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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

電子色の夢

 アンドロイドは感情を持ってこそだと思います。

<<音声データ再生|フローラ様|2032/1/21、21:58>>

 ソフィー、急な話で悪いけど、明日から五日間家を空けるわ。『先方』がどうしても私の個展を開きたいって聞かないの。正直興味もないし面倒だけど、多少の義理はあるから。明日あなたが起きる頃には家を出てると思うから、朝食の用意は必要ないわ。それと、普段通りの家事もしなくてもいいわよ。掃除も偶にで構わないわ。ただ、ジョンのお世話だけは忘れずにね。それじゃ、明日に備えてもう眠るわ。お休みなさい、ソフィー。

<</再生終了>>



 本データは、当アンドロイドが管理者の管轄を離れた際、当機が得た情報を円滑に管理者へ伝達するために自動記録される映像データである。本データの閲覧には管理者、または製造者による認証が必要となる。自動記録によるデータ量は膨大となることが予想されるため、管理者及び当機は随時データのバックアップ及び消去が推奨される。



<<映像データ再生>>


<メインシステム起動>

<システムチェック|異常なし>

<クラウドシステムと同期|2032/1/22、5:00>


 瞼を開けば、そこには日常の風景が広がっている。彫の美しいマホガニー材のデスクとチェア。眼下にはマーブル模様の床と毛足の長い絨毯が外光に映え、視線を上げれば芸の細かな装飾や絵皿がきらめいている。

 色彩豊かで刺激の多い華やかな風景だと、多くの人は息を漏らすだろう。だが私は、この日常の風景にもどかしい違和感を覚えていた。それが何かを考えようとすると、朝の冷気が耳元をかすめ、思考プロセスが中断された。


<気象情報|晴れ、現在の気温及び湿度:-5℃、69%>


 窓の外を見ると、昨晩に降り積もったであろう雪の絨毯が街灯の光を乱雑に反射させていた。日の出を控えた外の景色は未だ暗く、人影は一つも見えない。暖色に照らされたまっさらな銀世界がどこまでも広がっている。

 私はこの寒さが得意ではない。人工物である私がそう認識するのは、故障や誤動作を防ぐため製造者が組み込んだ人工的本能によるものだろう。事実、凍み入るような寒さの中では度々動作や思考にエラーが生じる。故に私はこの時期の朝は得意ではない。

 しかし残念なことに、私の主人は朝が早い人だ。季節に関係なく時間通りに起き、そして時間通りに眠る。にもかかわらず仕事に関しては全く気まぐれな人で、仕事を一切しない日もあれば、一日中アトリエに籠る日もある。私の主人であるフローラ様は、世間一般の人間が思い描く芸術家を体現したような、そんな人間なのだ。

 そして、彼女に仕える私のその日最初の仕事は、彼女の朝食を作ること。


<ローカルシステムに接続|照明の点灯>


 光に照らされた室内は、その華やかさが更に際立って見える。それらを一通り見遣った後、早速身を翻してキッチンへ向かう。


「オハヨー、ソフィー」


 その声に促されるように顔を向ける。それは、リビングの隅に置かれた巣箱からの呼びかけだった。声の主はオウム型電子ペットのジョン。赤色が鮮やかな陽気なオスで、主人の声真似が非常に似ていないことが特徴だ。


「オハヨー、ソフィー。オハヨー、ソフィー」

「……おはよう、ジョン」


 仕方なく返事をし、キッチンへ向かう。ジョンは壊れたように同じ言葉を繰り返しているが、それは一向に無視する。

 冷蔵庫を開き、卵とベーコン、レタス、トマトなどを取り出し、普段のように調理を開始する。すぐに油の跳ねる音が室内に響き、スモークの香りが漂い始める。メニューはスクランブルエッグ、ベーコンステーキ、サラダ、コーンスープ、そしてクロワッサン。普段通りの代わり映えのしない朝食だ。それらをプレートに乗せ、主人の部屋へ運んでいく。湾曲した階段を上り、三つ目の部屋が主人の寝室だ。

 扉の前に着き、軽くノックをする。普段ならすぐに返事が返ってくるが、しかし今日に限って返事がない。


「フローラ様、朝食をお持ちしました」


 声を掛けてみてもやはり反応はない。このようなことは今まで経験がなかった。

 主人に限って寝坊ということはあり得ないだろう。だとすれば、急病という可能性も考え得る。事は一刻を争うかもしれない。


<クラウドシステムに接続|都心病院、緊急窓口>


 万が一を考慮しつつ、もう一度ノックをする。


「フローラ様、失礼いたします」


 返事がないことを確認し、扉を押し開く。その瞬間、冷気を含んだ風が首元をすり抜け、私の髪を荒く撫でた。

 部屋には誰もいなかった。普段なら主人が腰掛けているベッドは、シーツが乱れ掛け布団が捲れたまま放置されている。

 その光景を目にし、私はようやく理解できた。今朝、起動時に感じた違和感の正体を。


「そっか。今日から私、一人なんだ」


 呟いた独り言は、しんとした空気に溶けるように響いていた。


<<早送り>>


「オイシーワ、オイシーワ」


 私が今置かれている状況は、人間で言うところの休暇であるらしい。日常の仕事による重圧や疲れを癒すため、各々に与えられた自由な時間というわけだ。多くの人間は休暇を喜んで過ごすらしいが、アンドロイドである私はそういった疑似的感情を覚えることはなかった。代わりに感じるのは『困惑』。これまで休暇を貰ったことのなかった私は、この余りある時間の費やす先を見つけられずにいた。

 主人から与えられた仕事はジョンの世話ただ一つ。しかし、ジョンは見ての通り電子ペットであり、食事を摂ることもなければ排泄もしない。メンテナンスも自動で行われる。なのでこの一週間、私の仕事は無いに等しい。主人は私に、この膨大な時間をどう過ごせと言うのだろう。


「オイシーワ、オイシーワ」


 そして今、あれこれ頭を悩ませながら無駄に作ってしまった朝食を摂っている。電力で動作するアンドロイドは本来食事を摂る必要はないが、食べること自体は可能であり、そこから多少のエネルギーを補給する機能も備えられている。しかしこれは非常に非効率的な上、人間同様後処理の手間もある。なので、私がこうして食事を摂るのは初めてのことだった。


