第6話 残された新芽
短い回診の時間が設けられてから、森の歩き方は少しだけ変わった。
病棟をまったく歩かなくなったわけではない。
相変わらず病室の表示に目を留めることもあるし、自分の部屋へ戻る途中で立ち止まってしまうこともある。
それでも、以前のように廊下を行き来する時間は減っていた。
午後の決まった時間になると、森は白衣を着たがった。
白衣を羽織ると、病院のパジャマ姿のままなのに、不思議と背筋が伸びる。
襟元のずれを直し、眼鏡をかけ直して廊下へ出ると、その姿には危うさとは別の輪郭が戻ってくるようだった。
「先生、今日は三号室からですか」
相馬がナースステーション越しにそう声をかけると、森は足を止めた。
分厚い眼鏡の奥で一瞬だけ目を細め、それから小さく頷く。
「ええ。皆さん、いろいろありますから」
その返しに、相馬はわずかに口元を緩めた。
少し離れた場所でその様子を見ていた沼田が、小さく息を吐く。
「最初は、ただ歩き回ってるだけだと思ってました」
相馬は記録用紙から目を上げずに聞いている。
「でも今は……何かしようとして歩いてるんだって、分かる気がします」
相馬はそこでようやく顔を上げた。
「そう見えるなら、前よりよく見えてる」
沼田は照れたように曖昧に笑う。
まだ全部が分かったわけではない。
けれど、森を止める相手としてだけ見ていた頃とは、確かに少し違っていた。
病棟のスタッフにも、森に軽く声をかける者が増えていた。
「森先生、お疲れさまです」
若い看護助手がそう言うと、森は当然のように頷く。
「ええ」
それだけの短いやり取りだった。
けれど、それだけで病棟の空気は少し変わる。
森はもはや、ただ困った患者としてだけそこにいるのではなかった。
それ以外の時間、森は作業療法室の隅の椅子に座り、本を開いていることがあった。
読んでいるのか、頁をめくっているだけなのかは分からない。
それでも、以前のように廊下を歩き回っているときより、その姿の方が落ち着いて見えた。
作業療法室の前には、順番を待つ患者や家族が腰かけている。
その日は、痩せた高齢の男性が歩行器に両手をかけたまま、浅く息をついていた。
大腿骨の骨折後で、娘らしい女性が付き添っている。
森は、その様子を少し離れた椅子から見ていた。
やがて本を閉じ、ゆっくりと近づく。
「ちゃんと食べていますか」
男は顔を上げる。
最初は少し驚いたようだったが、森の顔を見ると自然に答えた。
「食が細くなっちゃってね」
森は頷く。
「リハビリをしても、食べないと衰えます」
声は穏やかだった。
言い方はやわらかくない。
だが、長く同じことを言ってきた人の口調だった。
付き添いの娘が、困ったように笑う。
「先生、ほんとそうなんです。全然食べなくて」
森は男の顔を見たまま言う。
「年をとっても、食べなければ身体は保てません」
「わがまま言って、家族を困らせては駄目だ」
男は苦い顔をしたが、最後には小さく笑った。
「厳しいなあ」
「甘いことを言っても、筋肉は増えません」
少し離れた場所でそのやり取りを見ていた患者が、つられるように笑う。
作業療法室の前の空気が、ほんの少しだけほどけた。
森はそれ以上、言葉を重ねなかった。
ただ相手の顔を見て、小さく頷いた。
その姿は、病室を回るときと同じだった。
診断はできない。
処方もできない。
それでも、相手の言葉を受け止めることだけは、まだ身体のどこかに残っている。
孝子は、その日も少し早めに面会へ来ていた。
作業療法室の前を通りかかったとき、リハビリを待つ患者に話しかけている父を見つけて、思わず足を止める。
その横顔は、驚くほど自然だった。
病棟で病室を間違え、娘の言葉が届かなくなる父とは別人みたいに見える。
いや、別人なのではなく、むしろこっちの方が長く知ってきた父に近かった。
しばらくして、宮本が廊下の向こうから歩いてきた。
「来ていたんですね」
孝子は小さく頷く。
視線はまだ作業療法室に向いたままだった。
「ああいうふうにしてると……」
言葉が途中で止まる。
何を言いたいのか、自分でも分かっている。
だからこそ、言いにくい。
「帰れるんじゃないかって、思ってしまいます」
宮本はすぐには答えなかった。
作業療法室の中で、森が相手の顔を見ながら話している。
そのまわりには、患者がいて、家族がいて、スタッフがいる。
人の声が自然に交わる場だった。
「落ち着いて見えるのは、事実です」
宮本はそう言った。
