騎兵戦線「三死兵」
草原に風が吹いた。地を這う強風は、土と草を波打たせた。星明かりが雲に隠れ、また現れた。
葉俊は太刀を捨てていた。帯びているのは短い剣が二本。その二本を壁の隙間に差し込み、楔とする。冷たい壁面に貼りつき、息を殺した。
彼は鎧も身につけていなかった。極限まで身軽な出で立ちだ。戦士の姿ではない。もちろん、馬もいない。三騎兵としての自分を捨てていた。
待っていてください。
心の中で呟いた。
腕を動かした。そっと短剣を抜き、身体を引き上げ、また差し込む。ゆっくりと上っていく。彼と同じような姿の男が、他にも何人かいた。暗部の者たちだ。国家に仕える裏の人間である。葉俊は、彼らの長でもあった。
城壁の上を見張りの兵が通った。敵国である華の兵士だ。篝を掲げ、周囲を見回していたが、壁に溶け込んだ暗部たちには気づかなかった。
見張りをやり過ごし、葉俊は音もなく城壁の上に辿り着いた。他の暗部も遅れて到達する。
葉俊は頷き、打ち合わせた手筈どおり、部下たちが散開するのを見届けた。最後に自分自身を闇に消した。
初めは疑念だった。虚報だと思った。それが真実だと思い知らされたのは、同じ三騎兵である葉俊からの知らせであった。
馬厳は馬を駆った。西の戦線からは離脱した。西と北からの両面作戦は瓦解した。北面の戦が負けたとなれば、西を攻める意味はない。馬厳が率いていた隊は、副官の馬孫に任せていた。
今、馬厳は精鋭百騎を率い、ある城を目指していた。華の兵士が駐留する城である。
「馬厳様、馬が――」
騎馬が潰れないぎりぎりのところで、草原を駆けていた。目的の地が近くなったことで、気が急いていたようだ。馬厳単騎がやや先行する形となってしまった。
「すまん」
馬が疲れを残したまま、到着する愚は避けるべきだった。
「小休止」
停止すると、即座に下馬した。馬への負担を少しでも減らすためである。白い泡のような汗を拭い、塩を舐めさせた。騎兵たちも休息する。
待っていろ。
馬厳は地平線の向こうを睨み付けた。
祥青は矢に白鳥の羽根を差し込んだ。鏃の重みと均衡になるように調整し、矢を作っていった。すでに馬の鞍につけた箙は一杯だった。それだけでは足らず、もうひとつの箙も追加した。どれくらい必要になるかわからないからだ。
祥青にとっては、弓と矢は唯一の武器だ。いくらあっても足りないということはない。すべてを射尽くすまで、撤退はない。いや、たとえ矢がなくなっても、どこかで奪えばいい。命が尽きるまで、後ろに引く気はなかった。弓騎兵としての自尊心がそこにあった。
祥青は近寄ってきた馬の鼻面を撫でた。
「あの城に紫蘭さんはいるそうだよ。三騎兵の葉俊さんからの言伝だから間違いない」
どこかで葉俊は少年の弓のことを聞いていたのだろう。まだ幼いといえども、戦力になりそうな存在は、手駒として使う必要があった。
「一緒に行ってくれるかい?」
荒い鼻息が応えた。
「ありがとう」
祥青は馬の顔を抱きしめた。
「なに?」
城の中の一室で、楊然は汗に濡れた身体を拭いた。つい先ほどまで、弓を引いていた。錆び付いていた筋肉を鍛え直していたのだ。最近は、弓の感覚を取り戻すことに熱中している。敵として現れた弓兵に刺激されての行動だった。
「楊延、と名乗ったのか?」
従弟の名だった。砦の守備を任されていた華国の隊長だったが、以前の戦いで、央に下ったと聞いていた。他の砦の隊長が早々に逃げ出した戦況下で、唯一、抵抗した軍であった。親類ながら天晴れと思ったが、この状況で現れた意味を考えた。
