第1話
ーーアンフェタミン・・・・覚せい剤の一般名である。通称でスピード、エス、またはシャブ
と呼ばれている。メタンフェタミンともいう。−−
やっと陽が暮れた。二車線の県道の両側に伸びる歩道に落とされている影の全てが、人の姿に見えて仕方が無い。特に行き先を持っていなかった僕は、ただひたすらに車でさ迷っているだけだった。夕暮れに包まれた県道の上を走る車中の僕は、片手でハンドルを握り、そしてもう片方の手はどうしてもズボンの中心へとやってしまう。自分で経営する会社のトイレの個室の中で甘いケムリを喰らったのは、つい30分前の事だった。
8年前に今の会社を立ち上げた僕は今年で39歳になっていた。その会社は今や輸入車販売店をはじめ、炭火レストランや貴金属店など7店舗を運営する企業に成長していた。その社長である僕のドラッグ経歴は今から19年前の20歳の夏にその始まりを迎えた。
〜1
1988年8月。夏の日の午後四時過ぎ、この時間帯の大学寮には友人の近藤だけは部屋に居るはずだった。キャンパスからは歩いても10分程度、背中の汗に嫌気を感じ始めた頃に僕は大学寮のミヤビ荘に到着していた。額から滴り始めた汗をTシャツの肩で拭いながら見上げたミヤビ荘には、案の定、寮生は不在の気配だった。106号室、僕はいつも鍵の掛かっていない近藤の部屋のドアを躊躇い無く開けてから、室内に向かって声を投げ入れた。
「おぉい、近藤、居るかあ? 」
気配を確かめようと頭を中に差し込んだ時、小さな玄関のたたきの左横にあるキッチンらしき申し訳程度の設備が見えた。
「おぉい・・・居らんのかあ? 」
部屋の中からの返事は無かった。しかし、ここから奥に見える襖の向こうには、明らかな人の気配が感じられていた。仕方が無い・・・。僕は何気に辺りを見回しながらバスケットシューズを脱ぐために片足になっていた。そして、小さなキッチンのささやかなシンク台の上に放る様にして置いてあるアルミホイルの空箱に視線を留めながら、奥に居るはずの近藤にしつこく呼び掛けるのだった。
「近藤ぉ・・・? 寝てるんかぁ? 」
僕は自分の両足から離れたバスケットシューズをたたきに転がして僅か数歩先の襖へと向かい始めた。この僅か数歩の距離の先にはここで唯一の部屋、6畳の和室があって、この6畳の和室が近藤の寮生活の殆どの時間を過ごす城だった。ほんの数歩で襖の前に立った時、襖の向こうの確かな物音と共に、僕の鼻は何かブドウを思わせる匂いを受け取っていた。その匂いを気にしながら、僕はもう一度、襖の向こうに声を押し込んだ。
「オイ・・・・ 入るぞ!」
滑りの悪い襖を払ってそれが開いたと同時に、僕は自分の両目が自然と見開かれていくのがわかった。部屋の中は真っ白い煙で覆われたようになっていた。
そして、それと同時にさっきのブドウが今度は完全に僕の嗅覚の全てを支配したのだった。