第7話 落ち着ける場所
喫茶店チェリーのドアを開けると、細いベルが乾いた音を立てた。
夕方には少し早い時間だった。
西日が大きな窓から斜めに差し込み、磨かれた木のテーブルの端だけを白く照らしている。
カウンターの奥では、体格のいいマスターが黙ってカップを拭いていた。
天井では古いシーリングファンが、低い音をたてながら回っている。
深煎りのはずなのにどこか頼りないコーヒーの匂いを、店の隅まで薄く広げている。
「いらっしゃい」
カウンターの向こうから声がする。
車いすの小金井だった。
丸盆を膝の上にのせたまま、器用に店の中を動いている。
車輪の音は小さく、長くここで働いてきた者だけが身につける動き方だ。
宮本は入口の近くの席ではなく、いつもの窓際へ向かった。
椅子を引いて腰を下ろす。
無精ひげは相変わらずで、髪も整っていない。
白衣ではなく、くたびれたシャツの襟元が少しだけ折れている。
小金井が水を置く。
「今日は早いね」
「たまたまです」
宮本は短く答える。
「いつもの?」
「はい」
小金井は少し笑った。
「相変わらず、味の分からない人だ」
「この店で味を言う方がおかしいですよ」
カウンターの奥でマスターが小さく鼻を鳴らした。
聞こえているのか、いないのか、いつも曖昧だった。
小金井が注文を伝えに戻る。
宮本は窓の外に目を向けた。
通りの向こうでは、商店街のシャッターが半分だけ下りている。
夕方の手前の時間は、町全体が少しだけ息を抜く。
やがて、小さなコーヒーカップが運ばれてきた。
色だけは深い。
だが、口に含むとやはり少しだけ薄い。
苦いのに、芯がない。
喫茶店チェリーのコーヒーは昔から、驚くほどまずかった。
そのまずさが、なぜか居心地のよさと結びついているのを、宮本はもう否定しなかった。
カップを置いたところで、胸ポケットの中でスマートフォンが震えた。
画面には、篭原千都子の名前が出ている。
宮本は一瞬だけ指を止めたあと、通話を取った。
「……はい」
小金井は離れた場所で、さりげなく視線を外した。
マスターは宮本に関心を示さず、カップを静かに拭いている。
そのさりげなさが、宮本にはありがたかった。
電話の向こうの篭原の声は、落ち着いていた。
「今、大丈夫?」
「ええ」
「じゃあ、手短に言うね」
篭原はいつもそうだ。
前置きが短い。
必要なことだけを言う。
「森先生ね、こっちでも回診してる」
宮本は何も言わない。
返事を急がないことを、篭原は知っている。
「病院から環境が変わって、最初は戸惑ってたけど、回診の時間を覚えていた」
「こっちの職員も、申し送りみたいに回診に合わせるのは大変だったけどね」
電話の向こうで、紙をめくる音がした。
老健の事務室だろう。
「でもね、利用者さんの中には、森先生が来るの待ってる人もいる」
「困ることもあるけど、完全に困るだけじゃない」
宮本は窓の外を見たまま、小さく答える。
「そうですか」
篭原は少しだけ息を吐いた。
その短い返事に慣れている声だった。
「あとね」
少しだけ声音が変わる。
「森先生の娘さんの孝子さんから、相談を受けた」
「診療所を、デイホームみたいな形に変えられないかって」
「そこで働いていた看護師の大谷さんって方と一緒に考えているみたい」
宮本の指が、カップの縁で止まる。
「高齢者が昼だけでも集まれる場所にして」
「あなたが孝子さんに言ったんでしょ。家では、先生が落ち着いて過ごせる環境が足りないって」
篭原の言葉は淡々としている。
だが、その奥には少しだけ、前へ進もうとする人間への慎重な期待があった。
「だから、森先生がいられる場所を作りたいそうよ」
「大谷さんって、元気でパワーがあるから実現するかもよ」
宮本はほんの少しだけ目を伏せた。
「そうですね」
「あなた、もうちょっと何かないの」
篭原が言う。
責めているわけではない。
いつもの調子だった。
「ありますよ」
「何?」
宮本は短く答えた。
「よかったです」
電話の向こうで、小さな笑い声がした。
「相変わらず、言葉が少ない」
「そちらも」
「そう?」