「行こう」
本物かどうか顔を見ればわかる。
楊延は部下に自国である華の旗を掲げさせていた。紫蘭と祥青に折られた旗である。今は新しい竿に旗がたなびいていた。
「楊然、久しいな」
城壁の上に現れた従兄に大声を張り上げた。
「楊延か。お前、ここで何をしている? 央に下ったにしては、顔色が良いではないか」
皮肉混じりの言葉に、楊延は苦笑した。
「まあな。草原の民の中は居心地がよくてな。重い鎧を身につけずにすむのだからな」
皮肉には皮肉で返した。華の国が重い銀鎧を着込むようになって、本音は閉口していたのだ。
「何用だ」
楊然は憮然として言った。彼自身、銀鎧は好きではなかった。国策によるものであるため、受け入れる以外に選択肢はないのだ。
「人質の交換」
楊延はあっけらかんと言い放った。
「人質だと?」
「私と私に従った兵士を、三騎兵の女と交換、だそうだ」
女騎兵が城内にいることを知っているのか。意外だった。諜報されたのかもしれない。つけ入れられる隙はなかったはずだが、絶対ということはない。
「なるほど」
楊然は計算した。通常の取引ならば、断るところだ。身内とはいえ、たかだがひとつの砦の隊長が、名だたる三騎兵と釣り合うわけがない。有能な将の一人とさえ、等しいとは言い難いのだ。
だが、あのような状態の女ならば、どうだろうか。壊れた三騎兵に、価値はほとんどない。女としてしか、使い物にならないのだ。兵士たちは反対するかもしれないが、いつまでももつとは限らなかった。見切りをつける良い頃合いだった。
「よかろう」
楊然は計算を終えた。
「では、一刻の後に」
楊延はほっとした。自分の価値が低いことくらいわかっていた。この取引が成立する可能性は低かった。華の国の将が、従兄の楊然であったことだけが、唯一の光明だったのだ。
楊延は、かつて命を救われた女騎兵を助け出せることが、心の底から嬉しかった。
葉俊は暗闇で爪を立てた。自分の身体に食い込んだ指の痛みを感じない。痛覚はどこかに忘れた。
部下はすでに待避させていた。紫蘭の生存の報を携え、自軍へと戻らせた。残っているのは彼一人だった。
葉俊は引き結んだ口を噛んだ。血の味が口腔に滲んだ。彼は、二人の自分を戦わせていた。
押し黙り、ことの成り行きを見届け、もっとも可能性の高い方策を選択する暗部の彼。
仲間のために戦い、身命を賭して守り、共に駆ける三騎兵の彼。
どちらが本当の自分であるのか。答えはすぐに出ず、苦悶の中で、紫蘭を見下ろしていた。
きつく拘束された紫蘭は腕を上げることも、脚を閉じることもできなかった。常に痛みがあった。脚や腕や背中や肩が悲鳴を上げ続けている。汚物にまみれたような臭気が絶えずあった。
髪は乱れ、寝台に貼りついていた。目は腫れ、耳の奥はじんじんと唸っていた。
身体が痛い。
吐き気がした。身体の中が別の何かで一杯だった。
恥辱。
そのような考えも失せ始めていた。
朝も、昼も、夕も、夜も、代わる代わる組み伏せられた。
屈辱。
そんな気持ちは忘却の彼方だった。
見られている。
霞む目の先に誰かの視線が見えた。よく見知った目だった気がする。
「ひどい臭いだな。女」
新しい男が覆い被さってきた。初めての兵士だった。
影が落ちてきた。
男の首も落ちてきた。
「紫蘭」
血が彼女を洗った。懐かしい臭いだった。しばしの間忘れていた戦場の臭いだ。
「お待たせて申し訳ありませんでした」
葉俊は清潔な布で、紫蘭の顔を拭いてやった。
鬨の声がこだました。
「何事だ」
