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語らない仕事 ―人がもう一度、立つ場所を探す仕事―  作者: 比良野 瞬
第1章 つかめない手

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第3話 触れる手

 カンファレンスがあった次の日。


 午後の病棟は、午前中の慌ただしさを失っていた。

 点滴台の車輪が廊下を転がる音も、遠くで鳴るナースコールも、

 どこか膜を隔てた向こう側の出来事のように聞こえる。


 黒川は、自室のベッドに横になっていた。

 カーテンは半分だけ閉じられている。

 曇り空の光が、白く天井ににじんでいる。

 時計の針が、ひとつ進む。

 身体が重い。

 熱があるわけではない。

 痛みも、強くはない。

 ただ、起き上がる理由が見つからない。


 控えめなノックの音がした。


「黒川さん」


 カーテンの隙間が揺れて、看護師の相馬がいた。


「そろそろリハビリの時間です」


 黒川は、返事をしなかった。

 天井を見たまま、小さなため息をする。

 相馬がベッドの脇に近づく。


「体調、よくないですか?」


 少し間を置いて、黒川は言った。


「……あまり、よくないです」


 嘘ではない。

 どこが悪いのか、言葉にできない。


「少し、横になっていたいです」


 声は平坦だった。

 相馬は数秒、黒川の顔を見た。

 責める視線ではない。

 確認するような、静かな視線。


「わかりました。リハビリの先生には伝えておきますね」


 記録用のタブレットに何かを入力し、相馬は部屋を出た。

 ドアが閉まる音が、やけに大きく感じられる。


 黒川は、息を吐いて目を閉じる。

 眠れない。

 胸の奥に、薄い鉛の板が置かれているようだった。

 足の存在は感じない。

 触れてもいないのに、ないことだけがわかる。


 両手を、腹の上に置く。

 動く。

 肩も、肘も、上がる。

 だが、指先が言うことをきかない。

 手を握ろうとする。

 握れているのか、わからない。

 力だけが入り、爪が掌に沈む。

 気づいて、力を抜く。

 それすら、少し時間がかかる。


 天井を見ていると、時間が溶ける。

 戻らなければならない場所がある、と思う。

 市役所の机。

 未処理の書類。

 同僚たちの顔。

 だが、その映像はすぐに霞む。


 考えようとすると、頭の奥がざらつく。

 そこで、止める。

 また時計の針が進む。


 再びノックの音がした。

 今度は、少し強い音だ。


「遅くなってごめんね」


 少し息を切らせた由美だった。

 コートを脱ぎながら、黒川の顔を見る。


「リハビリ、休んだって聞いたよ」


 声は穏やかに整っている。

 けれど、息が少し速い。

 黒川は、視線を逸らす。


「体調、悪いの?」

「……別に」


 由美は、ベッドの横に立つ。


「先生たち、ちゃんとやればって言ってたじゃない」


 黒川は答えない。


「このままだと、退院も延びちゃうよ」


 その言葉に、胸の奥がわずかに反応する。

 退院。

 帰る。

 家。

 だが、その先の映像が浮かばない。


「……できない」


 口からやっと絞りだした言葉だった。

 乾いた唇が、わずかに震える。

 由美は黒川から発せられた否定的な言葉に一瞬固まる。

 数秒、沈黙が落ちる。

 ベッド脇の加湿器が、小さく息を吐く。


「でも……」


 由美が顔を伏せながら口を開く。


「やらなきゃ、何も変わらないよ」


 強く言ったつもりはない。

 だが、その言葉は鋭く聞こえた。


「先生たちも言ってたでしょう。手は使えるって。動くって」


 黒川は、両手に視線を落としたまま動かない。

 動きはする。

 だが、動いているのに届かない。

 胸の奥から、今まで塞いでいた言葉が溢れだす。


「……使えないんだ」


 ほとんど聞こえない声だった。


「どうせ、元に戻らない」


 由美の表情が固まる。


「そ、そんなこと言わないで」


 黒川は答えない。

 呼吸が浅くなる。

 胸の奥が詰まる。

 言葉を出そうとすると、喉が焼ける。

 何を言えばいいのか分からない。

 頑張る、と言えばいいのか。

 大丈夫、と言えばいいのか。

 どちらも、今は嘘になる。


 由美が一歩近づく。


「私だって、怖いんだよ」


 由美は、声を震わせて続ける。


「私たち、このままどうなるのか、わからないんだよ」


 黒川は視線を逸らす。

 怖いのは、自分も同じだ。

 だが、それを口に出すことはできない。

 由美は、更に続ける。


「でも、だからって止まっちゃだめでしょう?」


 黒川は、ゆっくりと瞬きをする。

 視界が滲む。

 天井の光が、にじんで揺れる。

 胸の奥の鉛が、さらに沈む。


 そして。

