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語らない仕事 ―人がもう一度、立つ場所を探す仕事―  作者: 比良野 瞬
第3章 回診する人

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第4話 乾いていく土

 その日も、森は廊下を歩いていた。


 午後の病棟は、面会時間の始まりと重なって、少しだけ空気がざわついている。

 自動販売機の前には家族連れが立ち、ナースステーションには記録の紙が重なっていた。

 窓の外はまだ夏の光が強く、植え込みの葉が照り返しを受けて白く光っている。


 森は左にわずかに傾いた身体を、歩くたびに立て直していた。

 左足が少し遅れ、病院のパジャマの裾が足首で揺れる。

 靴は左右を逆にして履いている。

 それでも、その目はまっすぐに前を見ていた。


 面会に来た孝子は、廊下の先に父の姿を見つけたとき、足を止めた。


 まただ、と思った。


 森は誰かの病室の前で立ち止まり、表示を見上げている。

 自分の部屋へ戻る足取りではない。

 次に診る患者を確かめるみたいに、そこに立っていた。


「お父さん」


 孝子は小走りで近づいた。


「そこ、違うから」


 森は振り向き、娘の顔を見た。

 その顔に、一瞬だけ何かをたどるような静けさが浮かぶ。

 だが、すぐにそれは消えた。


「これから診ます」


「違うの」


 孝子は息を整えきれないまま言う。


「お父さんは、患者なの」

「入院してるの」

「診るんじゃなくて、診てもらう方なの」


 森はその言葉を聞き終えてから、小さく首を傾げた。


「いや、どこも悪くない」


 言い方は穏やかだった。

 言い張っているというより、本当にそう思っている声だった。


「悪いからここにいるの!」


 孝子の声が、自分でも驚くほど大きくなった。

 廊下の空気が、一瞬だけ止まる。


 森は目をしばたたかせた。

 娘が怒っていることは分かる。

 でも、なぜ怒っているのかが結びつかない。

 その表情が、孝子には余計につらかった。


「もうやめて……」


 最初は小さな声だった。


「もう、やめてよ」


 森はまた病室の方へ目を向ける。

 孝子はその視線の先へ自分の身体をずらして、行く手をふさぐ。


「もう、あの診療所は閉じたんだよ」

「だから、もう診なくていいの」


「お願いだから……」


 最後の方は、声が崩れた。

 怒っているのか、泣いているのか、自分でも分からない音だった。


 そのやり取りを聞きつけて、相馬が駆け寄ってきた。

 少し遅れて宮本も現れる。

 相馬は状況を一目見て、すぐに森の方へ歩み寄る。


「森さん」


 声は低く、落ち着いていた。


「いったん、お部屋に戻りましょう」


 森は相馬を見た。

 少し考えるような顔をする。

 だが、反発はしない。

 相馬が一歩横へつくと、そのままゆっくり向きを変えた。


 宮本は孝子のそばに立った。

 何も言わず、すぐには触れもしない。

 ただ、少しだけ距離を詰めて止まる。


 孝子は唇を噛んでいた。

 目元はもう赤い。


「少し、座りませんか」


 宮本が言った。


 孝子はすぐには返事をしなかった。

 けれど、怒鳴り続ける力ももう残っていないようだった。

 小さく頷いて、面会室の方へ歩き出す。



 面会室には、冷房の音だけが静かに響いていた。


 長机と丸椅子。

 壁に貼られた面会時間の案内。

 窓の外には、陽を受けすぎた植え込みが見える。

 部屋の隅に置かれた観葉植物の葉先が、少しだけ茶色く傷んでいた。


 孝子は椅子に座るなり、バッグを膝に抱えこんだ。

 肩が細く震えている。

 泣くのを止めようとしているのか、呼吸を整えようとしているのか、自分でも分かっていないようだった。


 宮本は向かいに座る。

 急かさない。

 質問もしない。

 孝子の方から言葉が出るのを待つ。


 やがて、孝子が小さく言った。


「さっきみたいなの、毎回なんです」


 宮本は黙って聞いていた。


「止めても止めても、また行こうとする」

「診療所にいるつもりで、患者さんを待たせてるって顔して」


 そこで喉が詰まったのか、少し息を吸い直す。


「倒れるまでは、ちゃんとしてたんです」


 倒れる前の森を思い出しているのか、次々と言葉が続いた。


「父は、家では無口でした」

「やさしい人、って感じでもなかった」

「でも、患者さんの話はちゃんと聞いてた」

「夜中でも呼ばれたら行って」

「町の人たちはみんな父を頼りにしてて」


 孝子はそこで笑おうとした。

 けれど、うまく笑えなかった。


