嫉妬の歌
嫉妬は配偶間殺人の理由で一位らしい。
嫉妬が無ければ文学作品の殆どは無くなるであろう。
嫉妬は渇望でもある。叶えられない夢を追う力でもある。
故に嫉妬にくるっている姿はある意味幸せなのかも知れない。
己を傷つけ、人を傷つけ、苦悩し辱め一つを追及する姿は狂おしく愛おしい。
持たぬものを求めて、あるいはかつて持っていたものを取り戻すためにいわれもない疑念を抱くことも少なからずある。
嫉妬に囚われた人は現実の世界から外れ、夢の世界の凶行に己を誘う。
それは数年、あるいは数十年に及ぶこともある。
嫉妬の力は凄まじく、また自らの地位を向上することもある。
しかし多くの場合、自らを高める事より人々の足を引くことにその力は費やされるのが面白い処である。
とは言え、他人事ではない。我々もまた嫉妬の世界に生きている。
親友に嫉妬するものもいる。親友は君の誠意を信じているがキミは親友を引き裂いてやりたいと思っていることもある。あるいは逆か。双方か。
恋人に嫉妬し、顔を合わせた事も無い人間の才に嫉妬し、実につかれる世の中だ。
人間だけかと思えば動物も嫉妬する。大人だけかと思いきや赤子ですら嫉妬する。
どうやら生物は嫉妬から逃れることは出来ないらしい。あるいは生物は他の生物にすら嫉妬することで進化してきたのかもしれないと思えるのだ。
では純粋に自己を高めることしか考えないということはどういう事だろうか。
未だ見ぬ理想の自分に嫉妬しているのだろうか。それとも小石(恋し)を延々と積み続ける賽の河原の赤子のようなものなのだろうか。
賽の河原の赤子はその石塔が完成すれば別れた親に逢えると信じて今日も恋し恋しと乞いつつ小石を詰んで親に会うことを請い続ける。
地獄の川原で親より先に死んだ身を嘆きながら。親を悲しませたと呪いながら。
その石塔は完成することなく鬼に砕かれる定めと知りつつもだ。
ならば嫉妬も羨望も無駄な労力と言えるのかも知れない。それでも人は無力な赤子の手で恋し恋しと乞いながら請い続ける。
いつか何時か五日と知れぬ日々を過ごして石にヒビが入るまで。
願いは叶うことはないかも知れない。だがその掌に刻まれた傷は知っている。
石塔を積み続け、花を摘み人の希望を詰みつづけた罪の重みを知っている。
人は己が手の重みを思み、想うて生きる。
嫉妬の歌を歌いながら。
参考資料:パルル・セガル 嫉妬の歌
http://www.ted.com/talks/lang/ja/parul_sehgal_an_ode_to_envy.html




