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聖女はまだ分からない

掲載日:2026/07/06

朝の学院。

石畳には昨夜の雨がまだ残っていた。

レオンは図書館へ向かう途中、中庭で足を止める。

花壇の前で、一人の少女が困っていた。

銀髪を揺らし、静かに花壇を見つめる。

「あ……。」

聖女候補、リシア。

植木へ水をやろうとしていたらしいが、水魔法がうまく制御できず、花壇まで水浸しになっていた。

「すみません……。」

誰に言うでもなく、小さく呟く。

レオンは少しだけ眉をひそめた。

「見ておけ。」

「え?」

彼は指先を軽く動かした。

透明な水球が幾つも浮かび、朝日にきらめく。

必要な量だけが花へ降り注ぎ、土を濡らしていく。

まるで雨粒が踊っているようだった。

リシアは目を丸くする。

「……きれい。」

レオンは無言で如雨露を返した。

「水は多すぎても少なすぎても駄目だ。魔力を、必要な分だけ練ればいい。」

「はい。」

言ってから、自分で少し驚く。

(……なぜ、そんなことを言った。)

リシアは柔らかく微笑んだ。

「ありがとうございます。」

その笑顔を見た瞬間。

胸が痛んだ。

白い光。

崩れ落ちる瓦礫。

黒い槍。

腕の中で泣く少女。

『レオン様……!』

頭痛が走る。

「っ……!」

「レオン様?」

リシアが一歩近付く。

無意識だった。

レオンは一歩下がる。

「……近付くな。」

その声は冷たかった。

リシアは少しだけ寂しそうに笑う。

「ごめんなさい。」

その表情を見た瞬間。

また胸が締め付けられる。

違う。

そうじゃない。

謝るのは彼女ではない。

そんな気がした。

レオンは静かに息を吐く。

「……いや。」

短く言う。

「君は悪くない。」

リシアは目をぱちぱちと瞬かせた。

学院でも有名な、冷徹と噂される貴族が、自分に謝った。

それだけで十分驚きだった。

「ありがとうございます。」

「……それと。」

レオンは少しだけ視線を逸らす。

「花壇の世話をするなら、朝は冷える。」

制服の上着を脱ぐ。

「羽織っておけ。」

「え?」

「風邪をひく。」

それだけ言って歩き出す。

リシアは借りた上着を胸に抱き、小さく呟いた。

「不思議な方……。」

ほんのりと温かい。

まるで以前にも、この温もりを知っていたかのようだった。

遠ざかる背中を見ながら、リシアは気付かぬうちに胸元の十字架を握り締めていた。

一方、歩き続けるレオンは、自分でも理解できない苛立ちを抱えていた。

(なぜだ。)

(なぜ私は、彼女が傷付く姿を想像するだけで、こんなにも苦しい。)

思い出せない。

だが一つだけ分かる。

もし彼女が命の危険に晒されるなら。

自分はきっと――理由も分からぬまま、躊躇なく飛び込むのだろう。

その確信だけは、記憶よりも鮮明に胸に刻まれていた。



ある日の夕方。

図書館。

レオンは政治史の本を読んでいた。

「隣、失礼します。」

アオイだった。

「……またか。」

「今日は邪魔しません。」

そう言って、本を開く。

しかし五分もしないうちに。

「レオン様。」

「何だ。」

「好きな食べ物は?」

「……。」

「趣味は?」

「……。」

「休日は何を?」

「……。」

「将来の夢は?」

レオンは本を閉じた。

「勇者。」

「はい。」

「私は尋問を受けているのか?」

「違います!ただ、知りたいだけです」


レオンは、何も答えずにその場を去る。

幼い頃から見続けた「予知夢」。その中で見る彼女と、現実の彼女があまりに違う。正確には、自分への対応の違いに、違和感があり、しかし好意を無下にもできず、戸惑うばかりになっていた。




「……つまり、レオン様に嫌われました。」

昼休みの食堂。

勇者アオイは机に突っ伏し、大きなため息をついた。

その向かいで、銀髪の少女はスープを静かに飲んでいる。

聖女候補、リシア。

「嫌われたというより……、困らせていますね。」

「そんなに?」

「ええ。」

リシアは柔らかく笑う。

「レオン様は真面目な方ですから。」

「真面目……?」

アオイは思わず聞き返した。

学院中では「傲慢な貴族」と噂される少年に、その言葉は似合わない。噂通りではないと、自分は知っているが…。

「毎朝、一番早く訓練場へ来ています。」

「知ってる。」

「夜は図書館で政治や歴史の本、魔術に関する本ばかり読んでいます。」

「……それも知ってる。」

「甘い物がお好きなんですよ。」

「それも……え?」

アオイは顔を上げた。

「甘い物?」

「学院の売店で、蜂蜜入りの焼き菓子をよく買っています。」

「知らなかった……。」

思わず悔しそうに呟く。

リシアは少し笑った。

「勝ちました。」

「勝負してたの?」

「少しだけ。」

二人は顔を見合わせて笑う。

その時だった。

食堂の隅で、数人の貴族が笑い声を上げた。

「あの子爵様、また一人で訓練だってさ。」

「誰にでも優しい、あの王子殿下にも相手にされてないらしい。」

「家柄しか誇るものがない男だ。」

リシアの笑顔が消える。

静かに席を立つ。

「失礼します。」

そのまま貴族たちの前まで歩いていく。

「何ですか?」

男子生徒が鼻で笑う。

リシアは穏やかな声で言った。

「努力する方を嘲笑うのは、神もお喜びになりません。」

「は?」

「見てもいない方を決めつけることも。」

一瞬だけ空気が張り詰める。

結局、生徒たちは舌打ちして去っていった。

アオイは呆然としていた。

「どうして……。」

「どうして?」

「どうして、レオン様を庇ったの?」

リシアは少し困ったように微笑む。

「分からないんです。」

「え?」

「嫌な人だと聞いています。」

「はい。」

「実際、口も悪いです。」

「はい。」

「でも……。」

窓の外を見る。

日に照らされる訓練場。

一人で剣を振るう少年。

「私には、あの方が悪い人には見えないんです。」

理由は分からない。

ただ、その横顔を見るたび。

胸が締め付けられる。

彼を、護りたいという気持ちになる。



様々な思惑が絡み合う、この学舎で。


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