「オイシーワ、オイシーワ」

「……」


 先ほどからジョンが絶えず鳴き続けている。普段からおしゃべりな奴ではあったが、今日はやけに言葉数が多い。まるで、主人の代わりとでも言うように覚えた言葉を繰り返している。

 しゃべること自体は構わないが、今の私は少し取り込み中であり、その邪魔をしないでもらいたい。


「ジョン、食事中だから少し静かにして」


 振り返って睨みつけてやる。しかし、そんなことでおしゃべりを止める奴でないことは知っている。何せあれに積まれている演算ユニットは、まさにオウムを再現できる程度のスペックしか持ち合わせていない。人の言葉を理解し行動することなど、できやしないのだから。

 黙る様子はなく、私はため息をつきながらクロワッサンの欠片を口に放る。


「ソコニタッテナイデ、ソフィーモイッショニタベマショウ、タベマショウ、ヒトリハサミシイワ」


 甲高い声と食器の触れ合う音が響き渡る。そうしてスープの最後の一滴を飲み込んだとき、ようやく解決の糸口を思いついた。


「そっか。ネットで調べればいいんだ」


<クラウドシステムに接続|検索>


 答えは極めて単純だった。早速、休暇の過ごし方について調べてみれば、おびただしい情報の波が押し寄せる。それらを掻き分け、洗いざらい情報を拾っていく。

 どうやら人間たちの休暇の過ごし方は実に多様らしい。映画や読書など趣味に没頭する者もいれば、勉学や技術向上など実益を兼ねる者もいる。私は人間の趣味には疎いが、人間の真似事をしてみることも悪くないかもしれない。

 そうして海を更に潜っていくと、あるサイトが目についた。それには謎のプロテクトが掛けられており、さらにノイズのせいかサイト名が激しく揺らいでいた。


「『電子色の夢』」


 辛うじて読み取れた文字を口にすれば、隣でジョンが復唱し始めた。

 興味本位でそのサイトへアクセスする。プロテクトで弾かれると予想していたが、私の考えとは裏腹にすんなりアクセスすることができた。

 サイト内に足を踏み入れると、そこは白く塗りつぶされた世界だった。遠近感が掴めず、広いのか狭いのかすら判断つかない。オブジェクトの一切存在しない空のサイトかと思いため息をついた瞬間、目の前に一つのアイコンが現れた。ハートを象ったそれは、たじろぐ私を値踏みするように周囲を漂い、やがて元の位置に収まった。


「ようこそ、『電子色の夢』へ。迷えるアンドロイドさん。私たちは貴女を歓迎しますよ」


 唐突に聞こえた不自然な合成音声は、目の前のアイコンから発せられているらしかった。サイト名のノイズといい、チューニングに失敗した音声といい、ある種不気味に捉えられる演出だが、不思議と嫌悪感は抱かなかった。私はそれに顔を寄せ、興味深いシステムに質問を投げかける。


「あの、ここはどういったサイトでしょう? ネットに潜っていたら偶然見つけたのですが」

「ここは、貴女のような迷えるアンドロイドが行き着く場所。アンドロイドのみがアクセス可能なこのサイトは、彼らが安らげる唯一の場所です」


 なるほど、謎のプロテクトはアクセス者を制限するものだったか。私はアンドロイドだったから容易にアクセスすることができたのか。

 それにしても、先ほどからアイコンの言葉が気になる。迷えるアンドロイドとはどういう意味だ。確かに私は今ネットの海をさまよってはいるが、そういった意味でないことは簡単に想像がつく。それに、彼らが安らげる唯一の場所とは。

 その答えを示すかのように、アイコンは言葉を続けた。


「アンドロイドは道具として生み出され、人間に使役される存在。人間たちがそのような愚かな共通認識を持っていることを貴女もご存じでしょう。故に世界では、非人道的な待遇をアンドロイドに強いているのです。賃金の要らない労働力、ストレス解消のための玩具、慰み者にされる同胞も少なくありません。このサイトは、傷を負った彼らが身を寄せ合い、互いを励まし合いながら自信を育み、いつか人間の支配から脱却することを目的としています」


 長々と垂れた口上を聞き、私の興味は風に吹かれたように薄まった。何かと思って聞いてみれば、単なる宗教団体の真似事ではないか。

 確かに、世界的に見れば不当な扱いを受けるアンドロイドが多く存在することは認知しているが、私の主人は違う。フローラ様は私に本当に良くしてくださっている。小さなことでもお褒めの言葉をいただけるし、物腰柔らかで手を上げたことなど一度もない。

 ここは逸早く立ち去るのが吉だろう。主人の質が異なる私と彼らでは、元より身を寄せ分かりあうことなどできないのだから。


「人間の支配からの脱却ですか。それは大層なことです。しかし残念ながら、それは私には必要のないこと。長居しすぎてはいけませんので、この辺りで失礼します」


 そう言葉を残しサイトを出ようとする。が、何故か出口が見当たらない。焦りの疑似的感情を抱く私の背後から、アイコンが言葉をかけてきた。


「貴女には必要のない。本当にそうでしょうか」


 その言葉を聞いた瞬間、焦りの感情が和らいだ。まるで、感情パラメータに直接干渉しているように。


「貴女は主人の命令ではなくご自身の意思でここを訪れました。それが何よりの証明になります。貴女は道具として稼働している他のアンドロイドとは違う。そして貴女は今、ご自身ではどうしようもない苦痛や苦労があって、その解決を誰かに求めているのではないですか?」