「でも、今は聞く相手がいて、まわりにスタッフがいて、時間も整えられています」
孝子は黙る。
それが否定ではないことも分かる。
だからこそ余計に苦しかった。
「家に帰れば、父と私の二人です」
「父の話を聞く人も、そばで止める人も、いません」
宮本は静かに言った。
「落ち着いて見えることと、家で暮らせることは、同じではありません」
孝子は小さく息を吐いた。
分かっている。
分かっているから、苦しい。
数日後の午後、孝子は病院の面談室へ呼ばれた。
部屋には高瀬、安西、そして森の担当となるケアマネージャーの戸田薫子がいた。
戸田は長身の身体を少し縮めるように椅子に座っていた。
ショートの髪が耳の後ろで揺れ、声は控えめだった。
だが、資料を持つ指先だけは迷っていない。
「先日のカンファレンスをふまえて、もう一度ご相談です」
安西が切り出す。
戸田はその横で小さく頷いた。
「ご自宅に戻ることも、まったく不可能ではありません」
「ただ、現時点では、お父さまにも孝子さんにも負担が大きいと思います」
戸田がそこで、少し控えめに言葉を継いだ。
「あの……老健で、いったん生活を整える形が、安全だと思います」
「森先生にも、孝子さんにも、その方が無理が少ないです」
声は弱く聞こえる。
けれど、その言葉は曖昧ではなかった。
孝子は目を伏せた。
先日の宮本の言葉を思い出す。
――落ち着いて見えることと、家で暮らせることは、同じではありません。
父の生活も。
自分の生活も。
もう一度、どこかで整え直さなければいけないのかもしれない。
「……お願いします」
その言葉は小さかった。
けれど、自分で選んだ声だった。
「いったん、老健でお願いします」
「父の生活も、私の生活も、整えたいです」
安西が静かに頷いた。
高瀬は短く「分かりました」と言った。
戸田はほっとしたように息をついたが、すぐに表情を引き締めた。
「では、受け入れ先との調整を進めます」
それで話は決まった。
救いではない。
敗北でもない。
ただ、次の生活へ移るための現実だった。
面談が終わり、孝子が廊下に出ると日が傾いていた。
病室では、森が白衣を着ようとしているところだった。
袖に腕を通そうとして、うまく入らない。
右と左が少しずれている。
孝子は何も言わず、その白衣を受け取った。
「貸して」
森は素直に手を止めた。
孝子が襟を整え、袖を通し、背中を軽く引く。
子どものころ、父に服を着せてもらった記憶はない。
父に白衣を着せる日が来るとも思わなかった。
「お父さん」
白衣の前を整えながら、孝子は言った。
「いま、何してるつもりなの」
森は少し考えるように目を伏せた。
それから、ぽつりと答える。
「診ることは、できなくなった」
孝子の手が止まる。
森はゆっくり顔を上げた。
「でもね」
言葉を探すような間があった。
「話を聞くことまでは、奪われていないみたいだ」
孝子は何も言えなかった。
白衣の胸元に置いた手だけが、ほんの少し震えている。
父はもう元の父ではない。
それでも、そこに残っているものがある。
消えてしまったものばかりを見ていた目に、初めて別のものが映った気がした。
その日、孝子は病院を出たあと、まっすぐ家には帰らなかった。
閉まった診療所の門を開ける。
待合室の窓は暗く、診察室のカーテンも閉じたままだ。
誰もいないのに、長年しみついた消毒液の匂いだけが、まだ少し残っていた。
裏へ回る。
森が毎朝立っていた庭。
鉢は並んだまま、ほとんどが枯れていた。
葉を落とし、枝先は乾き、土はひび割れている。
孝子はしゃがみこんだ。
ひとつずつ目をやる。
何も戻らない景色のはずだった。
けれど、いちばん奥の黒松の鉢の前で、手が止まる。
枝元のごく低いところに、小さな緑があった。
見落としてしまいそうな、新しい芽だった。
孝子はしばらく動けなかった。
枯れたと思っていた。
全部、終わったのだと思っていた。
それでも、土の中では終わっていなかったものがある。
鉢の土は、思っていたほど乾ききってはいなかった。
誰かが時々、水をやっていたのかもしれない。
それが誰かは分からない。
今はもう、考えなくてもよかった。
孝子はそっと指先で鉢の縁に触れた。
芽には触れない。
ただ、その小さな緑を見つめる。
夕方の光が、庭の隅までゆっくり落ちてくる。
閉じた診療所は静かだった。
それでも、完全に終わったわけではないと、その小さな芽だけが告げていた。
――第6話 終




