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語らない仕事 ―人がもう一度、立つ場所を探す仕事―  作者: 比良野 瞬
第3章 回診する人

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第5話 折れない枝

 退院カンファレンスは、午後の遅い時間に小さな会議室で行われた。


 窓の外では、夏の名残の強い光がブラインドの隙間から差し込んでいる。

 細長い会議机の上には、森秀三の診療情報提供書、看護記録、理学療法士と宮本の評価記録が並べられていた。

 紙の上では、森はもう数字と所見に分けられている。


 高瀬が資料をめくりながら口を開く。


「回復期病棟としての入院期間は、あと二週間ほどです」


 その言葉で、会議室の空気が少しだけ固くなった。


 出席しているのは、高瀬、安西、相馬、宮本、そして孝子だった。

 孝子は机の向こうで、顔を強張らせて座っていた。


 高瀬が続ける。


「森先生は身体的には歩行可能です。ただ、バランスが不安定で転倒リスクが高いです」

「認知症症状も改善していません。病棟内を歩き回ることが増えています」


 安西がそのあとを引き取る。


「ご自宅に戻る場合、日中・夜間ともに見守りが必要になる可能性があります」

「介護保険サービスを組み合わせても、ご家族の負担はかなり大きいと予想されます」


 孝子は黙って聞いていた。

 膝の上で重ねた手に、力が入りすぎている。


 相馬が短く言う。


「病棟でも、目を離すのが難しいです」


 高瀬が小さく頷いた。


「自宅退院がまったく不可能とは言いません」

「ただ、現状ではかなり厳しいと言わざるを得ません」


 会議室の中に、短い沈黙が落ちた。

 誰も大げさなことは言わない。

 だが、簡単ではないことだけは全員が分かっていた。


 安西が孝子を見る。


「ご自宅での介護について、率直なお気持ちを聞かせていただけますか」


 孝子はすぐには答えなかった。

 机の木目を見たまま、小さく息を吸う。


「……看たい気持ちはあります」


 そこで言葉が止まる。

 その先を言うのに、少し時間がかかった。


「でも、一人でできるって、言い切れません」


 それが、今言えるいちばん正直な言葉だった。


「父が家に帰りたがるなら、帰したいです」

「でも、今のままで本当に見られるのかって言われたら……自信がありません」


 高瀬は視線を落とし、安西は静かに頷いた。

 誰もきれいな励ましを口にしない。

 そんな段階では、もうなかった。


 安西が言う。


「施設入所も、通えるサービスも含めて、選択肢を広げて考えた方がいいですね」

「ケアマネージャーの戸田とも相談しながら整理しましょう」


 施設。

 その言葉を、もう誰も避けなくなっていた。

 高瀬が資料を閉じる。


「今日のところは、方向を急いで決めるより、可能な選択肢を整理しましょう」

「森先生ご本人の状態も、もう少し見たい」


 それでカンファレンスは終わった。

 結論は出なかった。

 だが、出ないこと自体が、今の現実だった。



 会議室を出たあと、高瀬は自動販売機の前で立ち止まった。


「飲みますか」


 振り返らずにそう言う。

 宮本は短く頷いた。


 紙コップのコーヒーが二つ、取り出し口に落ちる。

 高瀬はそのうち一つを宮本に渡した。

 病院の廊下の端、休憩用のベンチには誰もいなかった。


「森先生のこと、どこまで聞いてますか」


 高瀬がコーヒーを一口飲んで言う。


「町で長く診療していたことくらいです」


「そうですか」


 高瀬は苦笑ともため息ともつかない息を吐く。


「名医っていう感じじゃなかった。でも、患者を切らない人でね」

「話が長い患者でも、最後までつきあうから、こっちに患者が詰まってね」


 宮本は黙って聞いていた。


「医者としては、厄介だったね」

「でも、ああいう先生に診てもらいたいって人も多かった」


 高瀬は紙コップを眺めながら言う。


