もしこの世界が終わるとしたら(世界破壊スイッチ番外)
『世界破壊スイッチ取扱イ説明書。但シ書キ』
私は不思議なスイッチを拾った。
このスイッチを押せば所有者にとっての世界が滅ぶと書いている。
子供の玩具だろう。『押すな』と書いている赤いボタンは掌に収まるサイズ。
確かに私は仕事も上手くいっていない。妻との仲も宜しいとは言えないだろう。
私のお小遣いは僅かなのに対して、我が妻が自分へのご褒美と称しては散財を繰り返しているのも知っている。
私が五百円のコンビニ弁当を食べている間、あの結婚当初の細身が想像もつかない細君ならぬ豚気味は汗を搔きながら高級肉を焼いて食べていることも。
子供は反抗期だし、近寄るだけで鼻をつままれ、家に帰るのも辛い。
それでも、私は思う。私の利己的な理由で幸せに暮らす人もいるかもしれぬ世界。いつか幸せになろうと努力する人々、生きようと懸命ないのちがいる世界を滅ぼしてはいけないと。
そこまで考えて私は苦笑いした。
すっと差し込む陽の光は冬空の寒さの中で唯一心地よい。
なにを考えているのだ。こんな玩具で。
こんな事だから禿げるのだろうな。まだ四十前なのだが私は迷ってばかりだ。
父や母は常に私に毅然と振る舞い、幼き日の私は大人になれば人は心を喪うのだと本気で思っていた時期がある。
厳しく冷たい風をコートでふさぎ、凍える掌を携帯カイロで温めて思う。
あれは子供に弱さを見せまいとする親心だったのだと今更ながらに悟り、私は前に進む。
「押さないのか。お前も」
不思議な声が聞こえる。
振り返れば私が投げ捨てたスイッチ。
冬の風に転がるそれを拾うと私が先ほどまで持っていたからかほのかに暖かい。
それを弄ぶうちに私は聴いた。『カチッ』と言う音を。
久しぶりの手料理の香りで目が覚めた。妻は最近手料理など作らない。深夜残業などで私が早起きして作れない場合はパン食が基本だ。
「おはよう。あなた」
見上げると若く美しい女性。昔の妻だ。
「おはよう。お
前」私はこれが夢だと思いながら妻に促されるままに洗面台に立つ。顔に当たる水は焼けるように冷たい。
そして髭剃りの泡。その上を滑る剃刀は滑らかに肌の上を滑る。もう剃刀なんて痛くて使わなくなっている筈なのだが。
「おい。私のシェーバーは」
「シェーバー? あなた買ったの?」
不思議そうに目を丸める妻。やがて微笑んでその瞳を閉じる。
「早く。もう行くんでしょ」
「お、おう」
私は彼女の唇を塞ぎ、夢見心地で外に出た。
「パパ。いってらっしゃーい!」
手を振る愛娘に愛想笑い。妙にリアルな昔の夢だな。
「だが、私は思うのだ」
昔は昔。今は今。
私は今の自分が情けなくて莫迦らしくて醜くて浅ましくても、地面をのたうちながらでも。それでも立ち上がって前に進んでいたいと。
結果的に倒れ、くじけ、涙を流しているけど、だからと言って諦めたわけではない。
私は確かにオジサンになったが、私の心はまだ若さを喪っていないのだから。
そう思って電車に乗ろうとしたらどんと背を押された。
あのスイッチを手に悪戯気に笑う少年の笑みが視界の隅に見えた。
「せっかくお前の『世界』を滅ぼしてやったのに、お前はそれを選ぶのかい」
驚愕に目を開く運転士の顔。猛スピードで迫っている筈の電車の鉄の香りが何故かする。
全てがゆっくりと、ゆっくりと動く空間の中で少年の声が聞こえる。
「惚れた。俺のモノになれ」
高らかに宣言する美しい少年に私は告げた。
「私には妻がいるのでね。お断りするよ。なぜならば私は彼女を幸せにすると『貴方』に誓ったのだから」
「戯れにしても度が過ぎるな」
『神』は微笑む。
「ならば、生きなければならんな。だが俺はお前を諦めたわけではないぞ」
気が付くと冷たい布団の中。妻は相変わらず布団から出ようとしない。
子供は腹が減ったと騒ぐ。自分で作ればいいのに。
「キモイの。飯」
「飯は無い。ご飯が欲しいなら自分の分は自分で作りなさい」
私は久しぶりに娘に話しかけた。
「うわ。キモイのが喋った」
嫌がる娘に例のスイッチを投げる。
「飯は無いが世界を滅ぼすスイッチはあるぞ」




