第六章 第一話
目覚めは快適だった。
何しろ、目の前に桃源郷が広がっていたのだ。
「……思ったより、元気みたいね」
こんな至近距離で下から見上げるのは初めてだが、凄まじいものだ。
これほどの大容量を支える辺り、ブラジャーというものは人類が服飾を作り始めて以来、最高の発明品と言えるのではないだろうか?
……何しろ重力に逆らっている。
それは、人類が歩んできた歴史数百万年の末、ほんの百年位前にライト兄弟がとんでもない苦労を重ねてようやく出来たことなのだから。
「……本当に元気そうね」
なんてことを考えていたら、その崇高なる神器の向こう側から呆れたような声が聞こえてきた。
その声に俺は頷きつつも、意思を総動員してようやく神話の如き芸術から目を離し、周囲を眺める。
これは……保健室か。
「……左手の怪我は、縫うほどじゃなかったそうよ」
おっぱい様にそう言われ、俺は怪我をしていたことを今頃になって思い出す。
左手を見ると、包帯が巻かれていた。
手を眺めながら俺は、左手を開閉することで感覚を確かめてみる。
──違和感はあっても、痛みはないな。
実際、日本刀を持った曾祖父に追いかけられた修業の日々では、この程度の怪我なんて日常茶飯事だったので、それほど気にもならない。
左手の包帯から目を離した俺は、身体を起こす。
──見上げるのも圧巻という感じで好きだったが、それよりも正面から見る方が好きだな、やっぱし。
……っと。
──レポートを仕上げなければならない。
不意に使命を思い出した俺は、ベッドから出ようと身体を動かす。
「っと。こうしてはいられない。
その、悪いが……」
「……繪菜先輩は、吃驚していたわ」
立ち上がろうとした俺を制するように、おっぱい様の声が響き渡る。
相変わらず必要以上に気が利くおっぱい様である。
──しかし、檜菜先輩はやっぱり驚いていたか。
ま、幼馴染だか使用人だか付き人だか、そういう仲の良かった同級生が俺と戦っていたんだから、吃驚するわな。
実際、刺客が校内に存在している上に、超能力者の利用価値に疑問が持たれている今の状況で、俺と舞奈さんが戦う理由なんて欠片も見い出せないのだ。
……彼女が内心で抱いていた屈折した感情以外には。
とは言え、決闘に勝つためだけに彼女たちの関係を利用した俺が、今さら二人を気にしたところで意味はないだろう。
それよりも……
「……レポートは送っておいたわ。
そもそも「彼女が驚いていた」というのは、そっちのことだったんだけど」
またしても立ち上がろうとした俺に向けられた、そのおっぱい様の声に……俺は一瞬で自分の置かれている状況を思い出していた。
──生乳がかかっているんだった!
その衝動に突き動かされるがままに俺は飛び起き、おっぱい様の周囲にある肩を掴む。
目の前のコレも魅力的だが、やはり触ってみたいのも事実。
……それも生で、だ。
「れ、れっ、れれれっ!」
俺自身、凄まじい形相をしている自覚はあった。
──レポートはどうなったっ?
と叫びたいのに声が出ない。
どっかの掃除しているおじさんみたいな言葉しか出ないほど、俺は興奮して我を忘れていた。
声も出せないほどの興奮で我を忘れた俺が、細い彼女の肩を揺する度、二つのおっぱい様がたわわに揺れる。
「──っ!」
その揺れ弾む至高の芸術が目に映ってようやく、俺は自分を取り戻していた。
そして揺れる二つの乳房の上で、その二つの膨らみと同じリズムで揺れいた奈々の顔は、俺の心の絶叫に少し五月蠅そうな表情をしたものの、すぐに俺の内心の絶叫につての返事を告げてくれた。
「……誤字脱字は酷かったらしい。
でも、内容は十分。
この学校のカリキュラムを変え得るほどに」
何しろ、効果を実証してみせた訳だし……と、おっぱい様の声が続く。
──言われてみれば確かに。
『超能力者による人命救助活動』
俺は図らずしも、自分で思い描いただけの机上の空論を、自分自身で実証してしまった形になったようだった。
某ノートを持つ新世界の神のように「計画通り」と邪悪な笑みを浮かべられるほどのIQを持たないこの身が悲しいが。
──そもそも、あの時点では他に方法がなかっただけなんだけど、ま、結果オーライってことで。
「その所為で、明日は緊急の職員会議を行うらしい。
おかげで明日は休みになったとさっき連絡が入った」
──っと。今何時なんだ?
