空へ
私は空に還る。貴方の待つ青い青い空へ。
子供というものは鳥に憧れる。
いや。食べても旨いが。
女子でも蝶を愛でるだろう。
幸か不幸か私にはそういう話は無かったが。
とにかく子供の頃の私は風呂敷を広げて高所から飛び降りて母の叱責を受け、両手を広げてばたつかせて空に舞わんと試みては神社の階段から転げ落ちて漁師である父に大笑いされてしまうような子供だった。
ちょっと考えれば人は空を飛べないと解るのだが。大人になれば。
だが、大人に私はなりきれなかったのだろう。少々成績が良かった私はこともあろうに軍人の道を歩んでいた。飛行機に乗れるからである。
時々親父の親戚が干物を届けてくれるのが何よりの楽しみで、stoveでこっそり焼く。カラカラの干物がじっくりと熱く焼け、芳醇な香りを放ってきたとき、普段煩い教官殿が踏み込んできた。
懲罰を覚悟した我々に酒を手に「どうもどうも」と笑いながら入ってきたときは皆大笑いしたものであった。昼間その話題を口にしたときは鉄拳と根性棒の尻叩き百回が待っていたが。
私たちの尻が青さを超えて黒ずんだ話はさておき、思えば青臭い論を学生時代は仲間と熱く語っていたものだ。
青さが酷くて赤くなっていたときは流石に遠い親戚の小父より小言を頂いた。
その時は彼が特高で助かったとだけ述べておく。
ひとつ先輩である彼と出会ったのはそうした学生時代の頃だ。
多分に女っ気のないこの学び舎ではそういった趣味の者が少なからずおり、少々目立つ容姿の者はさっそく先輩方に目をつけられる。幸いにも父譲りの地味でお世辞にも良いと言えない容姿の私はそういうことはなかったが。
彼は柔和な顔立ちを持った人物で、我々の青臭い論を尻目に木陰で書を読んでいる事が多かった。
それも上が見れば敵性思想と思われても仕方のない洋書、海外文学の類だ。私がそれを指摘すると彼は華やかに笑ってみせた。少し胸が鳴り、頬が引きつったのを覚えている。
彼の指先は冷え切った鉄の下駄より冷たく、stoveより熱く。その肌は太陽の日差しのように暖かだった。
決して成績優秀と言えなかった私が曲りなりに飛行機に乗れるようになったのも彼の導きであろう。
軍人になってまず戸惑ったのは見たことも無い金子だ。良くできているもので銃や服や身の回りの品を買えばその金子はすっからかん。
「貴様と違っておさがりの貰えん貧しい漁師の息子じゃなぁ」
「だが、お前の親父殿の干物は絶品だ。酒の肴によい」
そういって赤い舌を出してお互いの唇を濡らす。
少し残った金は親父殿に贈ろう。そうしよう。
上司が料亭に連れて行ってくれたり、馴染みの遊女も出来たがいまいちしっくりこないまま日々を過ごす間に故国を囲む戦況はますます悪くなってきた。
見合いをしきりに迫る両親の手紙に辟易し、同僚に小突かれて振り返る。
街の中、久しぶりに彼の姿を見た。
親の決めた婚約者と結婚するという。少し生じた胸の痛みを忘れる事が出来なかった。
あの日は雨の日だった。彼がぎこちなくさす傘に入る少女は華やかで美しかった。
「苦しいかい」
「いいえ」
少女と言っていい娘は酸素面を口に運ぶ。
私も酸素面を口に運び原動機に火をつける。
「怖いかい」
「これから逢いに行くのに? 楽しいですよ」
その言葉に嘘は無いのだろう。私のほうが脅えているのだ。
膝が震え、握りしめる操縦桿は氷のように冷たい。
「女が乗っているぞ?!」
「止まれ! 止まれ! 渓!!」
ぐんと沈む身体、ずっと増える重さ。その直後に私たちの身体は舞い上がる。遥かな空へ。
婚約を解消して空に旅立った彼を追う彼女。そして私は空に向かう。
今日は良い空だ。
青い。青い青い空を横切り、白い白い雲を目端に捕えて私たちは舞う。
地上から舞い上がる対空火線。
ああ。この上でdanceが出来そう。
私は操縦桿を握り、明るく輝く太陽へ飛ぶ。
火線が翼を横切り、炎と共にもぎ取った。
振り返ると彼女の静謐な顔立ち。その奥底には優しく微笑む彼の暖かな面。
このまま空へ。ずっと高く空へ。貴方の待つ空へ。
私が目で語ると彼は微笑んでくれた。
冷たく固まった手に触れる彼の掌。
凍えた身体を熱くしてくれる彼のため息。
私たちは空に還る。
私は空に還る。
貴方の待つ青い青い空へ。
渓富市 享年二十三歳
沢恵子 享年二十一歳
戦果:航空母艦炎上
ただし、公式記録にはそのような資料は存在しない。