「家族より、患者さんの方を大事にしてるんじゃないかって、何度も思いました」

「それでも、尊敬してたんです」


 宮本は目を上げるでもなく、言葉を挟まない。


「私、離婚して戻ってきたんです」


 その言葉は、不意だった。

 本人も今ここで言うつもりではなかったのかもしれない。

 だが、一度出た言葉は止まらなかった。


「気持ちが動かなくなって、何もかもうまくいかなくて」

「……実家しか残ってなくて」

「父の診療所を手伝って、何とか立っていられたんです」


 バッグを握る指に力が入る。


「でも、父が倒れて」

「認知症になって」

「診療所も閉めて」

「父の大切な盆栽も枯れて」


 そこで、とうとう声が切れた。


「なんで、こんなふうになるんですか」


 その問いは宮本に向けたものではなかった。

 誰にも答えられないと分かっていて、それでも出てしまう問いだった。


 少し間を置いてから、宮本が言った。


「私も、離婚しています」


 孝子が顔を上げる。

 涙のにじんだ目で、初めて宮本をちゃんと見た。


 宮本はそれ以上、何も足さなかった。

 理由も、経緯も、語らない。

 それが慰めのための言葉ではないことだけが、静かに伝わる。


 孝子はしばらく何も言えなかった。

 やがて、小さく息を吐く。


「……そうですか」


 それだけだった。

 だが、その一言で、宮本が分かったようなことを言う他人ではなくなった。


 しばらくして、宮本が静かに言う。


「森さんの行動には、意味があります」


 孝子の顔がまた少し曇る。

 やはりその言葉は、簡単には受け取れない。


「意味があったら、何なんですか」


 声は強くない。

 強く言う元気ももうない。

 だが、そのぶんだけ痛かった。


「危ないのに、まわりは振り回されるのに」

「意味があるなら、それでいいんですか」


 宮本は首を横に振った。


「いいとは言いません」


 その返しが、孝子を少しだけ黙らせた。


「意味があることと、つらくないことは別です」

「危険があることも、家族の負担が大きいことも、分かっています」


 宮本は机の木目を見ながら続ける。


「でも、止めることは簡単です」

「止め続ければ、森さんの中に残っているものまで消えてしまうかもしれません」


 孝子は黙って聞いている。


「認知症になっても、残るものはあります」

「長年積み重ねてきたものは、なかったことにはできません」


 観葉植物の傷んだ葉が、冷房の風でわずかに揺れた。

 部屋の隅に置かれたまま、水だけでは戻らない葉先だった。


「尊厳って、きれいに守れるものじゃないんです」


 宮本はゆっくり言った。


「でも、その人の中にまだ残っている根まで切ってしまうと、残るものまで失ってしまうことがあります」


 孝子の指が、バッグの持ち手から少しだけ緩んだ。


「……じゃあ、どうすればいいんですか」


 それは反論ではなく、本当に分からない人の声だった。


 宮本はすぐには答えない。

 答えを持っているわけでもない。

 ただ、ひとつだけ言えることがあった。


「止めるか、放っておくか、ではないと思います」


 そのとき、面会室の扉がノックされた。


 相馬ではなく、ソーシャルワーカーの安西だった。

 落ち着いた表情のまま、会釈をする。


「失礼します。お話中でしたか」


 宮本が軽く首を振る。


 安西は孝子に向かって、やわらかい声で言った。


「そろそろ、退院についてのカンファレンスを設定したいと考えています」


 孝子の表情がまた固くなる。


「自宅に戻るのか、別の場所を考えるのか」

「お父さまの状態と、孝子さんの負担の両方を見ながら、話し合う必要があります」


 別の場所。

 その言葉の中には、まだ名前を口にしたくない行き先も含まれていた。


 孝子はすぐには頷けなかった。

 けれど、もう目をそらしてはいられないところまで来ていることだけは分かった。


「……はい」


 小さな声だった。


 安西が去ったあと、面会室にはまた冷房の音だけが残った。


 宮本は立ち上がらない。

 孝子もすぐには動けない。

 窓の外では、夏の光がまだ強い。

 葉先を傷めた観葉植物は、それでも根を土に残したまま、かろうじてそこに立っていた。


 孝子はしばらくして、ぽつりと言った。


「父には、まだ何か……残ってるんですかね」


 宮本は窓の外を見たまま答える。


「残っているから、歩いているんだと思います」


 その答えが救いになるのか、重荷になるのかは、まだ分からなかった。


 ――第4話 終


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