おっぱい様の言葉でふと気になった俺は、渾身の気力を込めることで二つの至宝から視線を外すと、保健室の壁にかかってある時計に目を向ける。
時計の針は夜の七時を示していた。
時計を見た瞬間に、突如として刺すような腹の痛みを感じ、俺は蹲る。
「……っ。怪我っ?」
「いや、違う。これは……」
蹲った俺に向けて、慌てたようにかけられた奈々の声を、俺は片手で制していた。
事実、突然の痛みを感じたと言うのに、俺自身はあまり慌てていなかった。
何しろ……この腹の痛みは何度か経験したことがある。
確かこの痛みは、中学三年の頃、水橋蓮という新人巨乳系グラビアを買うために昼食を抜いた時の……。
──これは……空腹だ。
よくよく考えてみれば、丸一日また何も食べていない。
呆れたようなおっぱい様の顔から目を逸らし、俺は立ち上がっていた。
……取りあえず腹に何か入れなければ、力も出ない。
腹が減っては戦は出来ぬという諺、あれは本当だ。
昼食を抜いた後の午後の授業では何度も感じていたその諺を、この学校に入ってから、更に切実に感じるようになってしまった。
──しかし、三食しっかり出る筈なんだけどな、この学校。
俺の生活、一体どれほどに不規則になってることやら。
「……で、知りたいの?」
保健室から出る寸前、背後からの声。
それが、何を意味しているのか……一瞬戸惑ったものの、すぐに分かった。
──この学校に紛れ込んだ、刺客のことだ。
精神感応能力者であるならば、一瞬で分かる筈の相手。
だけど、彼女はソレを「教えられない」と言った。それは、即ち……
「一つだけ、聞かせてくれ」
俺は、振り返らずに尋ねる。
「先輩がレポートを提出することで黙らせた、反学校派の教師って誰だ?」
「……一年の学年主任。
貴方が心の中で『お局様』と呼んでいたあの教師よ」
俺の言葉に少しだけ躊躇したものの、背後の奈々はそう答える。
「そう、か。
……今まで気付けずに悪かった、な」
「……いえ」
それでようやく繋がった。
……刺客が誰かも、そして、刺客の意図も。
ここ数日、脳内で超能力者の傾向と、PSY指数、
そしてその活用法を考え続けたからこその、理解。
──けど……そんなことってあるだろうか?
俺は、目を閉じる。
そして、考える。
刺客の意図を……いや、刺客の後ろ側にいる人間の意図を。
……そして、この学校に居ながら、それを完璧に叩き潰すための策を。
どうやらまだ俺の脳みそは高速回転モードにあったらしく、その策は思ったよりも簡単に頭の中に舞い降りてきてくれた。
「よし、まずは飯、食いに行くか」
今後の方針も決まった俺は、そう背後の奈々に向けて声をかけて保健室から出ようとした。
……だけど。
「──っ!」
突然、背後から抱きしめられる感触に、足が止まる。
──と言うか、この背中が感じている二つの弾力に溢れる感覚は……もしかして、もしかすると、もしかしますか?
「……そんなの、実行する気?
