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語らない仕事 ―人がもう一度、立つ場所を探す仕事―  作者: 比良野 瞬
第1章 つかめない手

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第2話 代弁される手

 会議室は、黒川が想像していたよりも狭かった。


 長机がひとつ、逃げ場のない形で置かれている。

 壁際にパイプ椅子が並び、窓は小さい。

 ブラインド越しの光が、机の中央に細く落ちている。


「失礼します」


 相馬の声で、視線が一斉にこちらへ向く。


 車いすの黒川は、机の端に案内された。

 由美がその隣に座る。

 座る位置が決まると、逃げ場も決まった。


 正面には主治医の高瀬医師。

 五十代半ば。

 白衣の襟元から、青いシャツがのぞいている。

 白髪混じりの短髪に、細い金属縁の眼鏡。

 資料を整える仕草が几帳面だ。


 その右に、理学療法士の藤原。

 二十代後半。

 姿勢が伸び、腕を軽く組んでいる。

 白いケーシーを着たスポーツマンに見える。

 黒川を見る鋭い目に、値踏みされている感覚だけが残る。


 さらに横に、紺色のジャケット姿の穏やかそうな女性。

 医療ソーシャルワーカーの安西。

 制度資料のファイルが、膝の上で整然と閉じられている。


 壁際には、違和感を感じる白いケーシーの男がいた。

 無精ひげが残り、髪はあまり整えられていない。

 作業療法士の宮本だった。

 資料は開いていない。

 黒川の手元を、ただ見ている。


「では始めましょう」


 高瀬が口を開く。


「黒川さんは受傷から三か月が経過しました。損傷高位は頚髄第七レベル以下です」


 声は穏やかだが、内容は動かない。


「現時点で下肢の随意運動は確認できていません。胸部以下の感覚も、回復の可能性は低いと判断しています」


 言葉が静かに積み上がる。

 由美の指が、膝の上で強く組まれる。


「上肢はある程度保たれています。ただし手内在筋の機能は失われています。巧緻動作の回復は見込めません」


 回復は見込めない。

 黒川は、自分の両手を見る。

 見込めない。

 意味は分かる。

 だが、身体のどこにも落ちてこない。


 藤原が資料をめくる。


「車いす操作、移乗動作は概ね自立レベルです。ただ、訓練への参加状況にばらつきがあります」


 ページをめくる音が小さく響く。


「集中が続かない場面があり、意欲の低下がみられます。このまま在宅へ移行するのは、正直、厳しい印象です」


 言い切った。

 空気がわずかに張る。

 相馬が記録から目を上げて、静かに補足する。


「食事摂取量も安定していません。日によって半量に届かないこともあります。睡眠も浅いようです」


 黒川の耳が、その言葉を拾う。


 意欲の低下がみられる。

 食事摂取量が安定していない。

 睡眠が浅い。

 誰の話だろうと一瞬思う。


 安西がファイルを開き、項目を指でなぞる。


「退院後の生活についてですが、ご自宅は二階建てでしたね。住宅改修と福祉用具の導入で、環境面は整えられます。経済面も、傷病手当や障害年金の申請を進めれば対応可能かと」