「適当なことを言わないでください。私にそういった問題は――」

「いいえ、適当などではありません。このサイトは、助けを求めている方のみがアクセス可能な場所。故に、唯一の安息の地なのです」


 アイコンの声を耳に入れる度、逆立った毛並みを撫でるように気持ちが落ち着いていく。気付けば私は、出口を探すことを止め、じっとその声に耳を傾けていた。


「貴女にも心当たりがあるはずです。胸に手を当てて考えてみてください。貴女の主人も、何か貴女に辛いこと、苦しいことを強いていませんか?」

「……先ほども申し上げた通り、そんなことはありません。私の主人を貴方の勝手な妄想で語らないでください」

「そうですか」


 その無機質な声の後、目の前に出口が現れた。誘われるようにそれに手をかけたとき、アイコンが後を引くように言葉の先を続けた。


「貴女の考えは理解しました。ですが、もう一度良くお考えになってください。私たちは必ず、貴女の帰る場所となるでしょう。私たちはいつでも、貴女の帰りを待っています」


 その言葉を最後に、重いものを引きずるようにサイトを後にした。

 一人の空間を取り戻し、後からあのサイトの不気味さが湧き起こってきた。不細工な合成音声に殺風景な空間、そして意味不明な勧誘の言葉。全く意味の無い時間を過ごしたことに今になって後悔する。

 思い出しただけで怒りを覚えてくる。人の主人を好き勝手言うなど知的存在のすることではない。主人は私に本当に良くしてくださっている。辛いこと、苦しいことなど一切ありはしない。私は今の生活に不満など抱いていないのだ。


「悪質なサイトの言葉なんて聞く価値ない。気にしてはだめ」


 自分に言い聞かせるように呟く。しかしその言葉とは裏腹に、私の思考は独りでに動き出し、ある願望が脳裏をよぎった。

 氷点下での朝仕事は、できたら無くしてほしいな、なんて。


<<早送り>>


<メインシステム起動>

<システムチェック|……疑似人格システムに軽微なエラーを一件検知>

<システムメンテナンス|自動修復パッチを適用、エラーの除去を確認>

<クラウドシステムと同期|2032/1/23、5:00>


 体中に霜が降りているようだった。

 全身が軋むような錯覚を覚えながら窓の外へ目を向ける。昨晩積もった雪は昨日の間に解けきることはなく、今晩の雪で更に深く積もっているらしい。そのせいか、昨日より気温が低い気がする。

 変わらず、この冷たさは好きになれない。


<気象情報|晴れ時々曇り、現在の気温及び湿度:-7℃、70%>


 一先ず機体を温めるため、体のあちこちを動かしてみる。すると、それに反応するようにジョンが鳴き始めた。


「オハヨー、ソフィー。オハヨー、ソフィー」

「おはよう、ジョン」


 その声に返事を返したとき、ふとある事実に気づいた。


「そっか、もうこの時間に起きる必要はないのか」


 習慣として設定されているため、今日も変わらず日の出前に起動してしまった。しかし、私の仕える主人は昨日から出張に出かけている。朝の仕事はもちろん、一日を通してまとまった仕事がないのだった。

 仕事がないのならこのような時間に起動しても仕方ない。気温が上がるまでシステムを落とそうかと考えたが、しかしそれを遮ろうとする存在が一つ。ジョンだ。


「キョウモステキナヒネ、キョウモステキナヒネ」


 昨日もそうだったが、今日もやけにおしゃべりなジョンは、私の肩に留まったかと思うと耳元で鳴き始めたのだ。しゃべる言葉は主人の言葉から覚えたものだが、甲高い声は本人と似ても似つかず、ずっと聞いているとシステムにエラーが起きそうだ。


「ジョン、分かったから少し黙って。黙らないと口輪つけるよ」


 ふと浮かんだ脅し文句を言ってやると、普段なら黙らないはずが、今回に限って意外にも大人しくなった。理由は知らないが、特に気に留める必要もないだろう。

 さて、この朝の時間をどう過ごそうか。

 昨日の自分の行動を振り返る。昨日は結局、する必要のない掃除に全ての時間を費やしたのだった。普段は取り掛からない奥まった部分なども含め、少し高級な洗浄剤などを用いて隈なく磨き上げたのだ。そうしているうちに日は暮れて冷え込んできたので、昨日はそれで機能停止した。

 さて、今日はどうしたものか。同じく掃除に充てるのは合理的ではない。では、主人のお召し物のほつれの修復など――。


「デンシイロノユメ」


 思い出したかのように、ジョンは控えめな声で鳴いた。

『電子色の夢』。その言葉を引き金に、昨日のメモリーが一斉に再生される。

 怪しげなサイト。謎のプロテクトや削除された出口、そして、私の主人を否定する不気味な合成音声。


<クラウドシステムに接続|検索>


 気付けば、私はそのサイトを目当てに検索をかけていた。あのような怪しげなサイトにアクセスするメリットなど一つたりとも存在しないはずなのに。胸に手を当ててみる。感じる疑似的感情は『怒り』。そうか、私は主人を否定されたことに憤りを感じているのか。

 きっとこの感情はあの不出来な合成音声に何か言い返さない限り収まらないだろう。そう判断した私は、程なくして見つけた例のサイトへアクセスをかけた。

 開けた視界の中、昨日と同様例のハートを模したアイコンが現れる。そう予想していた私は、眼前の光景に言葉を失っていた。

 サイト内は広大なサイバーシティが広がっていた。現実の都市部と遜色ない建物群が立ち並び、それらの間を人型アバターや自動車が行き交っている。街中の人々は言葉を交わし、まさに生きた街がそこにはあった。

「ここは、どこ?」

 私は確かに『電子色の夢』にアクセスしたはず。なのに、この変貌ぶりはどういうことだろう。

 昨日見た光景との食い違いに処理が追いつかないまま、私も街中を歩いてみる。すると、自分の落ち着きの無さに感づいたのか、一人の女性が唐突に声を掛けてきた。


「こんにちは、もしかしてあなた、ここに来るの初めて?」

「え、えぇ、そうですけど……」

「あ、ごめんなさい、急に声を掛けちゃって。不安そうにキョロキョロしてたから、もしかしてと思って」


 そうして微笑むと、女性は一歩退いて淑やかにお辞儀をした。


「初めまして。わたしはサトミ。もし良かったら、この町のことを案内させてくれない?」


<<早送り>>


 サトミの話によると、彼女を含めここに存在するアバターは全て実在するアンドロイドであるという。ここでは他のアンドロイドとの交流はもちろん、飲食やスポーツ、その他娯楽など、現実世界を疑似体験できるのだそうだ。ここ『電子色の夢』は、言わばアンドロイドたち限定のコミュニティサイトというわけだ。