楊然は城壁に取って返した。
「央の軍……のようです」
「あれは、三騎兵? 謀られたか」
凄まじい勢いで城壁に迫る騎兵の軍だった。先頭を駆けるのは、馬厳だった。後方に百騎ほどの騎兵が続いていた。
「楊然様、城門が!」
内側から門が開かれようとしていた。
黒い姿の男たちが、城門の兵と戦っていた。葉俊の部下だった。長の命を聞かず、引き上げていなかったのだ。
城壁の兵士が吹き飛んだ。その身体に、青い矢羽根が突き立っていた。一人、二人と射倒されていく。
「あやつも、来たか」
楊然も弓を取り、射返した。何人かの騎兵に当たったが、矢が何倍にもなって返ってきた。すべてが青い矢羽根だった。先日の弓兵だ。たった一人でこれほどの矢を射ているのだ。正確さとあいまり、空恐ろしいほどの技量を感じた。
「こちらも、騎兵を出せ」
敵によって開かれた城門から、銀騎兵が躍り出た。すでに黒い男たちは姿を消していた。
馬厳が率いる部隊と銀騎兵が真正面からぶつかった。銀騎兵が崩れる。馬厳の戟が力任せに銀の鎧を薙ぎ倒していた。他の騎兵も、二人が一人に対し、銀騎兵を打ち倒していた。機動力を十二分に発揮して、挟み込むように戦う。一人が牽制し、一人が死角から矛や槍を突き入れる。視界の狭い兜を被っていては、避けることもままならなかった。
「なんということだ」
楊然は歯ぎしりした。戦いの趨勢は明らかに不利だった。
「楊然!」
従弟の声がした。
「状況が変わったようだ。取引はなしだ」
楊延はすでに旗を降ろしていた。人質交換は虚言だった。元華軍の兵士は、央の国軍に軟禁されていた。楊延だけが、抜け出していたのだ。
楊然は舌打ちして立ち上がった。そこに矢が飛来する。
「そこか」
箙に残った矢を握った。青い矢羽根の乙矢だった。矢が飛んでくる方向を見定め、弓を構えた。城壁から身を乗り出し、捜した。
馬に乗った弓兵が駆けていた。騎乗振りが以前よりは様になった少年がいた。
楊然は矢を放った。
「馬鹿な」
青い矢羽根が吹き飛んだ。
楊然が射た矢を、弓兵の射た矢が射抜いていた。青い羽根が宙を舞う。軌道をずらされた矢は、それでも弓兵に向かったが、馬が俊敏に動き、それをかわしていた。
再び飛来した矢が、楊然の肩を射抜いた。彼はその衝撃で意識を飛ばした。
さわさわと風が流れていた。
草と土の匂いに包まれ、優しくはない風が頬を叩いた。
「起きましたね」
微笑む葉俊がいた。
その隣に無言の馬厳が佇んでいた。何も言わない。言えないのだ。
「泣いているのか」
紫蘭は馬厳の目から涙が零れるのを見た。
「馬鹿言うな」
そう言って、馬厳は後ろを向いた。腰を落として座り込んだ。
「痛みますか」
「そうでもない」
自分の身体ではないみたいだった。借り物の肉体に入り込んだような感じだ。高熱を発したときの感覚に似ている。そんな記憶も、遙か昔のものだったから、あやふやだった。
「痛み止めが効いてきたようです。少し休みましょう」
葉俊の口調は暗くはなかったが、真剣だった。紫蘭にもそれがわかった。
「そうしよう。片腕では、剣もろくに振れぬ」
右腕を失っていた。二の腕から肘にかけて巻かれた布に、血の痕がついていた。
「もう、国のために戦わなくてもいいんだぜ」
馬厳が低く言った。
「死んだってことにしてさ。どこか、平和なところで暮らせばいい」
腕だけではない。脚も、腹も傷ついていた。手当は一応されていたが、応急的なものだった。早急に医に携わる者に見せる必要があった。
「馬厳」
馬厳の手は目元を押さえていた。