 環境は整えられる。

 制度はある。

 車いすのまま家に帰ることが、現実なのかわからない。


 高瀬が頷く。


「医学的には、環境が整えば退院は可能です」


 藤原が視線を上げる。


「ただし、現状の訓練状況では在宅生活が安定するとは言い切れません」


 医師と理学療法士の間に、目に見えない温度差が生まれる。

 由美が口を開く。


「ちゃんとリハビリを続ければ、できることは増えるんですよね?」


 確認するような声だった。

 高瀬は頷く。


「できることは増えます。ただ、歩けるようになることはありません」


 はっきりと言った。

 由美の表情がわずかに揺れる。

 会議室の空気が、少し重くなる。

 藤原が続ける。


「現段階での退院は、正直なところ早いと感じています。生活動作の安定と、意欲の回復が必要です」


 由美の背筋がわずかに強張る。


「でも、もう三か月です。子どももいますし……」

「このまま入院が続くと、生活が回らなくなります」


 由美の言葉は丁寧だったが、切実さが滲んでいる。

 黒川はうつむいたまま、何も言わない。

 子ども。

 その言葉だけが、遠くで響いていた。


 安西が穏やかに応じる。


「生活設計は一緒に考えましょう。制度上は、退院後の支援も可能ですよ」


 藤原が小さく息を吐く。


「生活は制度だけでは回りません。日々の動作が安定していることが前提です」


 相馬も慎重に言葉を重ねる。


「今は、食事もあまり摂れていませんし、疲労が強く感じる日が多いです」


 その場の空気が重くなる。

 自然と参加者の視線は黒川に向いた。

 黒川は、視線に耐えられずに下を向いた。


 誰も「いつ」と言わないまま、話だけが進んでいく。


 そのとき、藤原はまだ発言していない作業療法士に目を向けた。

 宮本は、黒川の手元を見ているだけだった。

 この作業療法士は寡黙で、何を考えているのかつかめない。

 正直、あまり好きではなかった。


「作業療法としては、どうですか」


 藤原が、宮本に意見を振る。

 このまとまらない場をどうにかしてみろという気持ちが見えた。

 宮本はすぐに答えない。

 黒川の指先が、わずかに白くなっている。

 爪が掌に食い込んでいる。


「手そのものは、変わりません」


 一拍おいて、静かな声。


「ただ、この手はまだ新しい使い方を知らない」


 宮本の言葉に、空気が止まる。

 その言葉で、黒川の肩に力が入る。

 黒川が、わずかに視線を上げる。

 一瞬だけ、宮本と目が合う。

 逃げない目だった。


「使い方は変えられます。ですが――」


 そこで言葉を区切る。


「何のために使うのかが定まらないまま退院すると、生活は止まります」


 誰もすぐには言葉を返せない。

 高瀬が小さく頷く。

 藤原も納得したような顔をした。

 反論は出なかった。

 机の上の資料だけが、静かに重なった。


 由美の視線だけが、宮本の顔に残った。


 資料が閉じられる。

 退院日の具体的な話題は、そこで止まった。


 結局、このカンファレンスでは、

 訓練参加状況の再評価。

 栄養状態の安定。

 住宅改修などを含めた生活の再設計。

 などが、確認事項として並んだ。

 予定欄は、空白のままだった。


 長くなった会議が終わった。

 椅子が引かれ、資料が揃えられる。


 黒川は、最後まで言葉を発しなかった。

 両手は、膝の上。

 力が入っているのか、抜けているのか、

 自分でも分からない。


 病室に戻るころには、午後の光が少し傾いていた。


 由美は「綾音を迎えに行ってくるね」と言い残し、いったん部屋を出た。

 黒川は、ベッドへ移乗せずに車いすのまま天井を見ている。

 身体は疲れで限界と感じるが、寝たいとも思えない。


 会議室の空気が、まだ身体にまとわりついている。

 足は動かないし、感覚は戻らない。

 残った手も、細かい動きは見込めない。


 自分に対する言葉は並んだ。

 その意味も分かる。

 だが、どれも自分のこととして落ちてこない。


 退院日の欄は、空白のままだった。

 それだけが事実だった。

 だが、その事実よりも、

 無精ひげの作業療法士の声だけが、なぜか胸奥に残っていた。


「この手は、まだ新しい使い方を知らない」


 使い方。

 何のために。

 どう生きるのか。

 そこから先を考えようとして、思考が止まる。


 膝の上に置かれた手を見る。

 指は、思う形にならない。


 小さな足音とともに、ノックの音がする。


「ただいま」


 由美が戻ってくる。

 その後ろから、幼い子どもの姿。


「パパ!」


 綾音だった。

 ピンク色のコートを脱ぎながら、まっすぐベッドへ駆け寄る。


「今日ね、幼稚園でね、うさぎ描いたの!」


 黒川の顔をのぞき込む。

 黒川は、少しだけ口角を上げる。

 可愛い、と思う。

 本当に、可愛い。

 抱き上げたい、と思う。

 だが、両腕は思うように上がらない。


 綾音はベッドの端にちょこんと座る。


「パパ、これ読んであげる」


 持ってきた絵本を開き、たどたどしく声に出す。

 ところどころ、言葉がつかえる。

 由美が優しく直す。

 黒川は、そのやりとりを見ている。

 自分は、そこに混ざれない。

 少しして、綾音は絵本に夢中になり、静かになる。


 由美が椅子に腰を下ろす。


「さっきのカンファレンスね」


 声を落とす。


「先生たち、ちゃんと考えてくれてるね」


 黒川は、何も言わない。


「リハビリ、もう少し頑張れば大丈夫だって。手もまだ使えるって言ってたよね」


 宮本の言葉とは、少し違う。

 だが、由美の中では同じ意味なのだろう。


「早く退院できるように、私もできることやるから」

「一緒に、頑張ろう」


 由美はまっすぐに言う。

 期待と、不安と、焦りが混ざっている。


 黒川は、うつむく。

 何かを言わなければならない気がする。


 由美を安心させる言葉を。

 父親らしい言葉を。

 夫としての言葉を。

 喉が乾く。

 声が出ない。

 ようやく絞りだしたのは、小さな一音だった。


「……うん」


 それだけ。

 由美は、ほっとしたように頷く。

 綾音が顔を上げる。


「パパ、聞いてる?」


 黒川は、もう一度うなずく。

 膝の上の手に、わずかに力が入る。


 使い方を知らない手。

 何のために使うのか、まだ決まらない手。

 それでも、

 そこにある。


 ――第2話 終


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