「入院してても、あの時のままだと思える時があるよ」

「あの徘徊を止めてしまったら、もうあの先生はいなくなりそうだ」


 宮本はそこで初めて口を開いた。


「なら、あえて回診の時間を作りませんか」


 高瀬が顔を上げる。


「回診の時間?」


「ええ」


 宮本はコーヒーを持ったまま続けた。


「退院先を決めるため、というより」

「病院の外の生活に移ったとき、森先生がどういうふうに落ち着くのかを見るためです」


 高瀬はすぐには答えなかった。

 窓の外に目をやる。

 植え込みの枝先が、風もないのに少し揺れて見えた。


「怒られるよ」


 高瀬が言う。


「ええ」


 宮本は頷く。


「怒られますね」


 その返しに、高瀬が少しだけ笑った。


「……じゃあ、一緒に怒られましょうか」


 それは半分冗談で、半分本気の声だった。

 だが、宮本にはそれで十分だった。



 翌日の夕方、短い回診の時間がつくられた。

 それは高瀬と宮本の、半ば内緒の試みだった。


 森のことを知っている女性患者が、話し相手になると引き受けてくれた。

 相馬が少し離れて見守り、宮本が森の横につく。

 高瀬は病室の外から様子を見ていた。


 森は病室の前で立ち止まる。

 表示を見る。

 少し目を細める。

 整えたパジャマの上に白衣、靴下も上履きも左右そろっている。

 いつもの徘徊と同じように見えなかった。


「失礼しますよ」


 森がノックをして入る。


 女性患者はベッドの上で体を起こして待っていた。

 病室の窓からは、夕方の光が斜めに差し込み、白いシーツの上に薄い影を落としている。


 森はベッドのそばに立ち、白衣の胸ポケットのあたりに一瞬だけ手をやった。

 いつもの診察前の動きをして、それから声をかける。


「調子はどうですか」


 女性患者が笑う。


「先生、今日は腰が重くてねえ」


 森は頷いた。


「そうですか」


 それだけ言って、急がずに待つ。

 女性患者は、その沈黙に背中を押されるように少しずつ話し始めた。


「立つのもしんどいし、歩くのもおっくうで」

「でも寝てばっかりも、気が滅入るのよ」


 森は話を途中で切らず、最後まで聞いた。

 目をそらさない。

 それだけは、昔から身体に染みついたままだった。


「億劫だからといって、動かないともっと悪くなる」

「無理はしちゃ駄目だが、少しは動きなさい」


 女性患者は苦笑する。


「先生、相変わらず厳しいねえ」


「甘いことを言っても、腰は軽くならない」


 その返しに、女性患者が小さく笑った。

 病室の空気が少しゆるむ。


 森はゆっくり頷いた。


「それなら」

「今日は、それでいい」


 病室の外で、それを聞いていた高瀬が小さく息を吐いた。


 森は病室を出るとき、ほんの少しだけふらついた。

 宮本が半歩横につく。

 相馬も視線だけでその足元を追う。

 だが、森の顔は徘徊している人の顔ではなかった。


 高瀬が森に近づき声をかける。


「先生、お疲れさまでした」


 森は短く答える。


「ええ」


 森は廊下の窓際で一度立ち止まり、外を見た。

 夏の終わりの陽が、植え込みの葉先を照らしている。

 剪られてはいないが、まだ崩れきってもいない枝のように、その姿は危うく形を保っていた。


「今日は、忙しかったですね」


 森が言う。


 宮本が答える。


「そうですね」


 森は少し照れたように笑った。


「皆さん、いろいろありますから」


 その言葉に、高瀬が一瞬だけ目を伏せた。

 昔、外来の終わりにどこかで聞いたことのある口調だったのかもしれない。


 森はゆっくり自室へ戻っていく。

 宮本はその半歩後ろにつく。

 相馬は病室の前で腕を組んだまま、その背中を見送る。


 病棟の窓の外で、夕方の光が枝先に残っていた。

 全部は残らない。

 それでも、切らずに済む枝がある。


 その日の短い回診の時間は、そういう始まりだった。


 ――第5話 終


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