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語らない仕事 ―人がもう一度、立つ場所を探す仕事―  作者: 比良野 瞬
第2章 置かれた場所

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第1話 祭りの中の場所

 祭囃子が、夜気を震わせて抜けていく。

 腹の底に響く太鼓。

 空を裂くような笛の高音。


 遠くで上がる花火が、遅れて鈍い衝撃を落とす。

 火薬の匂いと、焦げたソースの匂いと、

 溶けかけた砂糖の甘さが、夏の湿った空気に溶け合っていた。


 提灯が風に揺れ、橙色の光が人の顔を柔らかく歪める。

 浴衣の袖がすれ違い、下駄の歯が乾いた音を立てる。

 子どもが駆け、金魚すくいの水が跳ね、笑い声が重なる。


 その雑踏の中心から、少しだけ外れた一角。

 綿あめ機の前に、大柄な男が立っていた。


 角刈り。

 焼けた肌。

 ランニングシャツの肩口から、色鮮やかな入れ墨が覗く。

 胸板は厚く、腕は太い。

 目つきは鋭く、声を出さずとも周囲に緊張を落とす風貌だった。


 初めて見る者は、無意識に距離を取る。

 だが、

 男の手は、まったく違う動きをしていた。


 ざらめを静かに投入する。

 釜が回転し、砂糖が溶け、白い糸が立ち上がる瞬間を待つ。

 糸が安定するまで、棒を入れない。


 白い糸がふわりと浮いた瞬間、

 紙の棒をくるりと差し入れる。


 速すぎず、遅すぎず。

 糸を逃さず、巻き取り、形を整える。

 丸く、均等に、空気を抱き込むように。

 その動きは、まるで熟練の職人だった。


「ほら、できたぞ」


 低く、よく通る声。

 差し出された綿あめは、夜店の灯りの中で雲のように白い。

 受け取る子どもは一瞬だけ男の顔を見上げる。

 次の瞬間には、満面の笑みだった。


 男は、ほんのわずかに目尻を緩める。

 大きな手が、小さな手に触れないよう、ほんの少しだけ距離を測る。

 力の加減も、渡す角度も、すべて計算されている。


 声を張り上げなくても、人は集まる。

 男は、人の流れの中に立っていた。


 視線の動き、足の向き、財布を取り出すタイミング。

 子どもが次に欲しがるもの。

 親が迷う瞬間。

 すべてを、読んでいた。


「焦ると崩れるぞ」


 棒を強く回しすぎた少年に、淡々と告げる。

 叱らない。

 笑わない。

 ただ、手首の角度だけを見せる。


 少年はもう一度、回す。

 今度は、形が整う。


「そうだ。それでいい」


 男の声は小さい。

 だが、不思議とよく通る。

 人が人を呼ぶ。

 そこは、男の場所だった。


 ――田島光太郎、三十二歳。


 祭りの夜は、彼の舞台だった。

 人の中に立ち、

 人の流れを読み、

 人に囲まれていることで、自分の輪郭を持つ。


 その夜も、屋台の裏では仲間が酒をあおりながら笑っていた。


「おい、光太郎。今日も売り切りだな」

「当たり前だろ」


 田島は笑い、煙草に火をつけた。

 汗が額を流れる。

 だが、その顔には疲れよりも充足があった。

 祭囃子は止まらない。

 夜はまだ長い。


 ――その夜が、終わることを、誰も知らなかった。


 太鼓の音が、一段と強く鳴った。


 屋台の裏で、田島は煙草をくわえたまま、笑っていた。

 仲間が酒を回し、誰かが次の祭りの予定を話している。


 そのときだった。


 ――ズン、と。


 頭の奥で、何かが弾けた。

 花火の音とは違う。

 太鼓とも違う。

 自分の内側で、爆発したような衝撃。


「……っ」


 煙草が、地面に落ちる。

 視界が、白く弾ける。

 次の瞬間、頭蓋を内側から割られるような痛みが走った。

 今まで経験したことのない痛みだった。


 殴られたこともある。

 骨を折ったこともある。

 血を流したこともある。


 だが、これは違う。

 頭の中で雷が落ち続けているような、

 逃げ場のない激痛。


「……っ、ああああああっ!」


 田島は、その場に膝をついた。

 両手で頭を押さえる。

