第6章 予定を決める手
黒川が入院してから、月が二つ進んだ。
廊下の掲示板に貼られた月間予定表の紙が、新しいものに変わっている。
病棟の窓から見える木々は、色を変えはじめている。
季節は動いているが、黒川の身体は急には変わらない。
足は動かない。感覚も戻らない。
それでも、日々は積み重なっている。
午前の回診後、黒川は診察室に呼ばれた。
窓のブラインドが半分下りた部屋で、
高瀬医師はカルテを開いたまま顔を上げる。
「リハビリは順調と報告を受けています」
黒川は小さく頷く。
「食事摂取量も安定していますし、体重も維持できています」
カルテのページが一枚めくられる。
「感染兆候もありませんね」
短い間。
「そろそろ、退院の時期を検討しましょうか」
室内は静かだった。
順調、安定、検討。
どれも悪い言葉ではない。
だが黒川の中で、その言葉は少し違う重さを持った。
「……分かりました」
それしか言えなかった。
「では、日程はまた相談しましょう」
高瀬医師は穏やかに告げて、カルテを閉じた。
その日の夕方、病室のドアを軽くノックする音がした。
医療ソーシャルワーカーの安西だった。
腕には厚みのあるクリアファイルを抱えている。
ベッド脇のテーブルに、資料が静かに並べられる。
青焼きの図面。
制度の説明書。
申請書類。
由美が椅子を引き寄せ、黒川の横に座った。
「退院後の生活について、具体的にお話ししましょう」
安西の声は柔らかい。
だが、言葉は一つひとつ現実を指している。
「ご自宅の玄関に段差がありますね。ここはスロープの設置を検討します」
「トイレの幅が少し狭いので、手すりの位置を変更したほうがいいかもしれません」
「廊下の幅も確認しましょう」
青焼きの図面の上で、自分の家がただの線と数字になる。
廊下の幅を示す数値。
スロープの勾配。
手すりの高さ。
十数年住んだ我が家が、
今は通行可能な寸法の集合に見える。
そこに、立っている自分の姿は描かれていない。
「介護保険の申請は進めておきます」
「身体障害者手帳の等級も、退院前に手続きしておきましょう」
項目が増える。
生活が、制度の枠に収まっていく。
由美は真剣に聞いている。
必要なことを確認し、メモを取る。
「ご不安な点はありますか?」
安西が、黒川の目を見て言う。
黒川は少し間を置いた。
「……いえ」
不安はある。
だが、それを言葉にしても、図面は変わらない。
数日後。
作業療法室の窓際の机の上に、古いノートパソコンが数台置かれている。
塗装の剥げた天板に、細かな傷が残っている。
黒川は、車いすのままその前にいた。
右手はキーボードの上。
指はまっすぐ伸びない。
曲がったまま、わずかに浮いている。
画面には、途中まで打ちかけの文章が表示されている。
退院後の生活についてのメモ。
箇条書きが、いくつか並んでいる。
・玄関スロープ
・手すり設置
・通院手段
黒川は、人差し指を少しだけ持ち上げようとした。
他の指も一緒に動く。
手首を内側に反らせる。
指先がキーの縁に触れる。
狙った文字ではない音が鳴る。
一文字、消す。
また一文字、押す。
時間がかかる。
市役所で使っていたものとは違う。
それでも、ブラインドタッチの指の配置は、記憶している。
だが、指先を下ろそうとするたびにキーの反発が、
かつてより何倍も重く感じられた。
「……追いつきませんね」
言葉が、点滅するカーソルの速さに置いていかれる。
宮本は、少し後ろに立っている。
手は出さない。
画面と、黒川の手指の動きを見ている。
「前は、もっと速かったです」
キーを押そうとして、指が隣に滑る。
打ち直す。
肩に力が入る。
息が浅くなる。
「……できないことばかりだ」
宮本は、視線を上げないまま言った。
「そうですね」
