長かった一日目の終わりと、夫婦の夜
うむうむ、これでおとうさんも嫁に出す心配しなくてよくなりますね。と解決したとばかりに額の汗を拭う蓬さん。
「我ながら名案です。なんと、おとうさんの娘がもう一人増えるんですよ」
めでたしめでたし。とついたら、子供に絵本のエピローグを読み聞かせているかのようだ。
しかしながら、ただいまの観客は、ぽかーんと口をあけてフリーズしている石像がふたつだけだった。
「それってなんていうか、お得感がありますよね」
スーパーのお惣菜が安かったの的なノリでいわれた。
「おとうさんの言いたい事は、わかるよ。苦労しないわけがない。それも、含めて一緒になるって決めたんだもん。山の暮らしは大変だけど、辛い事だけじゃなく楽しかった」
「おとうさん、私を育てるの大変だった?頑固で我儘で扱いづらい子だったよね」
にこー。
「でも、それは辛いだけだったかな?だったら寂しいな」
うわぁ、嫌な攻め方するな。さすが本性はドS。あれやこれやのひざ詰めでの夫婦の話し合いを思い出し、パパ熊に同情する。
案の定、鹿の肝をそのまま食べたような顔になっている蓬パパ。
「ぐ、お前そういう所。母さんそっくりになりやがって」
進退きわまったのか、ちらりと横目で、なぜか俺に助けを求めてくる。
いやいや、あなたの娘さんですよとジェスチャーで返す。
「わたし、殆ど母を覚えてないです。おとうさんは想い出話もしてくれないもん」
「でも、恋愛結婚だったんだよね」
「お、おまっ、誰から聞いた」
ごっつい顔が羞恥に染まる。うわー、コメントしたくない惨憺たる情景である。
「おとうさんを選んだんだから、確かな目を持った人だったんだよね」
「そんな母の娘だから、大丈夫よ。わたしの選んだ人も間違えない。私は幸せになるわ」
星をちりばめたような最高の笑顔で、そういうことをいう。
俺も羞恥で、真っ赤になる。今すぐ逃げ出したい。
それでも、俺の恥ずかしさと、蓬の笑顔を秤にかけると、まあ、いいかという気持ちになるのは、俺も大概だなぁと思う。
俺も、いい加減石像になるのをやめて、援護射撃するとしようか。
「あの、俺はこいつの笑っている顔が好きなんだ。だから、出来るだけそういう顔をしていられるように頑張るから」
「こういう優しい人なんです」
「まるで長年連れ添ったつれあいの様だな、おまえら」
まあ、それなりには一緒にいたからな。
「もう勝手にしろ」
娘のそんな顔見せられたもう何も言えねえよ。と白旗を上げた。
「ありがとう、おとうさん」
「ありがとうございます」
お義父さん、というのはさすがに遠慮した。
ずっと、巌のように握られていた拳が怖かったからではないぞ。
蓬は最後に俺に言う。
「よろしくお願いしますね。わたしのお嫁さん」
あれ、方便じゃなくて確定事項だったの。マジでそれでいくんでしょうか。
これにて、イベントボス戦闘終了。
勝者は蓬さん。
倒されたのは親の良識と、俺の尊厳とかなんとか。死して屍拾う物ナッシング。
その後、しばらく座り込んで、一言も発さなかった、俺らの父親(予定)。
「月を見ながら酒飲んでくる。今日はもどらねぇ」
そう、ひとり言のように呟いた後立ち上がった。
眼が半分死んでいる。当事者の言う事ではないがご愁傷様です。
ごそごそと、ないやら、床板を外しでっかい樽を取りだす。かついで破れた戸から出ていった。
足取りは既に酔っぱらったように、頼りなかった。
「どこで俺は間違ったのか」
去り際に、そうぼそり呟いたのが印象的だった。
さて、長かった一日のエピローグに、一方の強硬な主張で、蓬の布団で一緒に寝る事になった。
俺も、まあ、なんていうか決してやぶさかではないです。
頼りない油明りでも、それを消したこの時代の夜は心細くなるほどに暗い。ひとりでいたら、泣きだしたいほどだったろう。
ただ、この闇にお互いの体温が静かに漂う。
それだけで、羊水にでも包まれた頃の様で。心の水面はどこまでも穏やかだった。
初夏でも、今日は特別暑いようだ。
