第二章 第四話
「じゃ、行くよ?」
俺と対峙した瞬間、睨み合う時間も惜しいとばかりに、亜由美はそう告げると……まっすぐに俺へと突っ込んでくる。
そしてそのまま距離を詰めた亜由美は、まっすぐに正拳を突き出してきたのだ。
「~~~~~っ!」
彼女と相対していた俺は、その正拳に……いや、その正拳を繰り出す一連の動作を目の当たりにして、声にならない悲鳴を上げていた。
その正拳の速度自体は……まぁ、空手をやっていたという言葉通り、女子にしては悪くないというレベルのものだった。
だが、それだけならば俺は脅威とは思わなかっただろう。
ただその正拳が放たれたのならば。
……そう。
亜由美と対峙した俺は、その正拳の速度がどうのこうの以前に、床を蹴らずに滑るように飛んで来たその動きにこそ面喰っていたのだ。
──何しろ、床を蹴る必要がない。
──何しろ、正中線が歪まない。
……武術の達人であれば、そんな滑るような動きで相手に悟らせる間もなく距離を詰めることも可能とは聞いたことがあるが。
亜由美が何気なく行ったのはその類の歩法である。
そして、その動きに達人である曾祖父の戦闘力を思い出してしまい、一瞬の内に俺は総毛立っていた。
……だから、だろう。
「おぉおおおおおおおおっ!」
俺は渾身の叫びを上げつつ、彼女の放ってきた右正拳を紙一重で避けると、曾祖父に教わった古武術ではなく、ゲーセンで覚えた鉄山なんとかという技を放っていた。
肩口から身体ごとぶつかるその技は、絶好のタイミングでカウンターとして亜由美の側面を捉え……
「……キョンっ?」
亜由美はそんな、憂鬱から始まった大ヒットシリーズ主人公の仇名のような叫びを上げたかと思うと、数メートルは吹っ飛び……床にワンバウンドした挙句、そのまま大の字に倒れて動かなくなってしまった。
「こ、これ、ヤバいですよっ!」
「先生、早く、治療をとっ!」
そして、そのままクラスメイトの女子たちの手によって保健室へと運ばれていった。
「……やりすぎですよ」
「……悪いとは思ってるけどな」
奈美ちゃんの言葉に頷きながら、俺は身体に走った緊張を解くと、大きなため息を吐いていた。
結局、組み手にかかった時間はわずか一秒だったのだが……
「……楽勝?」
「……いや、それほどでもない」
俺の元へと揺れながら歩いてきたおっぱい様の言葉に、俺は首を横に振っていた。
「辛勝」とまで謙遜するつもりはないが……あの歩法には驚かされたことを隠すつもりはない。
事実、一発でKO出来たのも、俺の一撃がどうのこうのと言うより、「亜由美の体重が軽かったこと」と「彼女が浮いていたこと」の両方が上手く働いた結果だった。
白目を剥いていた亜由美ではあるが……実のところ、その飛距離の割にダメージは少なく、怪我もなかったらしい。
ただ、超能力はとてもデリケートで脳への衝撃が厳禁らしく、念のために精密検査を行うことになったとのことだ。
──超能力者の軍事利用なんてまだ夢のまた夢だな、実際。
亜由美が運ばれていった体育館のドアを見つめながら、俺はそうため息を吐いていた。
実際……銃弾が飛び交い爆風が炸裂する戦場で、脳へのダメージが厳禁とか、そんな甘いコト、言っていられる訳もない。
俺がそう結論付けてもう一度肩を竦めた、その時だった。
「……あ、えっと、その、さっきは」
「どうも、すみませんでしたわ」
「……でした」
さっきの一幕を見て反省したらしく、扇羽子・雨野雫・石井レキが謝ってきた。
どうやら、俺の本気を見て……自分たちが怪我をしていないのは、俺が手加減をしてくれたからだと分かったらしい。
アレを古武術と思っているのか、超能力と勘違いしたのかまでは分からなかったものの……
まぁ、殊勝になるのは良いことだろう。
──超能力でも武術でも、自分が弱いと分かって初めて強くなろうと思えるからな。
ただ、彼女たちの持つ『超能力』ってのがこの程度なら……一般人の俺でも何とかやっていけそうな気はする。
少なくとも、「ゲーセンで見て覚えた程度の突進技」にも劣る超能力なんて、脅威になり得ないのだから。
「いや、別に大したことじゃないし」
頭を下げてきた三人組相手に対して俺がぞんざいに首を振ると、何か尊敬の目つきで見られているような……
どの道、このくらいの微乳連中に好かれても、俺としてはあんまり嬉しくない。
「今後、超能力のアドバイス」
「お願いいたしますわ」
「……します」
って、俺に頭を下げられても。
──俺は超能力者じゃないんだしなぁ。
そんな後ろめたさのある俺が、彼女たちの請願を断ろうとした、その時だった。
「……やってみたら?」
「人助けだと思っては如何でしょう?」