 気づくより先に、頬を伝った。

 自分でも、気づいていなかった。

 由美の言葉が止まる。


「……え?」


 黒川は、目を閉じる。

 声を出そうとしたが、出ない。

 涙は、静かに続いた。

 嗚咽はない。

 音もない。

 ただ、頬を伝う。

 由美は、何か言おうと口を開いた。


「……」


 声が出ない。

 手を伸ばしかけて、止める。

 どう触れればいいのか、分からない。

 二人の間に重い沈黙が続く。


 そのとき、廊下の足音が部屋の前で止まる。

 そして、控えめなノックが部屋に響く。

 二人とも、反射的に顔を上げる。


「失礼します」


 感情を落とした低い声。

 白いケーシーの男が、病室に入ってくる。

 無精ひげの作業療法士の宮本だった。


 宮本は、部屋の空気を一瞬だけ見た。

 顔を伏せたままの由美。

 天井を見つめる黒川の顔の涙の跡。

 状況を察したようだが、何も問わない。


 宮本は椅子を引き、黒川の高さに合わせて腰を下ろした。


「少し、今よろしいですか。午後の作業療法をお休みと聞きましたので、様子を見にきました」


 黒川は目を閉じて、わずかにうなずく。

 由美が慌てて言葉を足す。


「少し、疲れているみたいで……」


 宮本は由美に小さく頷く。


「体調が、優れませんか」

「……わからないです」


 宮本は視線を変えずに続ける。


「いま、一番困っているのはどこですか」


 黒川は、答えられない。

 足。

 手。

 仕事。

 家族。

 どれも本当で、どれも違う。


「……何も」


 ようやく出せた声は小さい。


「何も、できない感じがします」


 宮本はすぐには答えない。

 励まさないし、責めもしない。

 宮本は椅子から立ち、ベッドの横に立つ。

 視線は、黒川の手へ落ちる。

 涙の名残が乾ききらない頬。

 だが、宮本は顔を見ない。


「今日は、無理に訓練はしなくていいです」


 由美が顔を上げる。


「え……?」

「確認だけ、させてください」


 黒川の右手に、そっと触れる。


「触れてもいいですか」


 黒川は、わずかにうなずいた。

 宮本の手が、黒川の右手を支える。

 温度が伝わる。

 黒川は、わずかに肩をこわばらせる。


「力、入っていますね」


 宮本は静かに言う。

 黒川の指先は、強く屈曲している。

 宮本は、一本ずつ指を丁寧に開いていく。

 無理に引き剥がさない。

 時間をかける。


「痛みはありますか」

「……ありません」


 感覚は曖昧だ。

 宮本は頷き、今度は手首から肘の関節を動かしていく。

 関節の可動域の終わりを確認する。


「ここまでは動きます」


 声は淡々としている。

 宮本は右手を支えたまま人差し指を持つ。


「では、この人差し指を伸ばしてみてください」


 宮本の触れている場所に意識が向く。

 黒川の指は滑らかではないが動いた。


「動いた感じはわかりますね」

「……ええ」


 宮本は指を一本ずつ動かせるか、わかるかを確認していく。

 動かせる範囲と、動かせない範囲。

 言葉にしながら、境界線を引いていく。


 黒川は、支えられた自分の手を改めて見てみる。


 思うように動かない、と思っていた。

 宮本の指が離れたあとも感覚が残っている。

 指の動きや手の重さが自分のものとして落ちる。

 自分の手だと意識した瞬間、動かない場所も自分のものになった。

 逃げ場が消える。


 宮本は、手をベッドの上に戻す。

 黒川の呼吸が、少し整う。


 黒川の手を、もう一度見る。

 指の震え。

 握りしめる力。

 離せない力。


「この手、どう感じますか」


 宮本は黒川の目を見て言った。

 黒川は自分の手を見ながら逡巡する。


「……戻らないと」


 黒川は一度、息を吸う。


「終わりだと、思ってました」


 由美が小さく息をのむ。

 宮本は、視線を外さない。

 数秒の沈黙のあと、静かに言った。


「終わっていないところが、残っています」


 何が残っているのか、どこが終わっていないのか。

 宮本は説明しなかったが、黒川はその言葉を追わなかった。

 意味を探ろうとすると、頭が重くなる。

 だが、「終わり」という言葉だけが、胸の奥で少し揺れる。

 部屋は静かだ。

 外で誰かの足音が通り過ぎる。


「今日はここまでにしましょう」


 宮本が黒川と由美に会釈をする。

 由美が、遅れて頭を下げた。

 黒川は挨拶をすることができなかった。


 宮本が去った後。


「終わっていない」


 黒川はその言葉を、口の中でそっと転がす。

 本当に終わっていないのか。

 答えは出ない。


 黒川は窓の外を見た。

 曇り空は、変わらなかった。


 だが、自分の手はそこにあった。


 ――第3話 終


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