第1話 舞台袖
郊外の道は、昼を少し過ぎると急に静かになる。
駅へ抜ける幹線から一本外れれば、住宅はまばらで、そのあいだに畑が残っていた。
風が吹くたび、青い葉が低く揺れる。
そのなかに、ひときわ大きな日本家屋があった。
古い家だった。
けれど、古びてはいない。
黒く磨かれた柱、深い軒、白い壁。
門から玄関までの石畳も、庭の飛び石も、長い時間を経てなおきちんと手入れされている。
池には薄く光が落ち、庭木は枝の先まで整えられていた。
母屋の奥には、離れが見える。
小さくはない。
板張りの床を持つその建物は、ただの離れではなく、人が集まり、声を揃え、所作を重ねてきた場所だった。
その庭に、ひとりの女性が立っていた。
菊川よし恵、六十二歳。
髪は短く整えられ、毛先にわずかなウェーブが残っている。
薄く化粧をしていて、顔立ちにはまだ凛としたものがあった。
淡い色のシャツに、動きやすいズボン。
どちらもきちんと手入れされ、皺ひとつなく整っている。
右手には杖。
左手は胸の前で固く握られたまま、指は思うように開かない。
左腕は少し内側へ巻き込み、歩くたびに体幹がわずかに揺れる。
かつては庭の端から端まで苦もなく歩いていた。
弟子を迎えに出るのも、離れと母屋を行き来するのも、息を乱すことなどなかった。
いまは池のほとりまで来るだけで、息が少し上がっていた。
よし恵は、離れを見ていた。
半分ほど開いた障子の向こうから、音が漏れてくる。
足袋の擦れる音。
板の間を踏みしめる軽い音。
扇の開く乾いた音。
そして、聞きなれた女性の声。
「違うわ。そこは急がないで」
「先に見せるのは手じゃなくて、間です」
よし恵の顔が、ほんのわずかに強ばる。
その声は、もう毎日のように聞いていた。
退院してから、何度もこの庭に出た。
離れまで行こうとして、池の手前で止まった。
飛び石をあと二つ進めば着く。
障子に手をかけるだけでいい。
それだけなのに、一度もできなかった。
娘の英恵は何度も言った。
中に入って、座って見ているだけでいいと。
弟子たちも、先生が来てくださるだけで違うと笑った。
それでも、よし恵はそのたびに「もう少しよくなったら」と答えてきた。
断っているのは、離れへ入ることそのものではない。
まだ師範だった自分を見たことのある人たちの前へ、いまの身体で立つことだった。
離れの中から、また声がする。
「そこは見せすぎないで」
「全部やると、浅くなるから」
よし恵は目を閉じた。
その声を聞いていると、別の朝の気配が、庭の空気の奥から立ち上がってくる。
まだ、自分の身体が自分のものであったころの、離れだった。
朝の稽古場は、少しだけ冷えていた。
板張りの床は夜の気配を残していて、足袋の裏から薄いひんやりとした感触が伝わる。
障子を開ければ、庭の松の匂いと、拭き上げた床の木の匂いが混じった。
弟子たちはもう集まり始めている。
若い娘から、長く通う年配の女性まで、二十人ほどが声を落として並んでいた。
「おはようございます」
声が重なる。
よし恵は離れへ入ると、正面を見渡した。
「おはようございます」
それだけ返す。
大きな声ではない。
けれど、その一言で場の空気は揃う。
師範とは、そういうふうに立つものだと、よし恵は長い年月のうちに身体で覚えていた。
壁際には扇が並べられ、床の間の花は、今朝入れ替えたばかりのものだった。
派手な花より、細く伸びる季節の枝ものが好きだった。
「今日は『藤娘』のさわりをやります」
弟子たちの背筋が伸びる。
足袋の位置が揃う。
扇が一斉に持ち上がる。
「振りをなぞるんじゃないの」
「誰に見せるのか、先に決めなさい」
よし恵はそう言って、自分で一度、扇を開いた。
右手が扇の骨を滑らせ、左手が自然に添う。
首の角度、腰の置き方、視線の流れ。
それだけで、まだ何も始まっていない稽古場に、舞台の気配が生まれる。
弟子たちは息を詰めるように見ていた。
よし恵は見られていることを、ずっと知っていた。
踊るというより、見せる位置に立つ。
その感覚は、若いころから身体の芯に染みついている。
「そこ、足が先」
一人の弟子を止める。
扇の先で床を指し示す。
弟子は顔を赤くしてやり直す。
「違う」
「手で見せるんじゃないの。身体の奥から出しなさい」
障子の外では、午前の光が庭木を照らし始めていた。
邸宅の母屋では仏壇の前に線香が上がり、夫の遺影が静かな顔でこちらを見ている。
息子はもう何年も、この時間に家にはいない。
大学を出て東京へ行き、そのまま帰ってこなかった。
古い家も、流派も、息が詰まると言っていた。
それを責める気にはなれなかったが、残るのは娘の英恵だけだった。
その英恵が、いまは離れの隅からよし恵の動きを見ている。
弟子を見る目も、扇を持つ手も、少しずつよし恵に似てきていた。
弟子の帯が緩めば黙って直し、遅れた子がいれば小さく場所を空ける。
よし恵の横に出ることはない。
けれど、離れの空気の動かし方を、英恵はもう十分に知っていた。
稽古が一段落し、弟子たちが短く休憩に入る。
よし恵は離れの中央で、さっきの所作をもう一度、自分の身体で確かめようとした。
扇を持つ。
左手を添える。
いつも通りのはずだった。
そのとき、扇の骨が、指のあいだからわずかにずれた。
よし恵は眉を寄せる。
持ち直そうとする。
だが今度は、床そのものが傾いたように感じた。
違う、と思った。
身体が大きく左へ流れる。
扇が、板の間に乾いた音を立てて落ちた。
「お母さん!」
英恵の声が飛ぶ。
弟子たちがざわめく。
誰かが走る足音。
よし恵は立て直そうとしたが、左足がどこにあるのか分からなかった。
床の間の花が揺れる。
障子の外の松が、白くにじむ。
声が遠くなる。
「救急車、早く!」
英恵の声だけが、最後まではっきりしていた。
目を開くと、庭は午後の光の中にあった。
池も、飛び石も、松も、離れも、昔と同じ場所にある。
違うのは、自分の身体と、離れの中で立っている人だけだった。
よし恵は杖を握り直す。
右手の中で、汗がじわりと滲む。
左の袖は、風が通ってもほとんど動かない。
弟子たちの前で、ひとりの影が扇を持っている。
顔は見えない。
それでも、誰かは分かる。
声だけで十分だった。
「はい、そこ」
「もう一度」
弟子たちの「はい」が揃う。
昔は、その声が自分へまっすぐ向かってきた。
いまは、障子の向こうの別の誰かへ集まっている。
よし恵は、一歩も進めなかった。
舞台に上がる前、袖の暗がりで息を整えることは何度もあった。
けれど、いま自分が立っているのは、もうすぐ出るための舞台袖ではなかった。
そこに舞台があると知りながら、入っていけない場所だった。
離れの中で、足袋が板を擦る音が揃う。
扇の音が鳴る。
娘の「そこは見せすぎないで」という声が、また静かに響く。
よし恵は離れの前に立ったまま、今日も障子に手をかけることができなかった。
――第1話 終