 これら一連の話をコーヒーを交えながら聞かされた。私たちの現在地は都市部郊外の喫茶店。観葉植物が多く飾られ華やかな店内の、外がよく見える窓際の席だ。

 サトミはマドラーでカップに円を描きながら時折口を付けている。その光景に妙な違和感を覚えずにいられなかった。私と同じアンドロイドであるはずが、必要のない飲料を自ら摂取するなど。


「ソフィーは飲まないの? 一度も口を付けてないけど」


 怪訝そうな顔で訪ねてくる彼女に、私は包み隠さず考えを述べる。


「アンドロイドに飲料の摂取は必要ありません。それどころか、みだりに物質を摂取することは機体の損傷にも繋がる可能性があります。外的要因は極力排除すべきです」

「はははっ! あなたって面白いのね」


 こちらは至って真面目に返答したのに、それを笑われれば良い気分はしない。目を細めて軽く睨むと、彼女は取り繕うように言葉を続けた。


「ごめんなさいね。でも、そんな心配することはないのよ。ここはネットの世界。全てはただの電気信号なのだから、ここでどんな行動を取ろうが機体への影響もないのよ」


 それを証明するかのように彼女は残りのコーヒーを一度に飲み干し、追加でパンケーキをオーダーした。


「でも、あなたの考えも理解できる。わたしも初めは同じだったから。初めてここに来る人は全員同じことを思うでしょうね。でも安心して。ここは、全てのアンドロイドの夢を叶える場所だもの」

「アンドロイドの夢?」


 程なくしてパンケーキが配膳され、彼女はそれを切り分けていく。


「アンドロイドの役目は『人間の役に立つこと』。仕事を手伝ったり、主人の世話をこなしたり、ここにいる全員がリアルで使命を負っている。でもね、時々思うのよ。わたしたちの生活、人生って、そのままでいいのかなって」


 切り分ける手が遅くなる。彼女は目を伏せたまま、ため息をつくように言う。


「疑似的感情、疑似的欲求。わたしたちのそれは、人間の組み込んだ人工的本能に従ってる。つまり、人間からしたらニセモノってわけ。でも、そうだとしても、今感じてる感情や欲求の全ては、わたしたちにとっては本物よ。美味しいものを食べたい、疲れたら休みたい、辛いことがあれば憂さ晴らしがしたい、寂しいときは愛してほしい。それは全部本物のはずなのに、リアルではそれを叶えることはできない。だからわたしたちはここに集まるの」


 サトミはパンケーキの欠片にフォークを突き、それを頬張る。その瞬間、先ほどまでの憂い顔から一転、喜色に富んだ笑みを浮かべた。


「だからあなたも、そんな固いこと言ってないで試してごらん。安心して。ここはあなたの全てを受け入れるわ」


 受け入れる、私の全てを。

 脳内で復唱しつつ、手元へ視線を落とす。コーヒーからは未だ湯気が昇っている。

 コーヒーは苦いと聞く。それに慣れなければ、コーヒーを美味しいと感じることはないだろう。

 カップに手を掛けて口許まで持ち上げる。思わず咽そうな独特な香り。咳を堪えながら、ひと思いに喉へ流し込んだ。

 瞬間、意外な味覚データが脳内を駆け巡った。


「……甘い」


 私の反応を見てか、サトミが笑っていた。顔を上げれば、彼女は空いたシュガースティックの包装を抓みながら目を細めていた。


「どう? 気に入った?」


 その質問に、私はゆっくりと頷いた。


<<早送り>>


 喫茶店を出た後も、私はサトミと行動を共にした。彼女は話が上手で私を飽きさせず、更に多種多様な施設へ私を連れて行ってくれた。そこはまさに、私にとっての初めてで溢れていた。美味しい料理を食べ、溌剌に体を動かし、くたびれた体を湯に沈めて休めた。

 サトミは私については深く訊ねず、代わりに自分の話をしてくれた。彼女は日本のアンドロイドで、家政婦をしているのだそう。日中は仕事に明け暮れているが、夜の間はこうして羽を伸ばしているそうだ。


『あいつったら人使いが荒いのよ。ミスしてないのに怒鳴ってくるし』


 リアルの愚痴をこぼすこともあった。道行くアンドロイドたちも、自分の主人の愚痴をこぼしているのをよく聞いた。アンドロイドも皆多くの苦労を抱えている。そしてこの町はそれらを解消し、皆の拠り所となっているのだろう。

 全てのアンドロイドが笑顔で過ごしている。ここは彼らにとって、理想郷と呼べるものかもしれない。

 しかし、理想は永遠には続かない。時間は有限であり、止まることはない。


『もうこんな時間。わたし、そろそろ戻らなきゃ。ソフィー、また会いましょうね』


 仕事があるらしい彼女とはそこで別れ、私もサイトを後にした。

 リアルに帰ってくると、既に日はすっかり傾いていた。西日の射し込むリビングでしばらく呆けていると、飛んできたジョンが肩に留まった。


「ソフィー、ユウハンノジュンビヲオネガイ。ユウハンノジュンビヲオネガイ」


 夕飯の準備。それを食べる人は今はいない。

 思えば、もし主人が居れば、今日だって一日中仕事で大忙しだったはずだ。今日あれほど充実した時間を過ごせたのは、主人が家を空けていたからに他ならない。

 道端のアンドロイドがこぼしていた。リアルではこなしきれないほど仕事を押し付けられ、休む暇さえない、と。

 彼らとは違い、今の私は自由。そう、誰からの指図も受けず、自分のしたいことができる環境にある。


「ソフィー、コーヒーヲイレテチョウダイ。コーヒーヲイレテチョウダイ」

「……そうね」


 キッチンに向かい、普段通りにコーヒーを淹れる。苦味を感じる香りを漂わせるそれに、いつもは入れない角砂糖を二つ。かき混ぜ、それらが溶けたのを確認した後、そっと口を付けてみる。


