こころかたむけて(前篇)
目が覚めたら古代に居た。
おk。落ち着け諸君。私は頭が可笑しくなったわけではない。信じてほしい。
私の名前は水無月肇。市内の私立高校の歴史教師を務めている。
特技は学生時代にインターハイまで行った柔道。簡単な杖術も嗜む。年齢は三十五歳。生徒から見れば立派なオッサンだな。一応身体は鍛えているつもりなのだが。
容姿か。
角刈りにちょっと目つきの宜しくない。女生徒に言わせればキリリとした顔立ちらしいがそう思うのなら親戚に行き遅れたお姉さんとかいないのかと言いたい。激しく言いたい。
全体的に筋肉質で百八十センチに足りない上背が特徴と言えば特徴だ。
私は古代の小国に転移していた。
これが妄想や夢の類であればそれでよいのだが多分そうではない。市民ではない私は奴隷として扱われる。
しかし教養、特に幼少時に練習したソロバンによる暗算術を買われて私は主人に寵愛され、他の奴隷より幾分マシな待遇に落ち着いた。給与も貰えるのでいつか自分を買い取るべく貯金も行うことが許されていた。
生徒にも言っていたがやはり教養は重要だ。読者の諸君もゆめゆめ覚えていて欲しい。
主人には幼い子供がおり、この少女がとても利発な子で、女だてらに算術や私の軍学の話に興味を抱く変わり者だった。主人曰く、彼女は性別を間違えたらしい。
懐かれてしまった私は、彼女を抱いて道を歩き、ある時は祭りを共に見物し、ある時は主人と彼女の間に割って入って鞭打たれたりなどしたものだ。
それでも主人とその奥方は私によくしてくれ、少女はその知性を持って私の教えを悉く吸収していった。
「『民主主義は最悪の選択だ。何故なら皆が王であるがゆえに皆が責任を取る必要がある。しかし他に無い選択である』」
「上出来ですね。お嬢様」
私が手を叩くと主人と奥様が呆れかえっている。
「本当に。男に生まれれば良い兵士で良い市民になれたのに」
嘆く主人に苦笑いする奥様。
「残念と言えばハジもだ。何故貴様は市民ではなく異民族の奴隷なのだ。貴様の国の人間はそれほど優秀なのに何故人間ならぬバルバロイに生まれた」
運命は如何ともしがたいものです。旦那様。それでも私は良い主人に恵まれております。
「ハジがずっといてくれたらこの家は安泰」
奥様が微笑む。まだ私より若い娘である彼女は少々無防備な所があるが、それゆえ私が幼くして亡くした実の妹のように愛しい。
髭面の主人は私より年上に見えるのだが実際は私よりずっと歳下だ。
「ハジ。貴様の格闘術、もう一度私に授けてくれ」
「めっそうもない」
首を振る私に彼は告げる。
「勝てば奴隷から解放してやる」
「では負けるしかありませんな」
「ふざけるな」
むっとした顔から悪戯げな笑顔を浮かべて頭突きを入れる彼をしっかり受け止める。
はしゃぐ娘たちの声援を受けて私たちは組み合い、そして気勢を上げる。
「ハジのお嫁さんになりたい」
「無理ですよ。お嬢様」
私の背の上で太陽を眺めながら幼い暴君は無理難題。
「奴隷だから? 解放してあげるってお父さん言っていたよ」
「今のままのほうが私は幸せですからね」
それに、徐々に女になっていくこの小さな暴君が時々太陽のように眩しくて手が触れられない存在になりそうな予感がとても快感で、変えたくないのだ。
私の名前は水無月肇。ここではハジと呼ばれる奴隷だ。
私の首を縛る輪は無い。
しかしこの心を縛る見えざる絆は鋼の輪より強く固い。