少しだけ間が空く。
その沈黙は、昔から互いに知っているもののように自然だった。
「じゃあ、また何かあったら連絡する」
「お願いします」
通話が終わり、画面が暗くなる。
宮本はしばらく、その暗い画面を見ていた。
テーブルの向こうから、小金井の声が飛ぶ。
「千都子から?」
宮本はスマートフォンを伏せた。
「ええ」
小金井が向かいの席へ来る。
営業中なのに、こうして少しだけ腰を落ち着けるのは、この店ではいつものことだった。
「また、仕事の話?」
宮本はコーヒーを一口飲んだ。
口の中に薄い苦みがひろがる。
「認知症になっても、患者の話を聞き続けている先生のことでした」
「今、千都子のところにいるんだ」
「はい、先月退院しました」
「へえ」
小金井は素直に頷いた。
「じゃあ、その先生は、いつまでも先生なんだね」
宮本は少し考えるように沈黙した。
「先生かどうかは分かりません」
「でも、話を聞く人ではいるみたいです」
小金井はその言葉を、少しゆっくり受け止めるように黙った。
「家には離婚して戻った娘さんしかいませんが、在宅復帰を諦めていないようです」
「自宅の診療所を、先生が先生らしく過ごせるようにしたいそうです」
小金井は眉を上げる。
「へえ。すごいな」
宮本は首を横に振るでもなく、頷くでもなく、ただカップを見た。
「そうですね。娘さんには、現実を何度か伝えました」
「でも、止まったままにしないつもりなんでしょう」
小金井は、その横顔をしばらく見ていた。
「宮本さんの仕事って、わかりにくいね」
「そうですか?」
「わかりにくいけど、背中をちゃんと押してる」
宮本は答えなかった。
小金井は少しだけ笑って、今度はもう一歩踏み込む。
「で、娘さんに共感したんでしょ」
宮本が目だけを向ける。
「宮本さんも、離婚経験者だから」
カップを置く音が小さく鳴った。
マスターは相変わらず何も言わないが、小金井に一瞬、目を向けた。
店内には、スプーンが皿に触れる乾いた音だけが残っている。
宮本は、すぐには答えなかった。
だが、否定もしなかった。
「共感したつもりは、ありません」
小金井はそれ以上、軽口では続けない。
そこは越えてはいけない線だと分かっている顔だった。
「理由、聞いてもいいですか」
窓の外では、夕方の色が少しずつ濃くなっている。
宮本は、その色の変化を見ながら言った。
「私の場合は、すれ違いです」
小金井は黙る。
その言葉の先があることは分かる。
でも、宮本がどこまで言うかは、宮本が決めることだった。
「同じ方を見ているつもりで、別々の方を向いていたのかもしれません」
「気づいたら、話すより黙る方が増えていました」
声は淡々としていた。
言い訳でもなく、誰かを責める口調でもない。
終わったものを、必要以上に触らない人の話し方だった。
小金井が静かに言う。
「まだ、思いはあるの?」
その問いだけは、店の空気を少しだけ変えた。
宮本は答えなかった。
窓の外を見る。
通りの向こうで、商店街の灯りが一つずつ点いていく。
まずいコーヒーは、少し冷めていた。
小金井はそれ以上聞かなかった。
聞けなかった、ではなく、聞かないことを選んだ。
マスターがカウンターの奥から言う。
「冷めるぞ」
それがコーヒーのことなのか、会話のことなのかは分からない。
小金井が吹き出すように笑った。
「パパのコーヒー、温かくてもまずいよ」
「うるさい」
マスターは顔も上げずに返す。
宮本はようやく少しだけ口元を緩めた。
その変化はほんの小さなものだったが、夕方の薄い光の中では、前より少しだけはっきり見えた。
店の外では、日が落ちかけていた。
森は老健で、まだ誰かの話を聞いているのかもしれない。
孝子は大谷と一緒に、枯れた鉢の間を歩いているのかもしれない。
閉じたと思っていた場所にも、残っている時間はある。
喫茶店チェリーのベルがまた鳴って、新しい客が入ってきた。
小金井は車いすの向きを変え、いつもの笑顔に戻る。
宮本は冷めたコーヒーを一口飲んだ。
やはり、まずかった。
――第7話 終
第3章 完




