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語らない仕事 ―人がもう一度、立つ場所を探す仕事―  作者: 比良野 瞬
第1章 つかめない手

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第4話 動きだした手

 数日が過ぎていた。


 黒川は、以前より起きている時間がわずかに長くなっていた。

 劇的な変化ではない。

 疲れやすさも夜の浅い眠りも、相変わらず続いている。

 それでも、リハビリを休むことはなくなっていた。

 理由を聞かれても、答えられない。

 行くと決めたわけでもない。

 ただ、断らなかった。


 午前のリハビリの時間。

 黒川は車いすで、作業療法室のテーブルの前にいた。

 その小さなテーブルには、滑りにくいマットが敷いてある。

 その上に、木製の軽い箱がひとつ置かれている。

 蓋はなく、空箱だ。

 意識することもなく、指先で弾き飛ばせたはずのものだ。

 それが今は、動かないものとしてそこにあった。


 宮本は、黒川の斜め後ろに立っていた。

 近すぎず、けれど黒川がバランスを崩せば即座に支えられる絶妙な距離。


 宮本は顎に触れたまま、目だけを動かした。

 黒川の顔を見ていない。

 見ているのは、黒川の肩甲骨の微妙な浮き上がりと、

 前腕の筋の緊張だ。

 宮本は何も言わない。

 それが、この時間のやり方だった。


 黒川は、箱を見る。

 数日前、同じ箱を前にして、ほとんど動かせなかった。

 角に指が触れただけで終わった。

 それでも、箱は確かに動いたのだと、

 宮本は言わなかったが、否定もしなかった。


 黒川は、前腕をゆっくり持ち上げる。

 肩は上がる。

 肘も伸びる。

 だが、指先がまとまらない。

 ひとつの意思に従ってくれない。

 箱まで、あと数センチ。

 空気の壁に突き当たったかのように、腕が震え止まる。


 胸の奥がざらつく。

 動かない指に力が入る。

 指先が白くなる。

 箱に触れる前に、疲れが先に来る。


 黒川は一度、腕を下ろした。

 息を整える。

 呼吸が浅い。

 肩に余計な力が入っている。


 宮本は視線を落とし、わずかに目を細めた。

 彼は無言でテーブルの端に指をかけ、音を立てずに数ミリだけ高さを下げた。

 ほんの数ミリ。

 それだけで、腕の行き先が変わった。

 さっきまで届かなかった角が、急に近くなる。

 黒川は、もう一度手を伸ばせる気がした。


 黒川はもう一度、腕を上げる。

 今度は、箱の縁に指先が触れた。

 触れた、というより、引っかかった。

 そのまま前腕をわずかに押し出す。

 ズ、と短い音がした。

 箱の底がマットと擦れる、乾いた音。

 その振動が、指の奥に残った。

 音より先に、感覚が届いた。

 偶然ではない。

 自分の指が、確かに何かを動かした音だった。


 黒川は、箱を見つめる。

 さっきよりも、ほんの少し位置がずれている。


「……」


 言葉は出ない。

 もう一度、手を伸ばす。

 今度は、意識して箱の側面を押す。

 指はうまく揃わない。

 手のひら全体で押す形になる。

 箱が、ゆっくりと、数センチ動いた。

 止まる。


 黒川は、箱を見たまま動かない。

 自分が動かしたのか。

 たまたま滑ったのか。

 はっきりしない。


 宮本は何も言わない。

 その沈黙の中で、黒川はふと気づく。

 自分は、動かしたいと思っている。

 動けばいい、ではない。

 戻ればいい、でもない。

 ただ――目の前の箱を動かしたい。

 その単純な欲求が、胸の奥に小さく灯る。


 黒川は、もう一度押した。

 箱は、さらに少しだけ動いた。

 擦れる音が、はっきりと聞こえる。

 それは偶然ではなかった。

 自分の力だ。


 その瞬間、腕に強い疲労が走る。

 前腕を膝の上に戻し、大きく息を吐いた。


「……ふぅ」


 呼吸が荒い。

 額に汗が滲む。

 それでも、さっきまでの何もできない感じとは違う。

 動いた。

 戻ったわけではない。

 巧みに掴めたわけでもない。

 押しただけだ。

 だが、押せた。

 宮本は、静かに言う。


「今日は、ここまでにしましょう」


