桜散るその日までに
俺は走っていた。それはそれはもうこれ以上ないほど急いでいた。
トイレに間に合わなくなってイケメンがベンチで待ち構えていてということはないが急いでいた。ゆえに奴が切り株の前に座っていても気づかなかった。
「あの」
くっそ。寝過ごした! 教授のやろうめええ?!!
俺は雨の中歩いていた。
それはそれは陰鬱な気分で。
すっかり雨で重くなったパーカーをどうしようか。
フードが役に立たず、顔に張り付くのをうっとおしいと思いながらも。
「その。傘。いりますか」
「お前のだろ」
ああ。なんか立ち尽くして傘を抱きしめているけど。
あいつも失恋したのかな。切り株の上に立ち尽くすそいつを尻目に俺は帰路につく。帰路についたからって誰も家にはいないのだが。
俺はウキウキしながら家路を急ぐ。
さくらんぼの新作ケーキ。男なのにスイーツが好きだって言われると笑われるかもしれない。ましてや自分で作るなんて珍しい趣味だとも。だが改める気はしない。
ステップを踏みながら歩く俺。
やがて彼とまたすれ違う。
「その。あの」
「おう! またな!」
なんかよく会うな。あいつ。
俺はその切り株の前に立つ。
桜の切り株。一本だけのびた細い小枝に咲いた桜の花びら。
「ぼくはこの桜の精なのです。あなたにこの花が散る前に想いを伝えられてよかった」
そういって奴は消えた。
話かけても、叫んでも奴は出てこなくなった。
なんだよ。勝手な奴だな。
桜の保存運動をしていた俺は結局この大きな桜を守れなかった。律儀にも奴は花が散るまでの短い間に必死になって俺にお礼を言おうとしていたらしい。
全く意味ないよな。だって守れなかったのにな。
俺はケーキを焼く。
さくらんぼのケーキだ。
俺は燻製を作る。桜のチップだ。俺は桜餅を作る。
俺の庭にある小さな刺し木。
柔らかくほほ笑む子供の姿をした『奴』が笑う。
「ケーキ! ケーキ! ケーキ!」
「ああもう! おとなしくしていろ」
桜の精は若返り、いまだ俺のそばにいる。