冗談抜きで、命がけになるわよ?」
だけど、俺の感動はそんな……泣きそうな背後の声にかき消される。
俺は、背中を弾力的に押してくる二つの禁断の果実よりも、その更に向こう側にある鼓動を強く感じながら、呟く。
「……生乳がかかっているんだ」
……そして、この背中の二つの感触を失う訳にはいかない。
まさか、入学式当日から約一月弱、この国宝に匹敵する芸術が、ずっと失われる危険と隣り合わせにいたとは。
──知らなかったとは言え、許されることではない。
「……貴方は、最後までそれ?」
背後から聞こえてきたその声は、もう泣きそうな声ではなくなっていて、心底呆れたような声に変わっていた。
だけど、そっちの方が良い。
そっちの方が俺好みだ。
──湿っぽい雰囲気なんて嫌いだからな。
「……あの、私は、ずっと貴方をっ!」
背後から、絞り出すような声が聞こえてくる。
それが何を意味しているのかくらい、分からない俺じゃない。
俺は首を左右に振って気にしていないことを示す。
……考えてみれば告白っぽい言葉だけど、そうじゃないことくらいは心底鈍い俺でも分かっていた。
──命の危険が絡んでいたんだ。
……他人を犠牲にしてでも助かりたいと思うのは当然じゃないか。
古武術を学んでいて腕に覚えがあり、喧嘩慣れしている俺だって、おっぱいが二つ……いや、四つもかかっていなければ、命なんて張る気はない。
武術の心得もなく、人の心が読めるだけの数寄屋奈々という一人の少女が命を惜しんだところで、一体何の不思議があるのだろう?
「……飯、行こうぜ?」
湿っぽい空気を吹っ飛ばすように、俺は背後へと言葉を放つ。
……だけど、俺は振り向かない。
──今の顔を、彼女は見られたくないだろうから。
「……はい」
背後からの声は、思ったより弾んでいた。
その声を聞いた俺は、知らず知らずの内に拳を軽く握っていた。
──良かった。これで心置きなく戦える。
「……決着をつけたく、屋上で待つっと」
夕飯にA定食とB定食を平らげた俺は、自室に戻るや否や久々に筆を使って、和紙に文字を綴っていた。
和紙も筆も墨汁も売店で売っていた。
流石は名目上とは言え教育機関の売店である。
新設校の所為か色々と足りないものは多い癖に、こういう品揃えは良いらしい。
……硯がなかったことだけは残念だった。
アレは確かに面倒だが……その分、気合が入るから好きなのだが。
「差出人、佐藤、和人」
我ながら古風だとは思うが、これも曽祖父の教育の賜物だ。
尤も、こんなのを書くことなんて今までなかったので、曾祖父からこういう作法を習っている時間は、常に「無駄な時間を過ごしているな」と感じていたものだが。
兎に角、あまり綺麗ではないものの、様式は整った。
あとはこれを和紙で包めば……決闘状の完成だった。
いや、正直な話、これはあくまで雰囲気作りであって、自分でもあまり意味のある行為とは思ってないのだけど。
「さて、と」
箪笥を漁る。
……俺の記憶が正しければ、確か、持ってきていた筈。
「あった。あった」
着ることもないだろうと奥の端に仕舞いこんでいた服を引っ張り出す。
──真っ白な、和服。
『死合う』ための装束。
曾祖父が生前、大人になった俺のために仕立ててくれたという、曾孫思いなのか曾孫を決闘で殺したいのはいまいち分からない贈り物。
いや、決闘をすることになっても、死地から生還するようにという心づもりなのだろう。
裏地を見てみると、心臓のところにしっかりとお守りが縫いこまれているところに、曾祖父の思いやりが感じられる。
「……まさか、本当に着る羽目になるとはな」
白装束に縫いこまれたお守りを眺めながら、俺は知らず知らずの内に笑っていた。
そうやって軽く笑えるくらいほど、今の俺には緊張感なんての欠片もなかった。
……いや、ちょっと強がっているのが自分でも分かる。
──正直なところ、果し合いなんて怖くてたまらない。
しかも今回の相手は……これだけ長い間、同じ教室で学んでいたというのに、未だに力量すら読めない相手なのだから。