「お前、引退するつもりなのか?」
「違うだろ! お前だ、お前!」
馬厳は振り返って紫蘭を見た。目が赤かった。
「私? 何故だ。この身でも、お前と五分には渡り合えるぞ」
紫蘭は左手の拳を握った。咳が出た。脚の間の鈍痛が続いていた。
「馬鹿なことを言うな。葉俊ならともかく、俺に勝てるわけがないだろう」
馬厳は鼻息を荒くした。
「待ってください。私が本気を出したら、二人とも命がないですよ」
葉俊はさらりと言って笑った。
「ふむ。試すか」
紫蘭は立ち上がろうとした。
「駄目だ!」
「寝ていてください」
馬厳と葉俊が慌てて紫蘭を押さえつけた。
紫蘭は身体を硬直させた。傷だらけの顔に、今まで彼らが見たことのない表情を見てしまった。二人の男はすぐに身を引いたが、紫蘭はきつく目を閉じたままだった。
「紫蘭さん!」
騎兵が一騎近づいてきた。弓を担いだ祥青だった。
「無事ですか!」
「おい、お前はこっちだ」
馬厳が祥青の前に立ち塞がり、それ以上近づくのを止めた。
「え、何故ですか」
「黙ってついてこい」
今の紫蘭の姿は見せたくなかった。馬厳でさえ、心が乱されているのだ。少年にはこたえるだろう。
「死んでいれば良かったのかもな」
紫蘭は何でもないかのように振る舞っていたが、心に恐怖を湛えていた。そのようにしてしまった華の人間どもを、馬厳は初めて憎いと思った。皆殺しにしてやりたいと考える自分に、彼は吐き気を催した。今までにない感情だったからだ。自分の中で、何かが変わった気がした。
「よい風です」
葉俊は草を引き抜き、風に散らした。草原の風は、強く激しい。あっという間に風に攫われ、見えなくなった。
葉俊は無力感に苛まれていた。三騎兵として生きてきたことで、たいていのことは打ち破れる自信があった。だが、紫蘭を救い出したのは、暗部としての葉俊だった。馬厳ほど兵を率いる統率力もなければ、個人の力量も劣る。三騎兵の名は重い。闇に生きる。それが、本来の己ではないかと自答した。
「私は生きているのだな」
風が渦を巻き、紫蘭の身体を叩いていた。疼く痛みは生きている証だった。かつては、心地良く感じた風も、今は痛みを助長するだけだった。
地に伏せっているからかもしれない。馬上で剣を抜き、駆け通せば、気持ちがよいはずだ。だが、馬はどこだ。愛する馬はどこに行ってしまったのか。
「死んだのか」
馬のない自分は死んでいるのと同じだった。騎兵は、人と馬があってこその騎兵だ。草原を駆け巡り、敵と剣を交える存在だ。今の自分は何なのか。立ち上がることもできない騎兵は、騎兵ではない。
紫蘭は拳を大地に打ちつけた。
「私は」
悔しかった。多勢に無勢であっても、戦いに負けて生き残る気はなかった。敵の捕虜になり、身体を陵辱されながら、生きていたくはなかった。戦の中で死んでしまえばよいと、どれほど思っただろう。だが、救われてしまった。
「生きている」
首をもたげた。左腕の肘を立てる。葉俊が支えようとしてくるのを跳ね退けた。身体を回し、額と肘と膝で身体を持ち上げた。
一人で立たなければならない。戦場では、他人を頼っては生きられない。剣と馬がすべてだ。それさえあれば生きる道はある。
「騎兵として、生きる」
剣も、馬も失った。だが、必ず見つけ出す。
目眩のする頭を上に向けた。風の強さによろめき、倒れそうになるのを耐えた。
「私は、死なぬ」
紫蘭は全身で逆風を受け止め、立ち上がった。草原の匂いが心を静めてくれた。
馬と共に、草原を駆け抜けたい。今は、それだけが望みだった。