黒川は、苦笑ともつかない表情を浮かべる。
宮本の慰めを削ぎ落とした言葉が、
かえって黒川の呼吸を楽にした。
もう一度、キーに触れる。
今度は、狙った文字が出る。
文章が一行、伸びる。
「……でも」
指をキーボードから離さずに続ける。
「終わってないことも、ありますね」
宮本は答えなかった。
画面の中でカーソルが点滅している。
黒川は、次の文字を探す。
やがて肩が落ち、指が止まる。
「今日は、ここまでにしましょう」
黒川は、頷いた。
リハビリが終わり、黒川は廊下に出た。
今では、自分で車いすを操作して移動できる。
最初はまっすぐ進むだけで精一杯だった。
今は角を曲がるときの力加減も分かるようになった。
リハビリテーション室の前で、由美が待っていた。
目が合う。
小さく頷き、黒川の横に並ぶ。
「喉、渇いてない?」
自動販売機で買ったお茶を見せ、廊下のベンチに腰を下ろす。
黒川も横に止まり、車いすのブレーキをかけた。
「ああ、今日も疲れたよ」
由美はペットボトルのふたを開け、
掴みやすい向きで渡す。
黒川の手に、ペットボトルの温かさが伝わる。
手首はうまく回らないが、
ゆっくり口元へ運ぶ。
飲み込むたび、喉がわずかに震える。
「今日は、どうだった?」
由美は問いながら、黒川の顔を見ている。
表情の揺れを探すように。
「パソコンは時間がかかるけど、なんとかやってる」
黒川は、自分の手を一度だけ見る。
曲がったままの指が、キャップの縁に触れている。
「無理はしないでね」
その言葉に、黒川は目を上げた。
以前のような強い励ましはない。
由美は、言い方を選ぶようにしている。
黒川の決断を奪わないように。
「ありがとう」
黒川の言葉は小さかったが、はっきりした声だった。
由美は「うん」とだけ答える。
それ以上は言葉を重ねない。
沈黙は重くない。
二人とも、それに慣れはじめている。
病室に戻る途中、黒川は言った。
「退院したらさ……」
言葉を探すように、少し間が空く。
「免許センター、行ってみようと思う」
由美は、すぐには返事をしなかった。
静かに黒川の顔を見る。
そこに無理はないか。
焦りはないか。
誰かの期待ではないか。
「今すぐじゃないけど」
「行けるかどうか、分からないし」
黒川の表情は、以前より静かだった。
決意というより、確認の延長。
由美は、ゆっくり息を吐く。
「……うん」
それだけ。
少しして、付け足す。
「一緒にいこう」
黒川は、膝の上に置いた手を見る。
指は思い通りに動かない。
それでも、
さっきキーボードを押した感触が残っている。
黒川の予定が、ひとつ増えた。
未来が決まったわけではない。
ただ、予定がひとつ、増えただけだった。
翌日の作業療法室。
黒川は、いつもの机に向かっている。
キーボードの上に右手を置く。
指は変わらず、曲がったままだ。
一文字、押す。
少し遅れて表示される。
黒川は、キーボードの上から手を外す。
その手を見ながら言った。
「昨日、妻に免許センターの話をしました」
宮本は、いつもの位置に立っている。
「そうですか」
「まだ、できるか分かりません」
少し間を置く。
「でも、自分の手で決めました」
室内は静かだ。
キーボードのわずかな反発音だけが響く。
宮本は、無言で黒川の手を見る。
腱の張り。
指の角度。
前腕の位置。
昨日と同じで、昨日とは違う。
決める前の手と、決めたあとの手。
「決めたのですね」
それだけ言う。
評価もしない。
保証もしない。
黒川は、小さく息を吐く。
もう一度キーボードに触れる。
キーを押す音が、静かな室内に響く。
画面に、ゆっくりと文字が増えていく。
宮本は何も足さない。
その手が、次に何を決めるのかを、
急がせなかった。
――第6話 終




