第十章 第三話
「……まだ、いてぇな、畜生」
雫との試合から二日が経過したというのに、俺の身体からは未だに試合のダメージが抜け切っていなかった。
……いや、正直なところ、試合よりもその後のリンチのダメージが大きかったんだが。
──何か最近、こんなのばっかりのような……
とは言え、雫戦でのダメージが皆無だった訳ではない。
氷の剣を弾き飛ばした俺の左手にはまだ包帯が巻かれていて……縫うほどの怪我ではなかったが、傷跡は残るかもしれない、とのことである。
──まぁ、名誉の勲章ってところだな。
別にお肌の綺麗さを保つのに必死になっているお嬢様じゃあるまいし、傷跡くらいは別に大したことでもない。
流石に胸に七つの大穴を開けられたりすると、ちょっと大衆浴場に入るのを躊躇ったりはするだろうけれど……。
俺はそんなアホなことを考えつつも、足を床に軽く叩きつける。
左腕を軽く振り回し、左手を開閉してみる。
身体のあちこちに痛みは残っているものの、運足に影響はない。
左手の怪我はまだ癒えてはいないものの、腕を動かしても痛みはない。
……つまり、戦闘への支障はない、ということだ。
「さて、と」
俺は目の前にある体育館の扉を見据えながら、首を軽く回すと共に、一つ息を大きく吸い込み、吐き出す。
そうして身体が戦闘モードへと切り替わったところで、ふと俺の脳裏に突如、教室で羽子のヤツに言われた言葉が浮かんできた。
「……待ってるで。
あまり待たせんといてな」
そう告げた羽子のヤツは、芦屋颯戦で喰らったダメージもようやく癒えて……だからこそ、敗戦の屈辱を持っていく場所に困っているのだろう。
事実、羽子は芦屋颯の前に、何一つ出来ずに負けてしまっていた。
──磨き上げた技術も、考えた策も、何もかもがたったの一撃で水泡に帰したのだ。
悔しいとか情けないとか腹が立つとか、色々な感情が渦巻いてどうしようもないのだろう。
だからこそ……俺との戦いを望んでいる、らしい。
……俺と戦うために磨いた技術を、俺との戦いで出し尽くすために。
勝つにしろ、負けるにしろ……全力を出し切るために。
そして俺と羽子の間にはA組が二人、立ちはだかっている。
──あまり、待たせる訳にはいかないからな。
一応、羽子のヤツは俺の弟子を自称している義理もある。
……放っておくわけにもいかないだろう。
俺はそう考えて……全快を待たないまま、こうして体育館へと足を運んでいるのだった。
「よし、行くか」
俺はそう呟くと……体育館の扉を大きく開く。
そこにはいい加減見慣れてきた、AAからBまで十六の乳房と舞斗のヤツ、そしてゴリラが一匹と……
「佐藤さんも序列戦ですか?
……奇遇ですね」
A組の連中よりも遥かに見慣れたAA、もとい奈美ちゃんが杖を手に立っていたのだった。
「つまり、奈美ちゃんも序列戦を勝ち上がっている、と?」
「……ええ。
意外と面白いものですね」
そういう奈美ちゃんの手には相変わらずの杖がある。
見えないというのが信じられないほど、彼女の動きは堂に入ったものだった。
「ってことは、B組の面々相手に勝ち進んできた訳か」
「はい。
由布さん、吉良さん、稲本さんと一度に勝負させて頂きました。
麻雀、というのを初めてやりましたが、なかなか面白かったです」
……麻雀て。
奈美ちゃんの雰囲気からは縁遠いと思われる遊戯の名前に、俺は驚きを隠せない。
と言うか。
──見えないのに世界を把握する奈美ちゃんにとってすれば、盲牌どころか相手の配牌まで見通せるんじゃないだろうか?