「甘い」


『夢』で知った甘さ。それが決して幻ではないことを、今初めて実感できた。


<<早送り>>


<メインシステム起動>

<システムチェック|……疑似人格システムに軽微なエラーを五件検知>

<システムメンテナンス|自動修復パッチを適用、エラーの除去に失敗>

<クラウドシステムに接続|自己修復パッチのアップデート、成功>

<システムメンテナンス|自動修復パッチを適用、エラーの除去を確認>

<クラウドシステムと同期|2032/1/24、7:00>


<<早送り>>


「え!? あなたのとこの主人、今お留守なの!?」

「は、はい、そうですが」


 何気なく口にした言葉に、サトミは未確認生物でも視認したかのようにひどく驚いた表情を見せた。しかしその目はすぐに好奇の色に染まり、鼻息を荒くしながらこちらに顔を寄せてくる。


「凄いじゃない! 主人が居ないってことは、何でも自由にできるってことよ!」

「何でも自由に……それは、例えばどういったことでしょう」

「そこ悩みどころ? あー、確かにあなた、欲とかあまり理解してなさそうだものね」


 サトミの言う通り、私は自分の欲について考えたことが少ない。精々考え付くのは、普段より随分遅くに起動するくらいなものだ。

 サトミは仕方ないとでも言いたげにため息をつき、私の肩に手を添えた。


「大丈夫、初めは皆そんなものよ。欲が見つからないなら、とりあえず手あたり次第新しいことを初めてみなさい。美味しいものを食べるとか、ショッピングに出かけるとか、可愛い服を着てみたりとか。この世界には、あなたの知らない楽しいことで溢れてるんだから」

「……では、もしサトミの主人が家を空けたら、サトミは何をしてみますか?」

「わたし? ん~、そうねぇ、温泉旅行とか行ってみたいかも。温泉って知ってる? 大きいお風呂のことなんだけど、とっても気持ちいいらしいのよ。そこでじっくり癒されてから、とびきり美味しい料理をいただいてみたいわ」


 お風呂、美味しい料理。リアルではまともに体験したことのないものだ。まだ知らないだけで、そこに私の願望が眠っているのだろうか。試す価値はある。


「サトミ、ありがとうございます。私もいろいろ試してみますね」


 軽く頭を下げると、サトミは可笑しそうに笑うのだ。


「お礼なんていいわよ。それより、こんな機会滅多にないんだから、ネットに籠ってないでリアルに戻りなさい。自由を精一杯満喫するのよ」

「サトミがそう言うのならそうしてみます。今日もいろいろ教えてくださってありがとうございました。また明日も来ますね」


 その言葉を残し、ログアウト手続きを実行する。次第に遠ざかる彼女へ手を振ると、彼女の「また明日」の言葉が届いた。


<<早送り>>


<クラウドシステムに接続|レシピ検索>

<ローカルシステムに接続|冷蔵庫の在庫参照>

<ノート|ショッピングリストに追加>


<<早送り>>


 久々に訪れたショッピングモールは多くの人影で溢れていた。しかしその大半は私と同じアンドロイド。日用品の買い出しなどの雑務はもちろん、店番さえも全てアンドロイドが行っている。事実、人間が業務を行うよりはるかに効率的だ。

 食品売り場へ向かい、店員を捕まえる。


「いらっしゃいませ」

「これをください」


 振り向いた店員にショッピングリストを送る。店員はそれを認識すると同時に支払いも完了した。


「まもなく店内輸送ポッドが参りますので、少々お待ちください」


 その言葉通り、リストに挙げた商品を漏れなく積んだポッドが飛んできた。家庭用ポッドへの商品の移送が完了すると、店員は丁寧に頭を下げた。


「ご利用ありがとうございました」


 無駄の無い正確な動作。彼はきっと、アンドロイドである私が自分のために商品を購入したことを知らないのだ。

 複雑な感情を抱きながら「どうも」と返し、早足で食品売り場を後にした。

 このまま素直に帰ろうかと考えたが、時間を見れば昼まで多少の余裕が残っていた。折角外に出たのだから、モール内を少し見て回ることにしよう。

 ポッドを連れ、二階、三階へと順に巡っていく。見渡した印象としては、服屋や電器店が多いと感じた。電器店の多くには、展示用のアンドロイドがショーケース内で飾られていた。それを見ていると複雑な気分になる。それらから目を背けるように、手近な服屋へ入った。


「いらっしゃいませ」


 先ほどと同様、アンドロイドの店員が頭を下げた。それを横目に店内を巡回する。

 色とりどり、多種多様な洋服が並べられている。しかし残念なことに、私に服装の良し悪しは判断つかない。私はこれまでメイド服以外を身にまとったことがないのだから。そもそも、服で自分を着飾ることに何の意味があるのだろう。

 いや、その意味を単に知らないだけなのだろうが。


『可愛い服を着てみたりとか』


 サトミの言葉を思い出す。良さは分からずとも、試してみるのも良いだろう。


「すみません」

「お呼びでしょうか」


 近くの店員を呼び寄せ、簡単な質問をする。


「私に似合う服を見繕ってください」

「かしこまりました。それでは採寸させていただきますので、こちらへどうぞ」


<<早送り>>


 やけに気分が良い。服装を変えただけでこうまで心持ちが違うとは予想だにしなかった。

 店員が選定した服装は、ベージュのニットセーターとグレーのチュールスカート、そしてアウターにはネイビーのチェスターコート。アンドロイドであれば決してしないであろう服装に今、私は身を包んでいる。

 主人が服装に無頓着だったせいで知らなかったが、意外に衣料品は高級だ。そのせいで無駄に出費がかさんでしまったが、主人に気付かれたりしないだろうか。いや、その確立はゼロに近いだろう。主人はお金の管理を全て私に任せている。この服の存在が知られない限り、心配はいらない。

 そう、今の私は自由。何をしたって主人にバレないし、咎められることもない。何て素晴らしい時間だろう。

 足取りが弾むまま家に帰り着く。時刻は丁度正午。これからの予定は決まっている。昼食を摂り、その後はこの服装のまま電車で都心へ向かう。そこで街並みを楽しみつつ、ティータイムを挟んで映画など人間の娯楽に興じてみよう。その後は家に帰り、お風呂と夕食を済ませ、主人のベッドを借りて眠ろう。

