第九章 第四話
「馬鹿野郎っ!」
羽子の叫びを聞いて、一番大きな反応を見せたのは……
……他でもない、この俺自身だった。
挑戦を受けた次の相手……当の芦屋颯自身は特に気負うこともなく、肩を竦めて見せただけだったのだが。
「な、何や、師匠。
いきなりそないな大声出して……」
怒鳴られることに慣れていないのか、羽子は少しだけ気圧された表情で俺へと振り返る。
その事実に、俺は軽く安堵の息を漏らしていた。
──コイツは、調子に乗りやすいけど……言葉が通じない訳じゃないんだよな。
言葉が通じるなら……何とかなる、だろう。
この『跳躍強化』という能力を持つ芦屋颯……恐らくはこの『夢の島高等学校』でもトップクラスの戦闘能力を持つ『化け物』と、俺の弟子を自称する羽子とを戦わせる訳にはいかないのだから。
……だけど。
「良いから、下がれ。
その芦屋颯の相手は……お前じゃ、無理だ」
そこで俺の『悪癖』が出た。
──常に正直であれ。
曾祖父の教え通りの言葉は、生憎と負けん気の強い扇羽子という少女の前では、あまり推奨されない代物だったらしい。
羽子は眉を跳ね上げると……
「へっ。
幾ら師匠の言葉でもな……
んなの……やってみなきゃ分かるかいっ!」
羽子はそう吠えると……まっすぐに対戦相手であるAA、もとい芦屋颯の方を睨み付ける。
その眼には決意が込められていて……もう言葉なんかでは動きそうにはない。
ならばと俺は拳を握りしめ、前に一歩踏み出し……
「……ちっ」
舌を鳴らすと同時にその拳から力を抜いた。
衝動のままに腕力づくで試合をうやむやにしようと思ったのだが……流石にそんなやり方、無粋が過ぎる。
それに……
「大丈夫大丈夫。
大怪我はさせないようにするから」
俺に向けてそう手を振るあの芦屋颯の様子だと……恐らくはそこまで凄惨な戦いにはならないだろうと思えたのも大きい。
命を落とさず、後遺症を負わない範囲に限り……敗北によって得られるモノもあるだろうから。
……尤も。
「あたしの前で、余裕ぶっこきやがって……」
それは羽子にとってはただの挑発に過ぎなかったが。
羽子はその拳を握ったまま、芦屋颯を睨み付け……合図を促すかのようにゴリラ教師を睨み付けている。
対する芦屋颯は……そんな羽子の殺気などどこ吹く風とばかりに、軽くステップを踏み続けているだけだったが。
「では、序列十位戦。
はじめっ!」
そして、その殺意に気圧されたように、ゴリラ教師がそう声を上げ……
「先手必勝やっ!」
次の瞬間、弾かれたように扇羽子が前へと飛び出す。
恐らく……芦屋颯が何かをする前に、瞬間で勝負を決めてやろうと思っていたのだろう。
……だけど。
「あ?」
芦屋颯は……もっと速かった。
外野に立っている、しかも古武術を学んだことのある俺の目でも、やっと見えるほどの速度で、身体ごと羽子の脇を取ったのだ。
あの小刻みなステップの連打での高速移動は、恐らくは人類には不可能だろう。
……まさに、超能力者ならではの運足である。
「避───っ!」
その事実に気付いた俺の「避けろ」という叫びが意味をなすよりも早く。
「しっ!」
芦屋颯の右足が弧を描いて跳ね上がり、羽子の後頭部を刈り取る。
その蹴りは……ただのハイキックだった。
サイドステップと同時に放たれる、ただのハイキック。
……だが、その『ただの蹴り』を『跳躍強化』という超能力者が放つとどうなるか?
──これほどのものか、芦屋颯ェッ。
俺はその『結果』を見て、内心で叫びを上げていた。
何しろ……芦屋颯が放ったたった一撃の蹴りで、羽子は見事に吹っ飛んでいたのだから。
……そう。
本当にたったの蹴り一撃で、幾ら軽いとは言え羽子は身体ごと吹っ飛ばされたのだ。
打撃を緩和する『エア・ジャケット』も糞もない。
体重ごと体育館脇まで……数メートル吹っ飛んだところを見ると、恐らくはかなりの時速を出していたダンプにモロに跳ねられたくらいの衝撃が加わったことだろう。
……漫画の中で、某派出所勤務の警察官が跳ねられるところを何度か見た記憶があるから間違いない。
──無茶苦茶、だ。
その威力に、俺はただ息を呑むことしか出来ない。
──あのスピードで身体ごと移動する相手を、どうやって捉える?
──あの威力の一撃を放つ相手と、どうやって戦えば良い?
頭の中で繰り返されるそんな自問自答は、どれも答えを導き出してはくれなかった。
それほどまでに、芦屋颯という少女は……そのAAの貧相なバストとは裏腹に、凄まじい戦闘能力を秘めていたのだ。
俺は数日後には訪れるだろうその最悪の相手との戦いを予期し、知らず知らずの内に拳を強く握り絞め……
そんな時、だった。
「……まだ、や」
吹っ飛んだはずの羽子が立ち上がってきたのは。
あのどう見ても致命傷だろう一撃を喰らっても立ち上がれたのは、羽子が『エア・ジャケット』で衝撃を緩和したお蔭だろう。
……だけど。
──無理だ。
俺は首を横に振る。
羽子の膝は笑い、腕は震え、まっすぐに歩くことすら出来やしない。
あの様子では……もう超能力を維持することも儘ならないだろう。
つまり……
──エア・ジャケットも使えない。
──必殺技も、もう使えない。
しかも、羽子は格闘技能を持ってない。
……もう、勝ち目なんてある訳もない。
それでもああやって立ち上がってきたのは……負けを認めたくないという一心か。
その根性は、凄まじいの一言に尽きる。
「悪い、な」
……だけど。
根性で勝てるほど、この芦屋颯という化け物は甘くない。
ふと力を抜いた彼女は、軽く右足を外回しに振るい……
羽子の顎先をその踵が通り過ぎる。
「~~~ぁ」
効果は絶大だった。
凄まじい速度で顎先だけを上手く揺らされた羽子は、今まで彼女が倒してきた対戦相手のように、力なく前へと倒れ込む。
──脳震盪。
羽子は前のめりに倒れたまま、ピクリとも動かない。
完全に意識を『持って行かれた』のだろう。
羽子の身体を必要以上に傷つけることなく戦いを終わらせたその一撃は、芦屋颯の戦闘力が如何に羽子を上回っていたかを表していた。
「序列十位決定戦、勝者、芦屋颯!」
ゴリラ教師の叫びを遠くに聞きながら……俺は戦慄を隠せなかった。
──そんなことも、出来るのか。
俺は羽子の敗北よりも、序列戦が終わったことよりも……
ただ、芦屋颯の放った蹴りの『精度』に気を取られていた。
──脚が早いだけなら幾らでも対抗策は思いつく。
──威力があるだけなら、技術で抑え込むことは可能である。
もしその二つを兼ね備えた相手でも……蹴りの精度が雑ならば、やりようによっては勝つ術は見い出せただろう。
……だけど。
──早くて、威力があって、あの精度の蹴りを放つ相手なんて……
その事実に俺は震えを隠せない。
──こんな化け物相手に……どうやって、勝てってんだ?
そうして。
俺はただ、未だに倒れたままのクラスメイトを介抱することも忘れ、ただいずれ対戦するだろう芦屋颯との戦いに思いを馳せたまま、ただ立ち尽くすことしか出来なかったのである。