第十二章 第五話
体育館に入り、対峙しても亜由美は何も言わなかった。
そして、俺も何も言えなかった。
……いや、下着を見られたとかそういうのは、俺も亜由美のヤツも翌日には完全に忘却の彼方に忘れ去っていたんだけど……今の彼女はそういう浮ついた感じが一切ない。
まさに、これから果し合いをしようとする剣士と似た、真剣な気配を漂わせている。
……そう。
あの日、亜由美のヤツがいつも通りだったということは……それだけ、切り替えがしっかりと出来る、ということだ。
──つまり、今のコイツは万全、か。
体操服に着替え、2メートル弱の棍を手にした亜由美は、何も言わずに軽くステップを踏みつつ、棍の感触を確かめるようにその場で回転させていた。
──これは、苦戦するな……
その棍捌きと、ステップを見て俺は知らず知らずの内に唾を飲み込んでいた。
それだけの動きではあるが、棍捌きは淀みなく、ステップは軽やかで危うさが全くない。
……今日に向けてきっちり体調を整えてきたのが窺える。
「さて、と」
俺も気合を入れるため、肩を回しつつ足裁きを披露する。
亜由美のようなステップではなく、重心を動かさずに身体だけを動かす、古武術に独特の運足は、俺の気合と比例したかのように滑らかに決まる。
どうやら、前の戦いによる疲労も怪我も完全に癒えたらしい。
「……佐藤さんは……万全です」
俺の動きを見て気付いたのだろう。
奈美ちゃんが亜由美のヤツにそうアドバイスをする。
それが、合図になったらしい。
亜由美は棍を脇に抱えると、まっすぐに俺を見つめてきた。
その視線を受けた俺も、息を少しだけ吐き出すと……両手を突出しつつ左半身になり、いつもの構えを取る。
「では、序列戦六位決定戦、始めて下さいっ!」
そして、マネキン教師のその叫びが体育館を響かせた、その時。
「先手、必勝っ!」
真っ先に飛び出したのは俺だった。
身体を前傾させ、防御無視の体勢を取り……渾身の踏み込みで突っ込む。
──跳ばれる、前にっ!
何しろ……亜由美の能力『空中歩行』は非常に厄介な能力なのだ。
あの能力と棍のリーチがあれば、はっきり言って格闘戦では無敵だろう。
何しろ、人体の構造上、そして格闘技が人間同士の戦いを想定している以上……
──格闘技には頭上の敵を攻撃する手段がないっ!
だからこそ、非力で軽量な亜由美のヤツが、アレだけ凄まじい脚力を誇った芦屋颯や、アレだけ凄まじい怪力を誇った羽杷海里先輩を下すことが出来たのだ。
それほどまでに、頭上を取れるというアドバンテージは大きい。
一度竜騎士の如く上空へ跳ばれてしまえば、都市城塞サ□ニアに生息する怪鳥のように、ただ呆然と攻撃を一方的に喰らう羽目に陥ってしまうだろう。
それだけを避けるべく、必死に突撃を敢行した俺だったが……
「やっぱり、そう来るよねっ!」
亜由美のヤツは伊達に奈美ちゃんに師事していた訳じゃなかったらしい。
俺の特攻を予期していたらしく、真下から棍が跳ね上がってくる。
地面に棍を押し付けることで「デコピン」の理論を応用した、亜由美の細腕から繰り出されたとは思えないほどの凄まじい一撃が、直下から急所である顎へと跳ね上がってきたのだからたまらない。
「……くっ?」
彼女の棍のしなりを「中空へ跳ぶ動作」だと予想していたが故に、完全に不意を突かれた俺は……顎先を狙うその一撃を躱すために身体を転がすしかなかった。
ダメージはないし、転がったことでの疲労もない。
……だけど。
俺が起き上がるその間に、既に亜由美は俺の身長と同じくらいのところまで飛び上がっていたのだ。
「ちく、しょうっ!」
「へへっ。
さっきのは、危なかったよっ!」
どうやら亜由美が真剣になっていたのは、さっきのカウンターのタイミングを狙い澄ますため、気合を入れていた所為らしい。
中空に浮かんだ亜由美はいつものような明るい笑みを浮かべると……
「じゃ、行くねっ!」
そのまま上空から棍を突き出してくる。
「ぐっ!」
俺は、その遠距離からの連続打突をただただ避けるしかない。
──やりにくいっ!