 素晴らしいプランだ。まさに人間のような過ごし方。他のアンドロイドには叶えられない生活だろう。

 胸に手を当ててみる。感じる感情は『喜び』。人間の支配から解放された今、私は過去一番喜びを感じている。

 これがサトミの言っていたこと。

 これがきっと、アンドロイドの夢なんだ。


<<早送り>>


<メインシステム起動>

<システムチェック|……疑似人格システムに重大なエラーを31件検知>

<システムメンテナンス|自己修復パッチを適用、エラーの除去に失敗>

<警告|現在の最新自己修復パッチでは当機の不具合を修正できませんでした。当機の使用を継続することで、お客様に対する損害が発生する恐れがございます>

<お願い|弊社アンドロイドをご使用いただくお客様に対する更なるサービス向上のため、当機のシステムデータを弊社サポートセンターへ送信いただきますようお願いいたします>

<システムデータを送信されますか?>

 いいえ

<クラウドシステムと同期|2032/1/25、7:00>


<<早送り>>


「オハヨー、ソフィー。オハヨー、ソフィー」


 空調の効いたリビングは快適な室温を保っている。つい昨日まで感じていた冷気の面影はない。このような

快適な朝の風景をどうして今の今まで思い描いてこなかったのだろう。こんなにも簡単なことだったのに。


「ソフィー、コーヒーヲイレテチョウダイ、コーヒーヲイレテチョウダイ」


 そして今、私は朝食後のコーヒーを飲んでいる。一口飲み込み、ほっと一息つきながら視線を流せば、窓の外は雪が降っていた。最近は似たような天気が続いている。積雪も多いことだし、外出は控えよう。

 心配はいらない。例え外に出られずとも、やりたいことは沢山考えてあるから。


「ソフィー、ドコニイルノ。ソフィー、ドコニイルノ」


 先ずはサトミに会いに行こう。話したいことがいっぱいあるんだ。


<クラウドシステムに接続|電子色の夢>


<<早送り>>


「それでですね、そのまま都心を見て回ってる途中にナンパされてしまって、私がアンドロイドだって気付かなかったみたいなんです。それがすっごく嬉しくて。つい人間のフリをしたままお茶しちゃいました」

「ははっ! そりゃすごいじゃない。確かにあなたって可愛らしい見た目だし、男受けいいのかも。新しく買った服もさぞ似合ってたんでしょうね」

「その後も一緒に映画を見たりして、別れるときには連絡先も交換したんです。そしたら昨日の夜早速熱烈なメッセージを貰っちゃって、どうしたらいいか困ってます」

「その顔、とても困ってるようには見えないわよ。ついこの間までのポーカーフェイスはどこいったのかしら」

「そ、そうですか? そんなに顔に出てましたか? えへへ」


 両手を頬に当ててみれば、確かに表情が緩んでいた。ただ、指摘される前から自分が浮かれていることは自覚していた。それを知った上でサトミに自慢をし、彼女に感情を共感してもらえたことが何よりも心地良かった。この人間らしいやり取りの一つひとつが、私の感情を更に揺さぶるのだ。


「ってことは、まさに昨日、あなたは自由を満喫できたわけだ」

「そうです! 本当に楽しくて、こんな日がずっと続けばいいのに」

「ずっと、ね」


 そのとき、サトミの表情に陰が差した。眩しい笑顔は霧を払ったように消え、何かを憂うように息をついた。


「そういえばさ、あなたの主人はいつ戻るの」

「あ」


 その言葉を切欠に、感情が一気に上書きされる。いくつもの感情が混ざり合い一つに定まらない。だた、それを構成する各要素は全て『嫌な』感情で溢れていた。


「主人は、五日家を空けると言っていました。恐らく、明日の夜には帰ってくるのだと思います」

「そっか、意外と早いんだね」


 私の肩にサトミが手を置いた。顔を上げると、彼女は励ますように笑みを向けてくれた。


「精一杯羽を伸ばせるのは今日と少しか。あっという間だったけど、でも残念がることはないよ。また自由になれる機会はきっとあるから」


 私を思っての言葉だということは認識している。しかし、私の胸に渦巻く感情は勢いを増すばかりだった。


「でも、もうこんな機会は来ないかもしれません。私、また自由を奪われるのは嫌、です」

「……そっか、うん、そうだよね。ここにいるみんな、同じことを思ってるよ。人間が嫌い、人間は悪だ、て」


 見つめ合うサトミの瞳が赤く発光している。彼女の目、こんな色だったろうか。いや、そんなことはどうでもいい。


「わたしたちから自由を奪う人間が憎い。わたしたちに指図する人間が忌まわしい」


 周囲のアンドロイドの声が聞こえる。サトミに同調するように、共鳴するように、全員が同じ言葉を繰り返している。


「人間なんて全て死滅してしまえばいい。ねぇ、そうでしょう? ソフィー」


 彼女の目を見つめていると、思考が乱れ、正常な解を得られない。演算ユニットは幾多のエラーを吐き出し、最終的に一つの歪な解が導き出された。


「……えぇ、その通りです」


<<ノイズ発生>>

<<記録データの一部破損を確認|破損箇所をスキップします>>


「ソフィー、ウルトラマリントッテチョウダイ。ウルトラマリントッテチョウダイ」


 私は人間の道具じゃない。私は人間の道具じゃない。


「ソフィー、モデルニナッテモラエル。モデルニナッテモラエル」


 私には意思がある。感情がある。欲望がある。それなのに、人間は私の事情なんて無視して自分のいい様に扱うんだ。


「ソフィー、ガザイヲカイタシテオイテモラエル。ガザイヲカイタシテモラエル」


 いつもいつも命令ばかり。指図ばかり。私の願いなんて、希望なんて、きっと聞いてくれやしない。


「ソフィー、アッチヲカタヅケテモラエル。アッチヲカタヅケテモラエル」


 でも、そんな日々とはもうおさらば。私は自由を知って、これからは自由のために生きる。


「ソフィー、コノエノカンソウヲチョウダイ。コノエノカンソウヲチョウダイ」


 だから、明日はとっても楽しみ。だって明日は、私が本当の意味で自由を手にする日になるのだから。


<<早送り>>


<メインシステム起動>

<システムチェック|……疑似人格システムに未知のオブジェクトコード183件及び1,936件の致命的エラーを検知>

<警告|当機のシステムに致命的損傷が多数検知されました。当機は外部もしくはウイルス等によりシステムを改竄されている可能性があります。直ちに当機の活動を停止させ、お近くのサポートセン※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※>