 だが、痛みは止まらない。


 視界が揺れる。

 吐き気が込み上げる。


「おい、光太郎?!」


 仲間が駆け寄る。

 田島は地面に倒れ、身体を丸めた。

 のたうつ。

 足が暴れ、腕が振り回される。


「押さえろ!」


 だが、若く、鍛え上げられた身体は重い。

 二人がかりでも、腕を押さえきれない。


「暴れんな!」


 違う、暴れているのではない。

 痛みから逃れようと、身体が勝手に動いている。

 目が虚ろになる。

 口から泡が混じる。


「救急車呼べ!」


 誰かが叫ぶ。

 だが、祭りの喧騒の中、声はすぐにかき消える。

 太鼓は止まらない。

 笛も鳴り続ける。


「光太郎、しっかりしろ!」


 田島は答えられない。

 痛みは、さらに深く沈んでいく。


 救急車が到着したとき、

 田島の意識はほとんどなかった。

 担架に乗せられ、祭りの灯りの下を運ばれていく。


 提灯が揺れる。

 白い綿あめが、風に崩れる。


 その夜、田島光太郎は、自分の場所を失った。



 それから二十年が過ぎた。


 祭りの音は、もう生活の中にはない。

 油の匂いが染みついた小さな居酒屋で、

 男はカウンターに突っ伏していた。


 空いたグラスが二つ。

 焼酎のボトルは、半分以上減っている。

 壁に貼られたメニューは黄ばんでいた。


 角刈りは崩れ、髪には白いものが混じっている。

 肩は落ち、腹がわずかにせり出している。

 シャツはよれ、肩口から色の抜けた入れ墨が覗いていた。


 右手は、カウンターの縁に置かれている。

 力は入っていない。

 指は半分ほど曲がったまま、

 糸が切れたように、そこにある。


 まるで、体の一部だけが、

 二十年前で止まっているかのようだった。


「……閉店ですよ」


 店主が声をかける。

 田島はゆっくり顔を上げる。

 目は赤く、焦点が定まらない。


 左手でズボンのポケットを探り、しわくちゃの千円札をつまみ出す。

 カウンターに置く。

 右手は、動かなかった。


 何かを言ったような気もするが、

 言葉になっていない。

 立ち上がる。


 身体が、わずかに左へ流れる。

 左手で引き戸を掴み、重い音を立てて開ける。

 ガラガラ、と金属が擦れる音が夜に響く。


 外は暗い。

 昼の熱は引いているが、空気はまだ重い。

 アスファルトは熱を抱えたままだ。


 田島は歩き出す。

 右足を前に出すたび、身体が左へ流れる。

 次の一歩で慌てて踏みとどまる。

 酔いのせいか。

 いや、酔いだけではない。


 右足が、思うように上がらない。

 右腕は、肩から下がわずかに遅れる。


 街灯の下で、影が歪む。

 影は、二つの速度で動いていた。

 どちらが本当の自分なのか、分からなかった。

 田島は立ち止まる。


 息が荒い。

 胸が上下する。

 額から汗が落ちる。


 遠くで、どこかの祭りの残響が聞こえる。

 太鼓の低い音。

 笛の高音。

 それは、自分とは無関係の音だった。


「……しんどいなぁ……」


 誰に向けたわけでもない。

 夜に溶ける。


 ポケットの中で、折れ曲がった名刺が指に触れる。

 昼間、市役所の窓口で渡された紙。

 〈ケアマネージャー 戸田薫子〉

 黒い文字が、白地に浮いている。


「歩くのがしんどいなら、一度相談を」


 若い職員の言葉が、頭の奥で反響する。

 田島は鼻で笑った。


 二十年だぞ。

 治るわけがない。

 今さら、何をどうする。


 右足を引きずりながら、歩き出す。

 だが、次の角を曲がるとき、

 ほんのわずかに躓いた。


 その瞬間。

 祭りの夜、綿あめ機の前に立っていた自分の姿が、

 一瞬だけ脳裏をかすめる。

 人の中に立っていた男。


 いまは、誰もいない夜道で、

 自分の影を踏みながら歩いている。


 田島は、名刺を強く握りつぶした。

 それでも、捨てなかった。

 歩き続ける。


 自分が、どこに向かっているのかも考えずに。


 ――第1話 終


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