『上から攻撃される』という異常事態に、俺は必死に逃げ回ることしか出来なかった。
反撃しようにも亜由美は棍の端を持っている所為で拳が届く訳もなく、だからと言って飛び上がってカウンターを狙おうにも……相手の武器は攻防共に優れた武器である棍である。
……効果は望めそうにない。
それに、下手に跳び上がってしまえば……『空中歩行』の超能力を持たない俺は、自由落下の最中は隙だらけになってしまうのが明白だった。
だから、俺は次々とリーチ外から繰り出される棍を、ただサイドステップで大きく躱すだけで精一杯だったのだ。
「何故師匠はああして逃げ回るだけ、なんでしょう?」
「……そんなに早くもないのに」
ただ一方的に受け身に回っている俺を見て、雫とレキがそうぼやく。
──そりゃお前たちはなっ!
俺はお気楽に呟く超能力者二人を横目に見ながら、内心で叫びを上げていた。
手足の届く範囲でしか攻撃でない俺にとって、亜由美のヤツは洒落にならないほど恐ろしい使い手なのだ。
……こうして一方的に攻撃されていると、頭上を取られた芦屋颯や羽杷先輩があっさりと亜由美に負けた理由がよく分かる。
事実、さっきから俺は反撃できない上空を占有され、慣れない角度からの攻撃に戸惑うばかりで、なす術なくただ逃げ回ることしか出来なかった。
──だけど、そろそろ……
こう何度も何度も同じ攻撃をばかりを、しかも同じ角度ばかりから放たれたのだ。
いい加減、目も慣れてくる。
次の瞬間、俺は亜由美の突きに合わせてその棍へと手を伸ばす。
──掴んで、しまえばっ!
それが俺なりの亜由美攻略法だった。
考えてみれば、御守風香先輩の『超荷重』によって亜由美は空から引きずり落とされていた。
先輩の超能力で重くできるのは子供二人分……凡そ四〇kgが限度だったのを考えると……棍を掴んで引きずり落とせば、俺の力でも十分に亜由美を地に墜とせる可能性はある。
……そう考えての作戦だったが。
「それも、甘いっ!」
俺の指が棍に触れたその瞬間、亜由美は手を捻る動作で棍を上手くしならせていた。
掴めると思った棍は……俺の指からあっさりと棍が逃げていく。
「ちぃっ」
その技法に俺が舌を巻いた、その瞬間だった。
亜由美が大きく跳ねたかと思うと、俺の眼前へと飛び降りて来たのだ。
「なぁっ?」
突如、攻撃射程範囲に亜由美の姿が見えたことに、俺は慌てて拳を振るう。
だけど、当然の如く……それは囮だったらしい。
そして慌てて振るったような腑抜けた拳なんて、その攻撃を予期していた彼女に通じる筈もない。
亜由美はこちらを向いたまま、時計の針のように突然『真横に』傾いでその拳を避けると、そのまま棍を俺の腹へと振るってきた。
俺は必死に腹筋を締めて、その一撃を受け止める。
「つぅっ」
亜由美の一撃は非力で、そう大きなダメージはないが……
「何なんだよ、今のはっ!」
完全に虚を突かれた亜由美の動きに俺は戸惑いの叫びを上げていた。
格闘家としては、通常考えないだろう。
……対戦相手が、何もない虚空に『横に立っている』なんて異常事態は。
「何やアレ、どうなってんや」
「普段は『踏んでいる』足場に、頭と足を載せただけですよ?」
「……だけって言われてもなぁ」
奈美ちゃんが解説しているものの……さっぱり理解していないだろう、羽子のそんな戸惑う声に、俺は思わず同意の声を漏らしそうになる。
事実……人体が宙に浮かび『横に立っている』なんて事態……想像もしていなかった俺は、彼女にどう攻撃をしかけて良いかすら分からなかったのだ。
「へへっ。
どんどん行くよっ!」
そんな俺の反応に気を良くしたのだろう。
亜由美は笑うと、そのまま真横に跳ねた。
かと思うと、棍を大きく横に振るう。
──いや、違う!
亜由美の身体そのものが横を向いている以上、彼女の横振りの一撃は、俺にとってはアッパーと同じ軌道になるっ!
