第十四章 第四話
舞斗のヤツを保健室で寝かしつけた後……俺は体育館へ向かうことなく、自室へと足を運んでいた。
戦いから逃げる、訳ではない。
ただ……アイツを相手にするには、ちょっとやそっとの気合じゃ足りないと判断したからである。
何しろ、相手は強敵である。
俺よりも遥かに体格が良くて筋力差は絶望的、その上、軍の格闘術を学んでおり、挙句、相手は超能力まで持っていて、古武術の奥義を一つ備えている。
あのマイク=アイアンという巨漢は……そんな、絶望的な相手なのだ。
……だけど。
「……頼まれたから、な」
保健室に舞斗を寝かしつける時、アイツが零した言葉を思い出し、俺は「逃げる」という選択肢を頭に浮かべることもなく、そう呟いていた。
肋骨骨折という重症の舞斗は、半ばうわごとで意味をなさないような、そんな声ではあったが……
アイツは「負けないで」と……そう言ったのだ。
……二時代ほど前に一世を風靡した流行のJ‐POPの如く。
だからこそ、舞斗のヤツに剣術を教えた人間として、それ以上に眼前で友人をあんな目に遭わせられた漢として。
俺は、幾ら相手が強かろうと絶望的であろうとも、もう逃げる訳にはいかなかった。
「さて、と」
そう呟きつつ、俺は上着を脱ぎ捨てる。
上着だけではなく、シャツもズボンも靴下もパンツすらも。
そうして全裸になった俺は、部屋の片隅にあるクローゼットを開く。
制服が幾枚もちょっと雑に重なり合った、その一番下に……俺の求める服はあった。
……白装束。
以前、奈美ちゃんと決闘した、あの時の服である。
──曾祖父に感謝しないと、な。
クローゼットの奥から引き出した純白の褌を締めながら、俺は目を軽く閉じて、大時計と同じく今はもう動かなくなった曾祖父へと思いを馳せた。
その時、だった。
「……う、わ」
そんなうめき声に振り向いてみれば……いつの間に入ってきたのか、亜由美のヤツが窓のところで硬直してやがる。
……どうやら、勝手に入ってこようとして、俺の褌一丁という姿を見て固まってしまったらしい。
もしくはそのもうちょっと前を見られたのかもしれないが……
──今さら、なぁ。
勝負事とは言え、一度は混浴で風呂に入った中である。
俺は軽く肩を竦めると、純白の襦袢を羽織る。
「あ、あのさ」
「……何だ?」
袴を穿こうと手に持ったところで、恐る恐るという雰囲気で亜由美が話しかけてきた。
俺は彼女のAAへと視線を向けることもなく、言葉を返す。
「あんな化け物みたいな相手、勝ち目、あるの?」
「……さぁ、な」
何故かは分からないものの半ば脅えた様子の亜由美の声に……俺はやはり彼女へと視線を向けることもなく、素っ気ない言葉を返す。
返しながらも袴を穿く。
……腰帯はギュッと握って、袴が落ちて来て足を取られないように。
「怪我、するかも知れないよね?
下手したら、一生ものの……」
「……かもな」
亜由美の声を適当に聞き流しながら、俺は純白の羽織に袖を通していた。
そうして着物を着終え、裾を整えた後……襷をかける。
ぶかぶかの袖が戦いの邪魔にならないような配慮である。
──ギリギリの戦いになるだろうからな。
マイク=アイアンとかいう巨漢だけではない。
まだアイツ以外にも二人も超能力者が控えているのだ。
──勝てる、だろうか?
鏡に映った、白装束に身を包んだ自分自身を見つめながら、俺は自問自答する。
答えは……『ノー』だ。
……マイク=アイアン一人を相手にするのでさえも、勝てる可能性は低い。
正直、俺が軽く齧っただけの古武術なんて、あの剣をも弾く『鉄製の肉体』の前には何一つ通用しないかもしれない。
逆にアイツの鋼鉄の一撃は、俺の身体なんてあっさりと破壊してしまうだろう。
──それでも、退けない。
仇討とはそういう戦いなのだ。
勝ち目のあるなしじゃない。
それで何か損得が生まれる訳でもない。
ただ、やりたいからやる。
……いや、やらないと自分が許せない、ただそれだけなのだ。
──それに、勝算がない訳じゃない。
俺の読みがあっていれば……一割か二割程度の勝算はある、だろう。
俺はそう予測すると……鉢巻きをギュッと絞める。
準備は……整った。
「本当に、行くの?」
「……当たり前だ、退ける訳がない」
背後からの声に、俺はもう振り向くこともなく答える。
と言うよりも、今の俺は戦闘モードに切り替わっていて……亜由美が部屋にいたことすら失念していた。
……AAだからとか、そういうことは関係なしに、だ。
「……逃げようよ」
だから、だろう。
亜由美のその言葉を聞いても、俺は振り返ることすらしなかった。
「逃げても、誰も責めないと思うよ?
大怪我をするかもしれないんだし、その……」
「ここで逃げ出したら、今の俺が許しても、未来と過去の俺が許さない。
……退ける、訳がない」
この『夢の島高等学校』に入って以来、最初の友人の言葉を遮って、俺はそう断言する。
……そう。
曾祖父に『常に正直者であれ』と教わったのは、この義憤を誤魔化して生きるような、そういう卑怯者にならないための教えの筈だ。
そして……ここで俺が逃げ出してしまっては、将来、俺は自分の生き方を誇ることも出来ず、ただ俯いて生きるだけの木偶に成り下がってしまうだろう。
だからこそ、例えこの戦いがどんなに危険だとしても……退かない。
……退ける訳がない。
「やっぱり、ボクの言葉じゃ、止まらない、か」
「……悪い、な」
何処か達観したかのような、こうなることが分かっていたような亜由美の声に、俺はそう言葉を返すだけで精一杯だった。
友人の心配を無碍にする行為だから……少し、胸が痛む。
「良いって良いって。
こうなると聞かされていたから」
「……聞かされて?」
そんな謎めいた亜由美の声に、俺は振り返りそうになる自分を必死に抑えていた。
さっきまでずっと背中を向け続けていたのに、こんな些細なことで振り返っていては恰好がつかないこと、この上ない。
「ん。
じゃ、こうなったら伝えてくれって言われていたんだ。
……『ヤバくなったら、策はある』だって」
「……策、ねぇ。
ま、期待はしておく」
亜由美の話が何のことか分からないまま、俺は口先だけでそう答えていた。
答えつつも……その『策』とやらを当てには出来ないだろうことは理解出来ていた。
何しろ、敵はあの二メートル超の大男だ。
──策なんかに期待して気を緩めたその瞬間、俺は一発で肋骨をへし折られてKOされるに違いない。
策があろうとなかろうと……戦うのは、やはり俺一人なのだから。
その事実に肩を竦めた俺は、結局、亜由美に顔を向けることもなく、ただまっすぐに自分の部屋を飛び出す。
……恐らくは勝ち目のない、最悪の相手に挑むために。