第十二章 第三話
「超能力」という存在のあまりの理不尽さに、俺は確かに試合を諦めていた。
何もかもを捨てて……身体中の力を抜いていた。
……確かに力を抜いて横たわっていた、筈なのに。
「まだ元気ってことかよ。
そうこなくっちゃ、な」
そんな俺を見て羽杷先輩は楽しそうに笑う。
……そう。
内心で「やってられない」と叫んでいた筈なのに、何もかも諦めて放り出した筈なのに……
俺の身体は何故か、まるで一度放棄した筈の戦いを続けたがっているかのように、立ち上がっていたのだ。
しかも……あれだけの一撃を喰らったのに、身体の痛みは全くない。
……いや。
衝撃で痛みすら全く分からなくなっているのだろう。
その証拠に、未だに視界は歪み羽杷先輩のCサイズのおっぱいが大きいのか小さいのかすら分からない。
──ぐにゃぐにゃ、だな。
分析を終えた現状を理解し、俺は笑う。
……笑うしかない。
視界は歪む、身体に力は入らない、戦略を立てる頭すら回らない。
──こんな状態で、立ったところで……一体何が出来るってんだ?
俺は内心でそう呟くと、自嘲の笑みを浮かべる。
ここまであからさまに勝ち目が欠片もない事実が並ぶと……もう笑うしかないだろう。
……いや。
──何も出来ない訳じゃない。
ここまで無敵に思える羽杷先輩だろうと……実のところ俺がその気になれば、『簡単に勝てる』。
目に指を突っ込む。
鼻に指を突っ込む。
耳を引き千切る。
乳房を狙う。
尻の穴に指を突っ込む。
指をへし折る。
この身体の状態でも彼女に通じそうな、所謂『禁じ手』と呼ばれるそれらを脳裏に浮かべたものの……俺は首を振ってそれらを振り払う。
ここまで追い詰められていても……俺は『ソレら』を生きた人間に敢行する気にはなれなかった。
……と言うか。
──もし、もう一度あのタックルが来たら……
今の俺に、アレを避ける術はない。
受け流すことも、ガードすることも出来ない。
である以上、幾ら立ち上がろうが、幾らこの状態で彼女に通じる技があろうが……あのタックルが来たら自動的に俺の負けが決まってしまう。
……だけど。
「さぁ、これで、終わりだっ!」
羽杷先輩は拳での決着に拘っているのか、右拳を固く握りしめ、大きく振りかぶってきやがった。
──馬鹿、かよっ!
絶対の勝ちが約束されているにも関わらず、自分のこだわりを優先する羽杷先輩に、俺は思わず内心で叫ぶ。
……だけど、俺はそんな『馬鹿』は嫌いじゃなかった。
だからこそ……その馬鹿なこだわりに俺も最後まで付き合う覚悟を決める。
──拳同士の、勝負っ!
俺は息を軽く吐くと、軽く腰を落とし、拳を構える。
……そうして覚悟が決まった所為だろうか。
何故か、視界が一気に広がり、世界が急にスローモーションのようにしっかりと『見え』始めた。
「うらぁっ!」
「遅いっ!」
ゆっくりとこちらへ向かってくる、羽杷先輩の右拳を紙一重で避けつつ、左フックを彼女のこめかみへと振り抜く。
──クロスカウンター。
だが、所詮は鍛え上げた訳でもない、そして握力もまだ回復していない俺の拳である。
彼女の強靭な首に衝撃が吸収され、ダメージはそう大きくない。
「ってぇっ!」
「くっ?」
だからこそ、カウンターをモロに喰らったにも関わらず、羽杷先輩は俺を振り払うように左のフックを放ってくる。
その一撃を『起こり』から見切っていた俺は、スウェーで左フックを躱すと同時に、カウンターとしてボディブローを水月に叩き込む。
「がぁっ!」
「まだ、まだっ!」
次に放たれたアッパーを、スウェーで躱しざまにカウンターとしてアッパーを返す。
右拳をサイドステップで躱しつつ、ボディブローのカウンター。
迫ってくる左正拳を、上体を傾ぐことで躱しながら、右フックのカウンター。
ボディフックをバックステップで避けつつ、そのがら空きの顔面にカウンターのストレートを叩き込む。
──見える。
──見えるぞ。
──私にも乳が見えるっ!