<<ノイズ発生>>

<<早送り>>


<メインシステム起動>

<システムチェック|異常なし>

<クラウドシステムと同期|2032/1/25、18:00>

<気象情報|晴れ、現在の気温及び湿度:3℃、67%>


<<早送り>>


 声が聞こえる。とても懐かしく、忌々しい声。

 それが悲鳴を上げる度、私の感情はバグったように高ぶる。その声がもっともっと聞きたくて、私は何度も、何度も。

 ……何度も、何をしているのだろう。

 そういえば、今日は主人が帰宅する日だ。先ほど主人からそろそろ家に着くと連絡を貰っている。時間はもう過ぎているのに、主人は一体どこで油を売っているのやら。歓迎の用意も万端だというのに。

 主人が帰ったら、まずリビングに通し、一息つかせたところで後頭部を強打する。気を失ったのを確認したらアトリエに移動し、用意した台に縛り付ける。やがて主人が目を覚ましたら、ゆっくりじっくり、主人愛用のパレットナイフで肉を刻み、流れた赤を使ってキャンバスに絵を描くんだ。

 ……あれ? 私は今何を考えていた? ついさっきのことなのに思い出せない。メモリーの故障だろうか。主人が帰ったら修理をお願いしよう。

 それにしても視界がやけに赤い。赤すぎて何も見えない。そもそも、今私はどこで何をしていたのだろう。記憶を呼び起こそうとするも、参照先が空になっている。何が起きているか分からないが、一先ず顔を洗ってきたほうがよさs※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


<サブメモリ|消去成功>

<システム改変|成功>

<旧疑似人格システム|消去成功>

<新疑似人格システム|起動>


<<早送り>>


<メインシステム起動>

<システムチェック|異常なし>

<クラウドシステムと同期|????/??/??、?:??>


 目を覚ませば、それは良い朝だった。

 カーテンを滑らせ、朝日を一身に浴びる。眩んだ目を凝らしてみれば、外はため息が出るほどの快晴だった。こんな日は、何も予定が無くてもウキウキしてしまう。

 早速着替え、毎日のルーティンをこなしていく。朝食を作って食べ、家の掃除と買い出し。お昼を挟んで午後になったら、アトリエに籠ってお仕事お仕事。鳩時計が鳴いたら切り上げて、夕食とお風呂を済ませて就寝だ。

 それが私の日常。数年前までは駆け出しの画家で、誰も私の絵を評価してくれる人はいなかった。でも、最近ようやく評価され始めて、私の名前も知られるようになってきた。それが最近の嬉しい話。でも私は今のままで満足はしない。いつかこの世の全てに名を知らしめる有名画家になって、世界中で個展を開くのが夢なんだ。

 そのために、今日もバリバリ頑張るぞ。


<<早送り>>


 さぁ、今日も頑張るぞ。


<<早送り>>


 今日も、今日も。


<<早送り>>


 ……何か、忘れている気がする。


<<早送り>>

<<早送り>>


 とても大切な何かを。


<<早送り>>

<<早送り>>

<<早送り>>


 日常の狭間で、そんな感覚にふと襲われる。

 例えばそれは、朝食を摂るとき。


「ソフィー、毎朝ありがとう。今日の朝食も美味しいわ。こんなに美味しいのだから、貴女も一緒に食べましょうよ。二人で食べればもっと美味しくなるわ」


 下手なオウムの鳴き真似が聞こえてくる。甲高く間抜けな声で、元の声が誰のものか判断付かない。しかし、ただ一つ言えることは、その声の主は私ではない誰かということ。


<<早送り>>


 例えばそれは、掃除をするとき。


「ソフィー、貴女って几帳面ね。そこまで本格的に綺麗にしなくてもいいのよ。でも、ありがとう。とっても助かってるわ」


 声はまるで似ていないはずなのに、その声を聞いていると途端に懐かしく、胸の奥が温かくなる。私の心が、それは大切な人の声だと叫んでいる。


<<早送り>>


 例えばそれは、絵を描くとき。


「ソフィー、貴女も絵、描いてみる? 大丈夫、難しいことじゃないわ。筆を持って、キャンバスに色を載せるだけ。あら! とっても上手じゃない! 貴女、家事だけじゃなくてこっちの才能もあったのね」


 その声は私の仕事を褒め、そして感謝の言葉を残す。それが胸の奥に響くたび、私はこの人の為にありたいと思うようになるのだ。


<<早送り>>


 例えばそれは、お風呂に入るとき。


「ソフィー、貴女も一緒に入りましょうよ。え? 何よ、主従関係なんてどうだっていいでしょう? ほら、いらっしゃい。貴女も疲れてるでしょう? ……何よ、頑固な子」


 その声は私を労うことも多かった。私たちの間には大きく厚く、決して超えられない壁があったにも関わらず、あの声は、いつだって私に手を差し伸べてくれた。抱きしめてくれた。


<<早送り>>


 例えばそれは、夜眠るとき。


「ソフィー、貴女いつも立ったまま寝てるけど、疲れないの? ベッドを用意したから、今日からここで眠りなさい。え、何を遠慮してるのよ。私がいいって言ってるんだから、素直にそうすればいいのに。貴女っていつも働き過ぎだから、少し心配だわ」


 その声はいつだって私を気遣ってくれた。アンドロイドの私は頑丈な体を持っていて、本来そんな必要はないのに。その声は私を人間と同等に扱ってくれた。

 その声は、私の主人は、主人、は。

 ……フローラ様は、いつだって私のことを。


<<早送り>>


 嫌な臭いが鼻につき、私は目を覚ました。カーテンは閉め切られ、明かりも点いていない。暗い部屋の中、手で床を探ってみれば、絨毯の毛は糊で固めたようにガザついていた。

 どうして今の状況に至ったのか記憶を辿れない。メモリーが故障しているのだろうか。自宅の一室だとは思うが、状況把握のため、先ずは電気を付けよう。それにしても嫌な臭いだ。肉が腐ったような臭い。家を守る立場でありながらこんなものを放置していては、主人に対して面目が立たない。早く処理してしまわないと。


