものの、結局背中をゆっくりと撫でれば呼吸も少し落ち着いてきた。上げられた顔は心配になるくらい青かったが、今すぐ倒れそうな様子でもない。
「何で、逃げるの」
ぽつり、梨本くんが呟いた。しばらく答えずにいれば、同じ調子で彼は言葉を続けた。
「こうやって、辛いとき助けてくれたのに、連絡して、会ってくれたのに、急に突き放すのは、ひどい。それなら最初から冷たいままでいればいいのに」
「それはだって、梨本くんが」
言いかけて口を噤む。すると、彼の目が私の顔を捉えた。うっと息を飲む。言葉を選んで、こちらの気持ちなんて悟られないようにしたいのに、結局思ったままの言葉ばかりが私の口から溢れだす。
「私じゃなくていいんでしょ。私のことが好きな訳じゃないんでしょ。それなのに一緒にいたら、私ばっかりしんどいじゃん。梨本くんの方がひどい。泣けば誰でもいいんでしょ」
何か反論できるならしてみせてほしい、そのくらいの気持ちで吐き出した。目頭が熱くて苦しくて、でもやっぱり彼の前でだけは泣きたくなくて、唇の裏側を噛み締めて耐える。不貞腐れたような表情をしているだろう、この顔を梨本くんへ向けると少々血色のよくなった顔で、彼はぽかんと大口を開けていた。
「……………柿崎さんは、僕が柿崎さんじゃないとだめ、ってならないと嫌なの?」
彼の言葉に、今度は私がぽかんとする番だった。言葉の意味を理解するのに数瞬かかり、それから自身の発言を振り返って、途端に顔に熱が集まった。
「ちっ! ちが!」
「違うの?」
「ちが、わない……」
悲しそうに目線を下げられて、思わず正直に白状してしまった。ずるい、ずるすぎる。そんな顔をされてしまえば、感情的に突き放すことができない。
「あ、あのさ」
今度は別の意味で梨本くんの前から逃げ出したがっていると、控えめに彼が口を開いた。
「最近、ようやく認められるようになったんだけど。僕はたぶん、寂しかったんだ。ずっと訳もなく寂しくて、ずっとそうして生きていくんだと思って、だから誰かに惜しんで欲しかった。泣いて欲しかった。でもそれが分かるようになって、柿崎さんといるようになって、柿崎さんが泣いたところを想像したこともあったんだけど、その想像がすごく悲しくなって、あの、今は笑って欲しいと思う」
心臓がドクドクと脈打つ。少しずつ勢いを増す鼓動が、いやにうるさかった。
「寂しいから泣いて欲しかったのに、笑った顔を思い出した方が全然寂しくなくて、嬉しくて。それってやっぱり、柿崎さんと関わるようになったからで」
ちらりと、梨本くんの目が私に向けられる。少しだけ拗ねるようなその顔は、彼の恥じらうときの表情だと私は知っていた。
「…………分かってよ」
ぽつりと、漏らす言葉。ああやっぱり彼はずるい。悔しくて悔しくて堪らない。そこまで言って、ここまで私を期待させて、そんな風に投げ出すなんて。なんて卑怯な男だろう!
それなのにこんなにどうしようもなく嬉しくなってしまう私は、なんて馬鹿な女だろうか。単純すぎてどうしようもない。それなのに、それが全く嫌ではないのだから、本当にもう救いようがない。
思わず、笑い声を漏らしてしまった私に、梨本くんはますます拗ねた様子で顔を背ける。そのまま、無言の中で私の笑い声だけが響いた。しばらくして、笑う私の手を梨本くんが握りしめる。私はやっぱり笑ったままで、その手を振り払うことをしなかった。
◇◆◇
「誰でもよかったんでしょー」
手を繋いで歩きながら、私はからかうように口にした。どうにも私は単純なもので、機嫌はすっかり上向いていた。別に単純でいいのだ。きっと単純な方が、物事は何でも優しく感じられる。
「もうやめてよ………」
「やだ。私、すっごい傷付いたし」
きっぱり言い切れば、梨本くんは反論したくても言葉にならなかったようで、口の中をもごつかせつつも何か言うことはなかった。
九月を迎えても日本はまだまだ夏の暑さを保っている。人肌の温度でさえ異様に暑く感じるのに、汗を流しながらも手を繋いで、どちらも離そうとしない今この瞬間は、間違いなく幸せだと思えた。
私だけがご機嫌のまま歩いていると、ぴたりと梨本くんが足を止める。手を繋いでいた私も釣られてその場に停止した。
「あのさ、」
「うん?」
梨本くんは、視線を斜め下に向けて私から目を逸らしている。拗ねた様子は見られないが、ひどく言いにくそうな感じだった。
「確かに、僕は誰でも良かったんだけど…………誰でもいいなら、柿崎さんがいい。だから、あの、やり直しがしたくて」
強い風が吹けば攫われてしまいそうなぎこちない声で、梨本くんが口にする。なんとなく、直感的に期待が高まった。嬉しい予感がする。
梨本くんの、斜め下に向いていた顔が、ゆっくりと持ち上がる。その目に私を映して、いつもけして顔色がいいとは言えない頬が赤くなったように感じた。
静かに口を開く。そして私は、泣くのだろう。きっと初めて、彼のお陰で泣いてしまうのだ。
「柿崎さん。あなたが好きです。差し支えなければ僕とお付き合いしていただけませんか?」
読んでいただきありがとうございました!