右手にある凄まじいおっぱい様どころか、左手側にある微よりも幽かな奈美ちゃんにまでそう言われたら、断ろうとした自分自身が悪魔みたいに思えてきた。
彼女たちを謀っているという後ろめたさは確かにあるものの……武術的な観点からの助言くらいは出来る、かもしれない。
「……はいはい、暇な時なら、な」
そう俺が根負けして頷いたところで、チャイムの音が体育館に響き渡り。
昼食の時間となったのである。
ここ『夢の島高等学校』の食事は基本的に寮で食べる。
というよりも、全ての学生に寮生活が義務付けられている以上、それは当たり前のことに近い。
勿論、前もって頼んでいれば弁当も作ってくれるらしいのだが……実際、教室から寮まで歩いて十分足らずの距離だから、弁当を頼むメリットというのはあまりない。
もっと生徒の数がいれば食堂が混み合うことを考える必要があるかもしれないけど、たった三十人足らずでは、食堂が埋まることすらないようだ。
──ま、そんなことはどうでも良い。
俺は丸一日以上何も入れなかった胃に、ノルマを与えるのに急がしく要らぬことを考える余裕なんて存在していないのだ。
今日の食事は……というか、寮の食事というのは基本的にA定食、B定食、C定食の三種類から選ぶことになっている。
それぞれ和食、洋食、中華らしい。
俺が頼んだのはA定食だった。
月見うどんと白米に漬物という穀物ばかりのメニューである。
尤も、飢えている俺にはメニューに対する文句などあるはずもなく……食事が始まってたったの二分で容量の半分が既に消えているのだが。
「……もう少し、ゆっくり食べたら?」
俺の食べっぷりを見て、スパゲッティを啜っていたおっぱい様が忠告を下さった。
アレだけの質量を二つもぶら下げていて……よく食事をこぼさないものだ。
──手元、ちゃんと見えているのだろうか?
「……人の忠告はしっかりと聞きなさい」
要らぬ心配をしていた所為か、また睨まれてしまった。
……しかし、いい加減こうも睨み続けられると新しい感覚に目覚めてしまいそうである。
「……ひかひは、ほれほひょくひはんへいひにひふひへ」
何とか喋ろうとするが、声にならない。
……ま、精神感応能力者には別に発音なんて関係ないんだろうけど。
「あの……そんなにお腹空いているなら、その、要りますか?」
俺の前のA定食が見る見る内に減っているのを見て、おっぱい様の反対側……つまり、俺の右隣に座っていた奈美ちゃんがそう提案してくれる。
彼女はC定食……ラーメンとチャーハンだ。
「んぐ……良いのか?」
俺は口内に入っていた白米と漬物のミキサー仕立てをうどんの汁で一気に流し込んだ後、尋ねる。
……品がない?
少し前に引退した横綱じゃあるまいし、品位で飯が食える訳もない。
大体、俺は『不幸な事故』で丸一日もの間、飢えていたのである。
人間という生き物は、衣食満ちた後でようやく礼節を知るという。
──正直、飢えている間は礼節なんて二の次だ。
「ええ。私はこれくらいで十分ですから」
彼女はチャーハンを半分食べただけでもう要らないらしい。
サングラスが湯気で曇っていて、その笑顔が本心かどうかは分からないが……
「……サングラス、関係ないし」
奈美ちゃんの身体を心配した俺の心の中の呟きにも、おっぱい様は的確な突っ込みを入れて下さる。
その声に視線を向けると、食べるために身体を少し傾けた所為か、テーブルの上に半ば乗っかかり、形を歪めたその二つの膨らみがあった。
──すげぇ。
その光景に俺は一瞬だけ目を奪われるものの……すぐに空腹を思い出してしまう。
今は……そんな性欲よりも食欲優先だった。
俺は奈美ちゃんの食べかけチャーハンを掴み取ると、五秒でその全てを口内へと押し込んでいた。
「あ、間接……」
……そんなことを呟きながら奈美ちゃんが赤くなっていたが、俺としてはそんなの、気にするほどのこともない。
奈美ちゃんが丸々残したラーメンに手を伸ばし、自分の制空圏内へと配置する。
「……誰も取らないわよ」
おっぱい様こと奈々がそう呟くが、これは気分的な問題だ。
生憎と従姉妹連中に食い意地の張ったのがいて、親戚の会合の度に大戦争していたのだ。
……多人数と食事を取ると、つい防衛本能が働くようになってしまった。
「すごい、です、ね」
俺の食べっぷりを見て……いや、知覚して、奈美ちゃんがちょっと引きつった笑いを浮かべている。
男子高校生なら普通の光景も、小柄で小食な彼女にしてみれば珍しい光景なのだろう。
実際、おっぱい様も俺のそんな光景を見て呆れた所為か、首を幽かに左右に振って……そのお蔭か、二つの大きな膨らみが左右へとわずかに揺れている。
その光景に目線を奪われながらも、俺が麺を次々に異の中へ流し込んでいた、その時だった。
「お。チャーシュー貰いっ!」
「~~~っ!
