聖女はまだ分からない
朝の学院。
石畳には昨夜の雨がまだ残っていた。
レオンは図書館へ向かう途中、中庭で足を止める。
花壇の前で、一人の少女が困っていた。
銀髪を揺らし、静かに花壇を見つめる。
「あ……。」
聖女候補、リシア。
植木へ水をやろうとしていたらしいが、水魔法がうまく制御できず、花壇まで水浸しになっていた。
「すみません……。」
誰に言うでもなく、小さく呟く。
レオンは少しだけ眉をひそめた。
「見ておけ。」
「え?」
彼は指先を軽く動かした。
透明な水球が幾つも浮かび、朝日にきらめく。
必要な量だけが花へ降り注ぎ、土を濡らしていく。
まるで雨粒が踊っているようだった。
リシアは目を丸くする。
「……きれい。」
レオンは無言で如雨露を返した。
「水は多すぎても少なすぎても駄目だ。魔力を、必要な分だけ練ればいい。」
「はい。」
言ってから、自分で少し驚く。
(……なぜ、そんなことを言った。)
リシアは柔らかく微笑んだ。
「ありがとうございます。」
その笑顔を見た瞬間。
胸が痛んだ。
白い光。
崩れ落ちる瓦礫。
黒い槍。
腕の中で泣く少女。
『レオン様……!』
頭痛が走る。
「っ……!」
「レオン様?」
リシアが一歩近付く。
無意識だった。
レオンは一歩下がる。
「……近付くな。」
その声は冷たかった。
リシアは少しだけ寂しそうに笑う。
「ごめんなさい。」
その表情を見た瞬間。
また胸が締め付けられる。
違う。
そうじゃない。
謝るのは彼女ではない。
そんな気がした。
レオンは静かに息を吐く。
「……いや。」
短く言う。
「君は悪くない。」
リシアは目をぱちぱちと瞬かせた。
学院でも有名な、冷徹と噂される貴族が、自分に謝った。
それだけで十分驚きだった。
「ありがとうございます。」
「……それと。」
レオンは少しだけ視線を逸らす。
「花壇の世話をするなら、朝は冷える。」
制服の上着を脱ぐ。
「羽織っておけ。」
「え?」
「風邪をひく。」
それだけ言って歩き出す。
リシアは借りた上着を胸に抱き、小さく呟いた。
「不思議な方……。」
ほんのりと温かい。
まるで以前にも、この温もりを知っていたかのようだった。
遠ざかる背中を見ながら、リシアは気付かぬうちに胸元の十字架を握り締めていた。
一方、歩き続けるレオンは、自分でも理解できない苛立ちを抱えていた。
(なぜだ。)
(なぜ私は、彼女が傷付く姿を想像するだけで、こんなにも苦しい。)
思い出せない。
だが一つだけ分かる。
もし彼女が命の危険に晒されるなら。
自分はきっと――理由も分からぬまま、躊躇なく飛び込むのだろう。
その確信だけは、記憶よりも鮮明に胸に刻まれていた。
ある日の夕方。
図書館。
レオンは政治史の本を読んでいた。
「隣、失礼します。」
アオイだった。
「……またか。」
「今日は邪魔しません。」
そう言って、本を開く。
しかし五分もしないうちに。
「レオン様。」
「何だ。」
「好きな食べ物は?」
「……。」
「趣味は?」
「……。」
「休日は何を?」
「……。」
「将来の夢は?」
レオンは本を閉じた。
「勇者。」
「はい。」
「私は尋問を受けているのか?」
「違います!ただ、知りたいだけです」
レオンは、何も答えずにその場を去る。
幼い頃から見続けた「予知夢」。その中で見る彼女と、現実の彼女があまりに違う。正確には、自分への対応の違いに、違和感があり、しかし好意を無下にもできず、戸惑うばかりになっていた。
「……つまり、レオン様に嫌われました。」
昼休みの食堂。
勇者アオイは机に突っ伏し、大きなため息をついた。
その向かいで、銀髪の少女はスープを静かに飲んでいる。
聖女候補、リシア。
「嫌われたというより……、困らせていますね。」
「そんなに?」
「ええ。」
リシアは柔らかく笑う。
「レオン様は真面目な方ですから。」
「真面目……?」
アオイは思わず聞き返した。
学院中では「傲慢な貴族」と噂される少年に、その言葉は似合わない。噂通りではないと、自分は知っているが…。
「毎朝、一番早く訓練場へ来ています。」
「知ってる。」
「夜は図書館で政治や歴史の本、魔術に関する本ばかり読んでいます。」
「……それも知ってる。」
「甘い物がお好きなんですよ。」
「それも……え?」
アオイは顔を上げた。
「甘い物?」
「学院の売店で、蜂蜜入りの焼き菓子をよく買っています。」
「知らなかった……。」
思わず悔しそうに呟く。
リシアは少し笑った。
「勝ちました。」
「勝負してたの?」
「少しだけ。」
二人は顔を見合わせて笑う。
その時だった。
食堂の隅で、数人の貴族が笑い声を上げた。
「あの子爵様、また一人で訓練だってさ。」
「誰にでも優しい、あの王子殿下にも相手にされてないらしい。」
「家柄しか誇るものがない男だ。」
リシアの笑顔が消える。
静かに席を立つ。
「失礼します。」
そのまま貴族たちの前まで歩いていく。
「何ですか?」
男子生徒が鼻で笑う。
リシアは穏やかな声で言った。
「努力する方を嘲笑うのは、神もお喜びになりません。」
「は?」
「見てもいない方を決めつけることも。」
一瞬だけ空気が張り詰める。
結局、生徒たちは舌打ちして去っていった。
アオイは呆然としていた。
「どうして……。」
「どうして?」
「どうして、レオン様を庇ったの?」
リシアは少し困ったように微笑む。
「分からないんです。」
「え?」
「嫌な人だと聞いています。」
「はい。」
「実際、口も悪いです。」
「はい。」
「でも……。」
窓の外を見る。
日に照らされる訓練場。
一人で剣を振るう少年。
「私には、あの方が悪い人には見えないんです。」
理由は分からない。
ただ、その横顔を見るたび。
胸が締め付けられる。
彼を、護りたいという気持ちになる。
様々な思惑が絡み合う、この学舎で。