っと、窓が突然開かれ、亜由美が部屋に入ってきた。
手にはいつぞやに取り上げられた黒い日本刀を持ってきている。
「取ってきたけど、良いのかな?」
「責任は俺が取るって言ったろ?」
心配そうな亜由美の声を、俺は軽く笑い飛ばす。
この学校には武器なんてないから、これが一番手っ取り早かったのだ。
……最悪の場合、舞斗のヤツに頼むって手もあったが、あまり無関係な人間を巻き込みたくはない。
「けど、コレをどうするつもり?」
「言ったろ。最近、剣術の方を稽古してなかったからな。
……明日、休みらしいし」
これは、嘘だった。
──俺が嫌いな、嘘。
だけど、彼女をこんな……殺し合いに巻き込まないためには仕方ない。
「正直であれ」という曽祖父の遺言には外れるが……ま、人の命がかかっている戦いに、こんな超能力が使えるだけの女の子を巻き込む訳にはいかないだろう。
そして俺は思い知る。
……誰かを思いやっての嘘というのは、意外と抵抗なく口に出来るものなんだな、と。
「ふ〜〜ん」
亜由美の声は、明らかに納得していなかった。
俺という人間は嘘が嫌いなだけあって、嘘をつくのが下手なものだから……彼女が俺の言葉に納得してくれないのも仕方ないのだろう。
……でも、亜由美は俺の言葉を疑いつつも、それ以上追求をしてこなかった。
いつも通りのまま、テレビの前に座り込むと亜由美はコントローラーを握ってゲームを始める。
──悪い、亜由美。
心の中だけで頭を下げて、俺もテレビの前に座り込む。
画面の中では、二人の侍が真剣で立ち会っていたのだった。
朝食はA定食。和食を軽く済ませた。
便所よし。
死んだときには肛門の括約筋が緩んで中身が出るらしいから、決闘前に便所に行くのは礼儀らしい。
……腹を斬られた時も同様だろう。
──曾爺さんってホント、どういう人間だったんだか。
爪切り良し。
僅かな指の感覚差が命取りになる場合がある。
だから、少しだけしか切っていない。
邪魔にならない程度に、だけど、感覚誤差が生じない程度にヤスリで形を整えた。
服を着替える。
今日は下着から替えた。
褌を締めてかかる必要があるので、文字通り下着は褌である。
……この方が、トランクスよりも遥かに気が引き締まるのだ。
さらしを胸と腹に巻く。
……腹を刺された時に腸がはみ出ないためらしい。
長物を羽織る。
そして、袴を穿いて帯を締める。いつもよりもかなりきつく。
──これが緩むと足を取られて、文字通り命取りだからな。
そして、上着の上から襷をかける。
背中でバッテンを描くように。左の脇辺りに結び目が来るように。
ついでに真っ白な鉢巻きを結ぶ。
髪の毛や額からの血が目に入らないように……というのが主な目的だが、これはどちらかと言うと気合を入れるためだけの小道具だろう。
そして、昨日亜由美が持ってきてくれた日本刀を掴む。
他にないとは言え、この刀を使うことになろうとは。
……これから死合う相手のことを考えると、皮肉にも程がある。
「よし」
準備は終わった。
その恰好のまま俺は部屋を出る。
結構早い時間に寮を出たので、休日ということもあってあまり人目はない。
だけど、それでもこの襷をかけた白装束に鉢巻きをした格好というのは、思いっきり目立つようだった。
尤も、そんなこと、今は気にしてなどいられないが。
ただ……檜菜先輩に出会わなかったのが幸いだった。
──先輩がコレを知れば、即座に止められかねないからな。
そうすると……刺客が、いや、刺客の背後にいる反対派が喜ぶことになり、俺が求めるものが手に入らなくなってしまう。
階段を上りきった俺は、目を閉じると息を一つ大きく吸い込み、肺の中の空気を全て吐き出すことで最後にもう一度だけ覚悟を決め……
目を見開いて、屋上のドアを開く。
空は一面の晴天で、まさに決闘日和だった。
風も穏やかで、陽射しは暖かく、春が十分感じられる。
──そんな中。
屋上に、彼女は佇んでいた。
……いつもと同じように、杖をその手に持って。