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語らない仕事 ―人がもう一度、立つ場所を探す仕事―  作者: 比良野 瞬
第1章 つかめない手

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第7章 止めなかった手

 駅前通りを外れた細い路地に、古い看板が下がっている。

 白地に赤い文字で「喫茶店チェリー」。

 塗装はところどころ剥がれ、角が丸くなっている。

 雨風に晒され続けた木枠は、わずかに反っていた。


 ガラス扉を押すと、カラン、と鈍いベルの音が鳴る。

 店内に入ると、外の喧騒が急に遠のく。


 店内は狭い。

 L字型のカウンターと、窓際に二人掛けの席が三つ。

 空いた椅子だけが、夕方の光を受けている。

 壁には色あせたコーヒー豆のポスター。

 黄ばんだメニュー表の端が、わずかにめくれている。

 換気扇の音が、かすかに低く回っている。

 夕方の光が斜めに差し込み、湯気を白く浮かび上がらせる。


 カウンターの向こうで、白髪交じりの体格のいい初老の男が顔を上げた。

 エプロンにはコーヒーの染みが残っている。


「いらっしゃい」


 宮本は軽くうなずき、いつもの端の席に座る。

 椅子がわずかに軋む。

 マスターの低い声。


「いつものか」

「お願いします」


 マスターは無言で豆を挽く。

 その音は少し荒い。

 蒸らしの時間も、やや短い。

 湯を注ぐ角度も、几帳面とは言い難い。

 それでも、この店は落ち着く。


 カップが置かれる。

 白い陶器の縁に、小さな欠けがあった。


「今日は遅いな」

「少しだけ」


 それ以上の会話は続かない。

 店の奥で、カーテンがわずかに揺れた。

 続いて、車いすの小さな軋む音。


 カウンターの裏から、小金井実桜がゆっくりと姿を見せる。

 黒髪をひとつに束ね、淡い色のシャツを着ている。

 下肢は細く、ブランケットがかけられている。

 指先には薄く色が乗っている。

 顔色は悪くないが、目の奥にわずかな疲労が残る。

 医療的な匂いを消すように、控えめに口紅を引いている。


「体調は、変わりないですか」


 宮本はカップに触れたまま尋ねる。


「うん、寛解状態を維持できているよ」


 小金井は穏やかに答える。

 車いすを操作してカウンター横のテーブルにつける。

 車輪が床を擦る音が、店の静けさに溶ける。


「そうですか」


 それ以上は聞かなかった。

 小金井実桜はかつて宮本が担当した患者だった。

 入院中は、顔色が土のように沈み、関節の腫れでカップも持てなかった。

 それでも今、ここで客の注文を取っている。


「入院中はお世話になりました」

「おかげでパパのお店を手伝えるくらいにはよくなったもの」


 宮本は視線を落とす。


「……何もしてません」


 小金井は肩をすくめる。


「そういうところだよ。困った人」


 宮本は、コーヒーを口に運ぶ。

 苦味が舌に残る。

 今日も、変わらず不味い。


 静かな時間が続く。

 換気扇の低い音。

 カップを置く音。

 通りを歩く人の影が、ガラス越しに揺れる。


 不意に宮本が口を開いた。


「ある方が、自分で退院後の予定を決められました」


 小金井は目線を上げる。


「そうなんだ」


 宮本は続ける。


「保証は、できません」


 言葉は短い。


「もっと、なにかできたのではと思うんです」


 カップの縁に触れた指が、ほんの一瞬止まる。

 小金井は、すぐに答えない。

 宮本の顔を、静かに見る。


「保証なんて、できたことあった?」


 沈黙。

 宮本は、空になったカップの底を見る。


「……止めることも、できたかもしれません」


 小金井の視線が、わずかに動く。


「止めなかったんですか」


 宮本は窓の外を見る。


 通りを、子どもが走っていく。

 水たまりを跳ね、よろめき、立ち直る。

 濡れた靴のまま、また走る。


 宮本の声は低い。


「……間に合わなかったことが、一度あります」


 それだけ。


 小金井は、その意味を知っている。

 けれど、何も聞かない。


 店の奥で、マスターが咳払いをする。

 ポットから立ちのぼる湯気が、ゆらぐ。


 チェリーのコーヒーは、今日も不味かった。

 宮本は、砂糖に手を伸ばさない。


 ――第7話 終


   第1章 完

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