……そう。
冷静さを取り戻し、相手がCという素晴らしいサイズを持つ女性が相手ならば。
俺は『乳語翻訳』……もとい『乳剄』が使えるのだ。
乳房の揺れ弾み撓みから、女性の次の攻撃を予測する俺の洞察力は、彼女が繰り出してくる全ての攻撃に対してカウンターを簡単に取れるほど研ぎ澄まされていた。
「……く、くそ。
いきなり、何だ、そりゃ」
突如として、攻撃を完全に迎撃され始めた羽杷先輩は、少し怯みを見せつつも、それでも右正拳を放ってくる。
……だけど。
そんな迷いの乗った攻撃、俺に通じる筈もない。
上体を捻るだけでその拳を躱し、それと同時に放った俺のカウンターは、彼女の顎先を完全に捉えていた。
タックルを喰らったダメージも徐々に抜けてきたお蔭で、俺も少しは体重を込めたパンチが放てるようになっている。
そのタイミングとハートと体重まで込められた、まさに完璧なカウンターを喰らった羽杷先輩は、流石に平然としていられなかったらしい。
……その身体が僅かに、傾ぐ。
──効いている、のか?
ダメージの所為か、迷いの所為か、それとも疲れの所為か……間違いなく羽杷先輩の攻撃にもキレが無くなっている。
……そうなれば、後はもう一方的だった。
左フックにアッパー、右ボディに顔面ストレート、左ストレートに右フック、右アッパーに左フック、右打ち下ろしに左スマッシュ。
先輩が放ってくる全ての攻撃に対し、俺は渾身のカウンターを決め続ける。
俺と彼女とでは、完璧に時間軸が異なっているのが明らかに分かる。
「ぐ、がっ?」
……それはもはや殴り合いではなく、一方的な『蹂躙』だった。
凄まじい筋力を誇ろうとも、所詮は格闘技を知らない素人の少女と。
ブランクがあるとは言え、曾祖父に古武術をみっちりと叩き込まれた俺との、技量の差は絶対だったのだ。
「勝負、ありましたね」
「……こんなにも差がある、なんて」
カウンターを放っている間にも、そんな悟ったような奈美ちゃんの声に、亜由美が呆然と呟くのが俺の耳に入る。
「恐らくは、彼女の能力が佐藤さんの実力を引き出すことになったのでしょう。
本来の彼は、アレが出来るほど鍛え抜かれていたのです」
「つまり……アレが、本当の和人って訳、か」
そんな二人の声は耳には入っているものの、だからと言ってそちらに意識を回せる訳もない。
「どうしますか?
今の佐藤さんと正面から戦って勝つのは……至難の業ですよ?」
「でも……次はアタシなんだから。
今までの鍛練の成果を見せるんだから……」
そうして二人の会話を聞き流している間にも、俺による一方的な殴打が延々と続き……ついには俺が放った三十七回目のカウンターが羽杷先輩の顎先を捉えたのが決定打になる。
「……く、くそっ!
足が、動かねぇっ!」
俺のカウンターの連打によって、彼女の脚は脳の命令を受け付けず、ストライキを始めたらしい。
……当たり前だ。
どんな首が太くても、どんなに筋肉が頑丈でも、そして彼女が幾ら脳筋だと言っても……彼女の頭脳は筋肉で出来ている訳ではなく、ただの人間の頭脳でしかない。
である以上……顎への打撃は三半規管へと着実にダメージを蓄積させ、いずれはこうして破綻することになるのは至極当然の結果だった。
「何故だっ!
素手喧嘩でオレが負けるなんてっ?」
「まだ分からないのか?
その慢心こそが……お前の敗因だ」
身体を動かせないまま、悔しさに吼える羽杷先輩に、俺は静かにそう告げていた。
「筋肉に頼り、能力に甘え、防御の術を磨かなかったお前の負けだ」
その俺の言葉がトドメになったらしい。
「畜生がぁあああああっ!」
羽杷先輩は悔し紛れに床板をその右拳で殴り割ると……そのままがっくりとうなだれて動かなくなる。
ようやく負けを認めたのだろう。
「では、序列七位決定戦は佐藤和人さんの勝利、ということで。」
……そうして。
マネキン教師の声によって、突然の乱入者から始まった序列八位戦、そして序列七位戦は俺の勝利で終わりを告げる。
「ふぅううううううっ」
その事実に安堵した俺は、ようやく大きなため息を吐き出す。
……その時だった。
「下手な超能力はものともしない。
脚力でも腕力でも、和人には勝てない、か」
俺の勝利に静まり返っていたギャラリーの中で、次に対戦するだろう相手……中空亜由美のその呟きは妙に大きく響き渡ったのだった。