 黒川は、頷く。

 箱は、テーブルの中央から、端へと移動していた。

 わずかな距離。

 だが、そこには確かな時間がかかっている。

 その数センチは、偶然ではない。


 どこまで動いて、どこで止まるのか。

 その境界が、少しだけ見えた。

 そして、「できない」と決めていたその数センチが、ほんのわずか縮んだ。


 作業療法室を出ても、黒川はすぐに病室へ戻らなかった。

 車いすのまま、窓の前に止まる。


 窓の外には、昨日と同じ厚い曇り空が広がっている。

 景色は変わらない。

 けれど、箱の位置は変わった。

 その数センチが、消えずに残っている。


 膝の上に置いた手を、ゆっくりと開く。

 さっきの感触を確かめるように、指を動かす。


 うまくは動かない。


 だが、さっき押したときの、

 箱の木のざらつきと、擦れる音が、まだ指の奥に残っていた。


 ――動いた。

 小さな事実が、胸の奥で静かに揺れる。

「終わり」という言葉が、少しだけ届きにくくなる。


 宮本は少し離れたところで、それを見ていた。



 病室に戻ると、由美が椅子に座っていた。


 以前のように、すぐには声をかけてこない。

 黒川の様子を、ただ見ている。

 由美は、自分の言葉が黒川を硬くすることに気づいていた。

「頑張って」と言えば、視線が落ちる。

「できるよ」と言えば、肩が強張る。

 だから今日は、待つ。


 黒川は、車いすのまま窓を向く。

 そして、膝の上の手をゆっくりと動かす。


 指先はぎこちない。

 それでも、さっきと同じように、

 何かを押す形をつくろうとしている。


 由美は、黒川の背中越しにその手元をじっと見つめていた。

 かつて市役所の窓口で鮮やかに書類をさばき、

 幼い我が子を軽々と抱き上げていた、あの大きく逞しい手ではない。

 今のその手は、震え、縮こまり、戦っている。

 痛々しいはずのその動きが、

 今の由美には、その手が必死に踏みとどまっているように見えた。


「どうだった?」


 問いかけは、短い。

 黒川は少し考えた。

 大きな成果ではない。

 できるようになった、と言えるものでもない。


 それでも。


「……箱を、動かせた」


 小さな声だった。

 由美は、一瞬だけ目を見開き、

 それからゆっくりと頷いた。

 胸の奥で、何かがほどける。


「そう」


 それ以上は言わない。

「頑張ったね」も、「すごいね」も、言わない。

 ただ、黒川の手を見る。


 黒川は、もう一度だけ指を動かす。

 箱はここにはない。

 それでも、押す形をつくる。


 うまくいかない。

 だが、止めない。

 由美は初めて、元に戻るという未来ではなく、

 ここから動くという時間を想像した。


 それはまだ曖昧だ。

 だが、ゼロではない。


 しばらくして、由美は花瓶の水を交換するために部屋を出た。

 廊下の奥で、白いケーシーが見える。

 宮本がこちらに歩いてきていた。


「宮本先生」


 宮本は軽く会釈する。


「今日の様子は……」


 由美の問いは、以前よりも静かだった。

 宮本は少し考えてから言う。


「できることと、できないことが、少しはっきりしてきました」

「……できることですか?」


 由美の声には、まだ不安が混ざっている。


「ええ」


 宮本は続ける。


「整理できれば、生活は動きます」


 由美は、その言葉を受け止めきれずただ頷く。


「整理……ですか」


 思わず、口に出る。

 宮本は少しだけ視線を上げる。


「一緒に、確認してみてください」


 宮本は、短い言葉を残して歩きだす。

 由美は、その背中を見送った。


 由美が病室に戻ると、黒川はまだ窓の外を見ていた。

 曇り空は変わらない。


 膝の上の手は、さっきよりも少しだけ力が抜け、

 指の間がかすかに開いていた。

 そこに箱はない。

 けれど、黒川は空を押し続けた。

 木のざらつきが、まだ指の奥に残っている。

 止まっていなかった。


 黒川は、もう一度、指をゆっくりと動かした。

 思う形にはならない。


 それでも、指は動く。


 ――第4話 終


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