「一枚ずつ、脱いだりとか?」
「……はい?」
思わず俺が呟いた一言に、奈美ちゃんが首を傾げたところを見ると、脱衣ルールではなかったらしい。
かくいう俺も、麻雀ならルールくらいは知っている。
ゲーセンに置いてあった脱衣麻雀に嵌った記憶があるからだ。
──百円入れた途端に天和とか、な。
見えるかもという期待を抱き、そして儚く砕かれた思い出が浮かんで来た俺は、首を振ることでその雑念を追い払う。
「あと、委員長さんはインクとトーンの買い出しを対価に勝ち進みました」
「……俺の時より楽じゃねぇか、畜生」
笑顔を浮かべながらの奈美ちゃんの言葉に、つい俺は毒づいてしまう。
まぁ、実際……目の見えない奈美ちゃんに原稿を手伝ってもらうというのは不可能に近いのだろうけれど。
……ただ、この奈美ちゃんのことだから、目が見えなくても原稿を塗る手伝いくらい出来そうな気がするのは何故だろう?
「……で、いつまで待たせるつもり?」
俺たちが話し続けているのに焦れたのだろう。
内緒話の途中だった俺たちに向かってそう尋ねたのは間宮法理だった。
手にソフトボールを持っているのを見ると、どうやら流星鎚やら手裏剣やらの凶器を使うのは辞めたらしい。
──なら、安心して観戦できるな。
そんな凶器を使おうとするなら……奈美ちゃんは確実に『あの杖を抜く』だろうから。
流石の俺も、一度は拳を交えた相手が、そして野球をして遊んだ相手が血だまりに沈む姿なんて見たくない。
何と言うか、立ち位置的に……一度戦った相手は噛ませ犬的にやられるシーンだと思うんだ、コレ。
「済みません。
では、始めさせて下さい」
そんな俺の葛藤なんて意に介した様子もなく、奈美ちゃんはまっすぐに進み出る。
「はっ。
悪いが、手加減なんてしないぞ?」
法理はそう毒づきつつも……やはり少しやり辛そうな雰囲気を隠せない。
──まぁ、当然か。
目の見えない相手に向けて、欠片の躊躇もなく渾身の一撃を叩き込めるような精神力を持った相手なんて……恐らくはこの『夢の島高等学校』の中では当の奈美ちゃんただ一人だろう。
俺がそう自問自答している間に、二人は既に戦闘の準備を整えた、らしい。
「では、序列戦開始!」
ゴリラ教師が酷く手抜きの開始合図を叫ぶ。
「これで、終わりだっ!」
その合図と間宮法理が動いたのはほぼ同時だった。
そして……彼女の放ったソフトボールが俺と対峙した時を超える凄まじい勢いで、螺旋を描きつつ右へ大きく捻じ曲がった後で90度の急カーブの後に奈美ちゃんの側頭部を狙うという、相変わらずの物理法則を無視した軌道を描く。
──無茶苦茶だ。
そのあり得ない軌道で放たれた、凄まじい速度のソフトボールに俺は感心していた。
……そう。
俺との対戦時……俺が触れることさえ叶わなかったあの時の投球よりも更に磨き抜かれただろう、常人には触れることも叶わない桁違いの能力だったのだ。
それを、奈美ちゃんは……
「っと。
凄い能力ですね」
その凄まじい速度のボールを、杖で軽々と『受け止めた』のだ。
横合いから見ていた俺でさえ「どうやってあの無茶苦茶な軌道を見切った」とか、「どうやってタイミングを合わせた」とか、色々な疑問が渦巻いて離れない。
──いや、それ以上に……
百キロ近くは出ているだろう、間宮法理の放ったソフトボールを『打ち返さず』『叩き落さず』、ただ『杖で静かに受け止めた』……その事実が恐ろしくて仕方ない。
つまり……奈美ちゃんは、あの乱軌道を描くボールを、しかもプロ寸前の速度で飛んで来るソフトボールを、完璧なタイミングと技量を持って、その速度と衝撃を全て受け流したのだ。
……目が見えないままで。
相変わらずの常人離れしたその技量に俺は息を呑むしか出来なかった。
そしてそれは対峙している間宮法理にとっても同じだろう。
いや、俺以上に衝撃が大きかったに違いない。
……自分自身の渾身の一撃が何一つ意味をなさなかったのだから。
「ま、参り、ました」
だからこそ、間宮法理はただそう告げるしか出来なかったのだ。
「……はい、ありがとうございます」
そうして……俺があれだけ苦労して勝った間宮法理という少女相手を、奈美ちゃんは『ただ杖でボールに触れるだけ』で下したのだった。
……正直、やってられない。