させるかっ!」
突如、そんな叫びと共に上空から……通常ではあり得ない角度から箸が迫ってきて、俺のチャーシューを奪おうとする。
──だが、甘い。
俺の学んだ古武術の基本は「鉄壁」だ。
拳や蹴り、投げ技への対処。
果ては日本刀を持った相手を想定してまで、防御技術に関しては曾祖父から徹底的に教わっている。
略奪者の箸と俺の箸が交差する。
だが、その拮抗も一瞬だった。
……こちらの方が腕力は強い。
そのまま箸に力を込めて、椀外に押し切ろうと……
勿論、相手も腕力差は自覚していたのだろう。
現在の侵攻ルートをあっさりと放棄し、弧を描くように次の突入ラインへと移る。
──だが、それも俺にとっては予想の範疇内!
俺の持つ箸は、略奪者のそれを見事に挟み込んで受け止めていた。
「……やるな」
「和人こそ、なかなか」
俺と侵略者……空に浮いたままの亜由美……の間で友情にも似た微笑が交わされ……だが、それも所詮は一瞬。
包帯だらけの剣豪も言っていたように、所詮この世は弱肉強食。
……友情も愛情も、所詮はまやかしに過ぎない。
俺と彼女、二人の視線が絡む。
亜由美もそれは分かっているらしく、彼女から不敵な微笑が返ってきた。
それを合図として、俺たち二人はまたしても矛を交えるべく、脇を締め……
「……あんたたち、下品」
「食べ物を粗末にしてはいけません」
そうして、同席していた二人の少女に叱られた。
「っと。もう怪我は良いのか?」
俺の隣にC定食を置いて、自然に座り込もうとする亜由美に対して尋ねてみる。
「あはは。怪我なんてないない。
単に保健室の精密検査で脳を輪切りにしただけだし」
「輪切りって……CTスキャンか」
「そう、それをやって、問題ないってさ」
ま、そりゃそうだ。問題あれば病院行きだろうし。
──つーか、保健室にCTスキャンがあるってどれだけ充実した設備だよ?
一流の病院並のその施設に、俺は思わず内心で突っ込みを入れていた。
どうやら、この学校の運営に軍事予算が関わっているというのは、νの名前がつくMSほどに伊達じゃないらしい。
「いやぁ、しかし、和人、強いね〜」
「っててて。叩くな叩くな」
何処かのおっさんよろしく、亜由美のヤツは俺の肩を無遠慮に叩いてくる。
拳を交えた後の昭和ドラマの番長っぽく、遺恨も何もなく、ただ素直に俺を認めているらしい。
「しかし、ボクの突きがあっさりと避けられたの、初めてだよ」
一応、能力使って滑るように間合いを詰めたんだけどな〜とかぼやく亜由美。
「……能力の使い方、間違っているぞ」
その言葉を聞いて、俺はラーメンをすすりながら呟く。
「……へ?」
「横に滑ってどうする。
それじゃ地面を歩くのと全然変わらないだろう?
もっと戦場を平面的にじゃなくて、立体的に捉えないと」
「……う」
奪われかけたチャーシューを絶対に奪われない空間……口の中に格納しながらの俺の説教に考えることがあったのだろう。
アレだけやまかしかった亜由美は、虚空を睨みながら黙り込んでしまう。
……どうやら、本気で考え込んだらしい。
何しろ、C定食を食べる動きまで完全に止まってしまっているのだから、かなり深く思案しているのだろう。
その様子があまりにも真剣で、こちらに気付きそうにもなかったんで……俺はほんの出来心でチャーシューを頂くことにしたのだった。