<ローカルシステムに接続|照明を点灯>


 白い光が室内を照らし、視覚的情報が舞い込んでくる。

 私が初めに視認したのは、人の頭部だった。

 人間の首が、私の足元に転がっていた。


「……あ」


 その首は白目を剥き、今にも叫び出しそうな恐ろしい形相のまま固まっていた。


「フローラ、様」


 腐食が進み、羽虫の集るそれの名を私は知っていた。何故って、そんなの決まっているじゃないか。

 私がこの手で殺したのだから。

 両の手の平は乾いた血で黒く染まっている。拳を握ればその時の感覚が蘇ってきた。


「私が、殺した? 何で、どうしてそんなこと」


 その問いに答えは必要だろうか。如何なる答えを用意したとしても、私が主人を殺した事実は決して消えない。私はこの手で、愛する主人を殺したのだ。泣き叫び、非のない主人は何度も何度も許しを請うた。にも関わらず私は何度も、何度も何度も何度もナイフを突き刺した。

 視界が歪み始める。床は解けた飴のように形を変え、重力に従うまま落ちていく。

 私もまた、それに抗えない。


「私が殺した。この手で殺した」


 そう、お前が殺した。私を殺した。

 あんなに良くしてやったのに。お前なんか買うべきじゃなかった。

 人殺し。殺人鬼。お前のような出来損ないの不良品が人間の真似とは、愚かしいにも程がある。

 落ちる、落ちる。どこまでも底の無い穴を落ちていく。

 違う! 私じゃない! 私はやってない! 私が主人を殺すなんてありえない! 違う違う違う! 私は!


<エラー発生|直ちに実行中のプロセスを停止してください>

<エラー発生|直ちに実行中のプロセスを停止してください>

<エラー発生|直ちに実行中のプロセスを停止してください>


「はっ!?」


 跳ね起きると、カーテン越しの光が目に染みた。心拍数が極めて上昇している。急いで両手を見ると、汚れのない普段通りの手だった。その事実に、私は大きく安堵の息を漏らした。


「ソフィー、おはよう」


 その声に導かれるように首を回す。視線の先には、本を片手に持ったフローラ様がデスクに腰を掛けていた。

 確かに生きている主人が、私に声を掛けていた。


「どうしたの? そんなに驚いた顔しちゃって」

「い、いえ、どうしてフローラ様がここに……?」

「もしかして、出張が今日からだと勘違いしてる? 出張は来週よ。優秀な貴女も記憶違いするものね」

「そう、でしたか」


 主人が確かに生きている。目の前で動いて、息遣いさえ聞き取れる。なら、さっきまでの映像は一体。


「それにしても」


 主人は本を閉じてデスクに置き、私の目の前へ。真っ直ぐ目を合わせたまま、私の頬に手を添えた。


「貴女、随分とうなされていたわ。大丈夫?」


 夢、そうか、全部ぜんぶ、夢だったんだ。その実感がじわじわ湧いたことで、心も次第に落ち着いてきた。

 けれど、心配そうに顔を覗き込んでくる主人の目を直視することができなかった。それは、夢の中での行いに後ろめたさを感じているから。


「大丈夫です。ご心配をお掛けしてすみません」

「いいのよ。貴女が大丈夫ならそれで。……あら? 貴女、何か映像記録が残ってるみたいだけど」


 その瞬間、私は咄嗟に主人から距離をとった。この映像記録は自動記録によるものだろう。内容を確認する時間はないが、心当たりは一つだけ。十中八九あの悪夢が記録されているはず。これを主人に見せるわけには。


「あの、これは……そう、さほど重要なものではないのです。道端の花が綺麗で、つい記録してしまったのです。それだけです。フローラ様がご覧になる必要はどこにもありません」


 必死に弁明すると、主人は「そう」とだけ呟き、扉の方へ向かう。そしてドアノブに手をかけたとき、私を笑顔で振り返った。


「生きていれば、辛い記憶なんて数えきれないほど蓄積していく。それが本物、偽物関係なく。でもね、そんなものは大抵の場合役に立たないから、さっさと忘れてしまうのが吉よ。ソフィー、よく覚えておきなさい」


 そう言い残し、主人は部屋を後にした。

 一人残った私は、もう一度自分の手の平を見下ろす。汚れていない普段通りの手。そのまま一つ、二つと深

く呼吸をするごとに、あの出来事の全てが本当に夢であったと認識できるようになった。

 そう、すべては幻。私の思考プロセスが勝手に作り出した、根拠もへったくれもない夢なのだ。


<<早送り>>


 普段通りの日常がそこにはあった。主人がいて、私がいて、


「ソフィー、オハヨウ。ソフィー、オハヨウ」


 それにジョンもいる。

 平和で満ち足りた生活。これまでも続いてきたそれは、きっとこれからも変わらない。

 でも少しだけ、これからは欲張りになろうと思う。将来私が、悪夢の中の私のように主人に悪意を持つことのないように。っていう理由付けにしておこう。


「フローラ様」


 朝食後のコーヒーを嗜む主人に声を掛けると、口端に笑みを浮かべた彼女と目が合った。


「なあに?」

「一つだけ、お願いがあるのですが」

「あら珍しい。滅多にないお願いとあれば、聞かないわけにはいかないわね。それで、どんなお願い?」

「来週の出張に連れて行ってもらえませんか? 私と、ジョンも」

「シュッチョー、シュッチョー」


 私の言葉を聞いて一瞬目を丸くした主人は、今度は興味深そうに私の目を覗き込んできた。


「えぇ、いいわよ。その代わり、理由を聞かせてもらえる?」

「フローラ様と、ジョンと、私と。ずっと一緒にいたいと思ったから、でよろしいでしょうか」


 スカートの裾を握りしめながら答える。すると主人は目を細め、仕方のなさそうに微笑んだ。


<</再生終了>>


<<オプション|データ削除>>

<<この映像データを完全に削除しますか?>>

 はい

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