その事実に慌てた俺は、必死に両腕で棍の軌道を塞ぐ。
腕に激痛が走りはしたが、それでも顎の急所に直撃を喰らうことだけは避けられた。
「ぐっ!」
ガードに成功して気が緩んだ、その瞬間だった。
棍を防ぐことに両腕を使っていた俺の、がら空きの側頭部目がけて、亜由美が前蹴りを『横から』放って来たのだ。
──っっっ!
またしても完全に虚を突かれた俺は、その蹴りをモロに喰らっていた。
ダメージは軽かったものの……側頭部を強打された所為か、俺の視界は揺れ、平衡感覚は完全にいかれてしまっている。
「ちぃっ!」
俺は頭を振って感覚を取り戻す。
そうしてコンマ一秒ほどで感覚を取り戻し、顔を上げた俺の前に……
次は『空中にぶら下がった』体勢の亜由美が俺の前に浮いていた。
「……何だ、そりゃ」
俺は亜由美の射程内に入っているというのに、ただそう呟くことしか出来なかった。
「嘘、やろ?」
「もう何が何だか……無茶苦茶ですわ」
「……妖怪、天井下がり」
羽子・雫・レキの三人も俺と同じような感想を抱いたらしく、そんな呟きが外野から聞こえてきた。
彼女たちもこの……逆さまになった亜由美には驚きを隠せないらしい。
事実、俺も混乱する頭を整理するだけで精一杯で、今まで戦い抜いてきた筈の古武術というモノすら頭から抜け落ちてしまっていた。
そんな俺を亜由美が放っておく訳もなく。
彼女はそのまま俺との距離を詰めると、今までリーチを確保するために端を持っていた棍の、中心部を掴み……
「乱打、行くよっ!」
そのまま棍を無茶苦茶に振るい、上下左右と殴りかかってくる。
「ち、く、しょう」
その四方八方からの攻撃を必死にガードする俺だったが……
──こんなの、どうしろってんだっ!
反撃できる射程に亜由美がいると言うのに、防戦一方を強いられてしまう。
それも当然で……上下反転した状態で敵と相対しているのだ。
亜由美の腕の動きから次の攻撃を予測しようにも、上下反転している亜由美の攻撃を読むのには、コンマ一秒ほどのラグが必要となってくる。
そしてそれは……近接戦においては絶望的な隙でしかない。
防ぎながらカウンターをと色気を出していた俺だったが……
「くそぉっ!」
結局、亜由美の乱打を捌き切れなくなった俺は、バックステップして距離を取る。
打たれたのは右頬と左側頭部。
亜由美が棍を短く持っていたお蔭で、ダメージは小さいものの……
──このままじゃ……ジリ貧、だな。
幸いにして、亜由美の攻撃は軽い。
一撃喰らう覚悟を決めて、渾身のカウンターを叩きつければ……
そう俺が覚悟を決めた、それを待っていたのだろうか?
いつの間にか左の虚空を足場にしたらしき亜由美が、その棍を虚空でしならせている?
──えっ?
それが何を意味するのか、俺は一瞬理解出来なかった。
何しろ、彼女の能力は空中を歩くというもので……
──つまり、それは空中に力場を『置く』性質の能力ってことかぁっ!
早い話が、だ。
亜由美のヤツは今、棍を溜めているのだ。
……試合開始と同じく、デコピンの要領で。
そう俺が理解して身体を沈めるのと。
亜由美の棍が凄まじい勢いで放たれるのはほぼ同じだった。
「くぁっっ?」
回避は……辛うじて間に合った。
髪の毛が何本か持って行かれた感触があるから……まさに紙一重だったのだろう。
だが……さっきの耳元を唸りながら通り過ぎて行ったあの音を聞く限り……
──喰らえば、終わり、だな。
ガードしても骨を持って行かれるかもしれない。
……アレは、そういう一撃だった。
もし直撃していたかと思うと……俺は背筋に冷たいものが走るのを止められない。
そして同時にそれは、俺が亜由美を攻略する手立てがなくなったことを意味していた。
──くそ、迂闊に近けやしない。
空に浮かんだままゆっくりと近づいてくる亜由美に、さっきから延々と思い知らされ続けているその超能力と戦闘力の凄まじさに……
……俺は知らず知らずの内に後ずさっていたのだった。