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語らない仕事 ―人がもう一度、立つ場所を探す仕事―  作者: 比良野 瞬
第1章 つかめない手

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第5話 役割の手前

 黒川のリハビリが本格的に始まってから、数週間が過ぎていた。

 劇的な変化はない。

 足は動かない。感覚も戻らない。

 それでも、できることは増えていた。


 食事は万能カフを使えば時間はかかるが、最後まで口に運べるようになった。

 スプーンが口元まで届くたび、肘の角度を意識する。

 汁物はまだこぼれる。

 だが、最後の一口を自分で口に入れたとき、

 誰にも気づかれないほど小さく肩の力が抜ける。


 食後、トレイが下げられてしばらくしてから、

 看護師の相馬が部屋をのぞいた。

 相馬はいつもと同じように、声を大きくしない。


「お疲れさまでした。食事、今日は進みましたね」


 黒川は返事の代わりに、まぶたを一度だけ閉じた。

 相馬はベッドの横でタブレットを操作する。

 画面に数字が並び、記録が淡々と増えていく。

 摂取量。睡眠。排泄。体温。

 生活という言葉に置き換えれば一行で済むものが、ここでは項目になって並ぶ。


「最近、安定してきてます」


 相馬は独り言のように言った。

 黒川は、その言葉の意味がどこに落ちるのか分からないまま、天井を見た。

 安定。

 それが嬉しいのか、怖いのかも、まだ決められない。


 着替えは、袖を通すところまでは自分でできる。

 布が指先に引っかかる感覚を探しながら、腕を通す。

 ボタンはまだ難しい。

 けれど、「途中まで」できるという事実は、思っていたよりも重かった。


 できることが増えるたび、できないことの輪郭もはっきりする。

 はっきりするだけ、逃げ場がない。


 車いすへの移乗も、ときどきは見守りだけで済む。

 身体を前に倒す角度、肘の位置、手の置き場。

 一つひとつを確認しながら動く。


 理学療法士の藤原が横で見ているときは、特に何も言われない。

 言われないことが、かえって緊張を生む。

 失敗すれば、自分が自分の身体に裏切られる音がするからだ。


 リハビリテーション室で、藤原はプラットホームの端に立っていた。

 黒川は上体を起こし、両肘で身体を支え、ゆっくりと体幹を前へ倒す。

 肩が持っていかれそうになる。

 呼吸が浅くなり、口の中が乾く。

 それでも、肘を置き直し、もう一度、前へ倒す。


「今日は止まらないですね」


 藤原が言った。

 声は評価のものだったが、刺すような冷たさはなかった。

 黒川は答えない。

 答える余裕がないのではなく、答える言葉が見つからない。

 ただ、もう一度肘をつき、身体を前へ持っていった。

 藤原は、その動きの途中で止まらなくなったことを見ていた。

 意欲、という言葉に置き換えれば簡単だが、実際はもっと生々しい。

 止まらないのは、止まりたくないというより、止まったら戻れない気がするからだった。


 できないことは、はっきりしている。

 足は動かない。

 感覚も戻らない。


 手は、残っている。

 だが、思い通りではない。



 ある日の作業療法の時間。

 黒川はテーブルの上のペグを動かしていた。

 指先でつまむ。

 落とす。

 拾う。

 また落とす。


 単純な動作が、単純ではない。

 ペグは軽い。

 だが、軽いものほど逃げる。

 指が言うことをきかない瞬間、ペグは床へ落ちて、視界の外へ転がる。

 拾う動作が増えるたび、胸の奥に小さな疲労が積もる。


 ふいに、黒川は口を開いた。


「……私は」


 ペグをつまんだまま、手が止まる。

 その問いは、手のことではなかった。


「職場に戻れますか」


 宮本は、すぐには答えなかった。

 ペグの位置を変えるでもなく、姿勢を直すでもなく、ただ黒川を見ている。

 視線は顔ではなく、止まった手元に落ちている。


「市役所では、どんなことを?」


 黒川は少し間を置いて言う。


「一般行政職で……事務が中心でした」


 視線が机の上に落ちる。


「パソコンが多いです。書類も……窓口も、あります」