襦袢一枚になっても汗ばむ肌は気にならないわけではない。それでも繋いだ手を離すという選択肢は二人には無かった。
俺たちは恥ずかしいやら、気まずいやらでしばらく天井を見ていたが、その沈黙に耐えられなくなって、夜の闇に話掛ける。
「夫婦だな」
「夫婦です」
投じた波紋は、同じ柔らかさで、こちらに戻ってきた。
それが嬉しくて、また小石を投じる。
「夫いないけどな」
「夫いないですけどね」
「でも、蓬がいるからいいや」
「でも、嘉さまがいるから良いです」
どうにもくすぐったい会話が蚊帳の中に響く。
うん、恥ずかしい空気禁止。
あと、やっておかなければならない事は一つ。本題にふれた。
「なあ、実際のところどこまで分かっているんだ?」
「分かっているって?」
「前の人生の話」
そこで、蓬の方に顔を向ける。
「くすぐったいです」
俺の長い髪が顔にかかったのが、猫が顔を洗うみたいにする蓬。
「そうですね。正直、全てではないです。ところどころ虫食いになっています」
「もう一人の私を、川の向こうから眺めているような感じです。あれはいまの自分のものではないけど、わたしであるのはまちがいないみたいな、あれ?なにをいってるんでしょうか」
自分でも言ってて訳が分からなくなってしまったらしい。
記憶の再認。自分のものであるという所を理解する機能が、変わった形で作用しているのであろうか。
「本当にそれが泣きたいほど羨ましくて、記憶の二人は本当に寄り添う事が自然で。こういう風にこれからずっと生きれたらなぁ、と思いました。だから、思いだせない空白は少し悲しいですけれど、それよりもあなたと一緒に、まだ分からない隙間を埋めていく事に、楽しみな気持ちが沢山です」
繋いだ手よりも確かに、心が触れた気がしたんだ。
「俺もだよ」
そうだね。あのそのほら、えっちぃこととかも、でっかい興味ありますよねー。男の子だもの、精神的には。
「わからないなら、わからないでもかまいません。あなたがいれば」
それで、わたしは十分です。
「でも、一つだけ」
鋭い光が眼に宿る。それを人は悲しみと呼ぶのだろう。
「楓と嘉高」
俺たちの大切な宝物。双子の姉弟。
「…………」
眼をつむって通り過ぎるには、重すぎる話。
「あの子たちはいまどこですか?」
言葉の端には、不安というより恐怖が漂っている。
「ごめん。俺にもわからない」
殆ど絶望的だろう。もし、無事にクリアして次のゲームが始まれば、会えるが、こうなってしまった以上。次のゲームがあるとも思えない。
そんな俺の、諦念を感じ取ったのか。初めから覚悟をしていたのか。
眼を伏せて、長いためいきをついた。
「あなたともこうして会えたのですから、強かなあの子たちの事です。きっとどこでも元気にやっていけますよね」
それは、別離を受け入れようとする言葉。自分自身を欺く言葉。それが出来ないと分かっていながら強がる言葉。それが鋭利な刃となって蓬自身を傷付けるのがわかった。
「ああ」
俺は力強くうなずく。その痛みを誤魔化すための助けになればと願い。彼女の嘘を肯定する。
「嘉さま。先程わたしの笑顔が好きって言ってくれましたよね。これから、ずっとずっーと笑顔であなたの隣にいます」
「だから、今だけは…泣いていいでしょうか」
明日からいつものわたしです。俺の好きな青空を映した海の色の瞳は、悲しみを湛えていた。
俺の返事を待てず。それだけ言って、輪郭の細い体は、すっぽりと胸の中に収まった。
蓬は幼い額を、俺の鎖骨の間に押しつけた。着物の合わせがゆっくりと濡れていくが分かった。
襦袢の襟は引きちぎられるかと思うほど強く握られる。
俺は同じくらいの強さで彼女を抱きたかった。でも、いまの蓬は細く儚い雪の様で、手の中で消える事を怖れ、優しく背に手をまわすのがやっとだった。
夜の静寂にすすりなく声がどうしようもなくしみる。
それは、夜明け近く、蓬が眠りという檻に囚われるまで続いた。
俺は、彼女の痛みが和らぐようにと願うことしかできなくて、泣きじゃくるその背をただ静かに、静かにさすっていた。