 言葉が途切れる。

 窓口、と言った瞬間、頭の片隅に以前の自分が立つ。

 市民の顔。

 クレーム。

 手続き。

 印鑑。

 自分の手が、迷いなく動いていた時間。


「通勤は、車でした」


 宮本は、頷かない。


「車が前提ですか」

「……はい。家が郊外で、車がないと通えないです」


 その事実は、ずっと前から分かっていた。

 だが、口に出したのは初めてだった。

 戻れるかどうかの前に、戻るという言葉が、車という形を持ってしまう。

 それは、仕事というより、役割の話だった。

 黒川はペグを置き、掌を見た。

 戻る道の入口は、ここにあるはずだった。



 その週末、由美が子どもを連れてきた。

 長女の綾音は、病室に入るとすぐに自分の話を始める。

 幼稚園で何を描いたか、誰と遊んだか、先生に褒められたか。

 言葉は途切れず、笑い声が小さな部屋を埋める。


 黒川は黙って聞いていた。

 だが、ある瞬間、思いがけず口が動いた。


「孝弘は?」


 由美が一瞬、顔を上げる。

 黒川のほうを見る。

 それは責める目ではなく、確かめる目だった。

 黒川が家のことを聞いてきたのが久しぶりだったからだ。


「今日は塾。来週なら来られるって」

「……そうか」


 黒川はそれだけ言い、綾音の髪を見た。

 触れたい、と思ったが、手は思い通りにならない。

 それでも、由美の言葉の端にいる家族の気配が、少しだけ現実になる。

 由美もまた、言葉を選んでいるのが分かった。

 以前のように「頑張って」と言わない。

 言えば黒川が硬くなることを、由美ももう知っている。



 次の日。

 黒川は自動車運転シミュレーターの前にいた。

 ハンドルの横には、手動操作用のレバーが取り付けられている。

 アクセルとブレーキは、左手で操作する。

 宮本がシミュレーターの設定を終え、短く言う。


「はじめましょう」


 黒川は、息をのんでハンドルに手を置く。

 宮本が右手を固定する。

 左手をレバーに伸ばす。

 指先が震えている。


 画面の中で、車がゆっくりと動き出す。

 レバーを引く。

 強すぎる。

 速度が上がる。

 戻そうとする。

 ハンドルが遅れる。

 車体が白線に寄る。

 黒川は手を止め、大きく息を吐いた。


「……難しいですね」


 できない、と言い切ってしまうほうが楽だった。

 だが、口から出たのはその言葉ではなかった。

 難しい。

 それは、できないとも、できるとも言っていない。

 ただ、まだ整っていない、というだけの言葉だ。


 もう一度、レバーに手を伸ばす。

 今度は弱すぎる。


 交差点の手前で、動きが止まる。

 腕に、じわじわと疲労がたまる。

 肩が重い。

 肘の内側が熱を持つように痛む。


「腕が、疲れます」


 宮本は、少し後ろに立ったまま言う。


「無理に続けなくていいです」


 黒川は、首を振る。


「……もう少し」


 ハンドルを回す。

 レバーを引く。

 戻す。

 カーブでふくらみ、直線で寄る。

 安定しない。

 だが、さっきよりは分かる。

 どこで遅れるのか。

 どこで力が入りすぎるのか。

 どの角度で腕が疲れるのか。


 数回試したあと、黒川はぽつりと言った。


「全部、無理ではないですね」


 その声は、少しだけ他人のように聞こえた。

 宮本は何も言わない。

 ただ、黒川の肩の動きと、肘の位置を見ている。

 できる・できないより前に、身体がどこで詰まるかを見ている目だった。


 数日おいて、もう一度試す。


 今度は、最初より早く腕が疲れる。

 だが、どこで疲れるかは分かる。

 ハンドルを戻すタイミングも、遅れ方も分かる。

 黒川は画面を見つめながら言った。


「できるかどうか、じゃないですね」


 宮本は短く答える。


「今は、確認しているところです」


 確認。

 何を。

 黒川は、しばらく画面を見つめた。


 信号が赤に変わる。

 足は、動かない。

 手は、震えている。

 それでも、車は止まっている。

 画面の中で、信号が青に変わる。


 黒川は、それを見ていた。


 ——第5話 終


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