第3話 根
「また回っています」
相馬の声は低く、よく通った。
宮本はナースステーションの前で立ち止まり、廊下の先へ目を向けた。
昼下がりの病棟は、昼食後の空気がまだ少し重い。
テレビの音は小さく、どこかの部屋から湯呑みの触れ合う音がした。
窓の外は、夏の光で白くかすんでいる。
森が、左に少し傾いた身体を立て直しながら歩いている。
病院のパジャマの裾が足首にまとわりつく。
襟元のボタンは今日もひとつずれ、眼鏡も少し下がっていた。
それでも、その歩き方には、ただ迷っている人とは違うものがあった。
「私が行きます」
宮本はそう言って、廊下へ出た。
沼田が少し驚いた顔で見る。
「大丈夫ですか」
「ええ」
宮本は短く答えただけで、森の少し後ろへ近づいた。
ゆっくりと横につく。
慌てて止めない。
声をかける距離だけを静かに詰める。
「先生」
森が宮本のほうへ向く。
一瞬だけ、相手を確かめる目になる。
「どちらへ」
宮本が尋ねると、森は当たり前のことのように答えた。
「ん、三から五号室を回ります」
「では、ご一緒します」
宮本はそれ以上、止めなかった。
森はもう一度宮本を見てから頷いた。
「そうですか」
森は再び歩き出す。
宮本は半歩後ろにつき、歩幅を合わせる。
森はひとつ目の病室の前で止まった。
扉の表示を見る。
少し目を細める。
そこに書かれた名前や番号を、本当に読んでいるのか、読む動作だけが残っているのか、外からは分からない。
それでも、患者の名前を確かめるような目つきだった。
「失礼しますよ」
ノックをして、引き戸を開ける。
二人部屋の窓際では、痩せた女性患者が、膝にタオルをかけて座っていた。
夏の風が薄いカーテンを揺らし、窓際の小さな花瓶には、少しくたびれたリシアンサスが挿してある。
森はベッドのそばへ立った。
白衣はない。
聴診器もない。
胸ポケットのあたりを無意識に探るように指が動く。
見つからない。
そのことに一瞬だけ眉が寄る。
だが、すぐに患者の顔へ視線を戻した。
「調子はどうですか」
女性は森のことを知っているのか、少し笑って答えた。
「先生、歩くのがしんどくてねえ」
森は頷く。
「だからといって、歩かないともっとしんどくなります」
「息が切れない程度に、歩きなさい」
声は落ち着いていた。
言い方は柔らかくない。
だが、乱暴でもない。
どこかで何度も繰り返してきた言葉の響きだった。
女性は苦笑する。
「そう言われてもねえ」
森は少し首を傾ける。
「しんどいのは分かります」
「でも、寝てばかりいると、もっと歩けなくなる」
女性は黙ったまま、その顔を見ていた。
宮本は病室の入口で、そのやり取りを見ている。
森は相手の言葉を急かさない。
途中で遮らない。
話の内容より先に、顔を見ている。
やがて女性は、ふっと息を吐いた。
「……じゃあ、廊下だけでも歩いてみるかねえ」
森はゆっくり頷いた。
「それでいい」
それだけだった。
励ましでも説教でもない。
短い。
だが、女性の肩の力は少し抜けていた。
森が病室を出ようとして、身体がわずかに左へ流れる。
左足が遅れ、バランスを崩しかける。
宮本はすぐ横へ出て、肩に手を添えた。
「先生」
森は驚いたように宮本を見た。
「……ああ」
「いったん、お部屋に戻りましょう」
森はすぐには答えない。
廊下の先を見ている。
まだ回る部屋が残っていると思っている目だった。
「次が」
「ええ」
宮本は否定しなかった。
「でも、その前に少し休みましょう」
森はしばらく考えるように立ち止まっていたが、やがて小さく頷いた。
「そうですね」
自室までの短い廊下を、宮本は森を支えながら歩いた。
べったり手を貸すのではなく、転べば支えられる距離を保つ。
森の足は遅い。
それでも、戻ることそのものには抵抗していない。
ナースステーションから、その様子を沼田が見ていた。
「宮本さん、うまいですね」
思わず、そうこぼれる。
相馬は画面から目を上げずに言った。
「森さんを誘導しているわけじゃない」
「え?」
「見てるの」
沼田は森と宮本を見比べる。
たしかに、宮本は森をあやしているわけでも、無理に従わせているわけでもない。
森がどこで止まり、何を見て、どの言葉に反応するのか、ひとつずつ拾っているように見えた。
「……観察、してるってことですか」
相馬はようやく小さく頷いた。
森を自室へ戻したあと、宮本はナースステーションへ戻ってきた。
白衣のポケットに手を入れたまま、しばらく黙っていた。
「どうでした」
相馬が聞く。
宮本は廊下の方へ一度だけ目をやってから言った。
「森さんの中に、まだ残っているものがあります」
沼田が首を傾げる。
「でも、徘徊してるんですよね」
宮本は頷いた。
「ええ」
それから、少し間を置いた。
「徘徊には、理由があります」
沼田は思わず相馬を見る。
相馬は黙って宮本の続きを待っていた。
「行き先もなく歩いているわけではありません」
「病室の前で止まって、表示を見て、声をかける」
「患者さんの顔を見て、話を聞いている」
宮本の声は静かだった。
説明しているというより、見たことをそのまま置いているような言い方だった。
「全部が正しいわけじゃないです」
「部屋を間違えることもあるし、危険もある」
そこははっきり言う。
「でも、意味のない行動ではないと思います」
相馬が腕を組んだ。
「医師としての行動、ですか」
「そうです」
宮本は短く頷く。
「森さんは、医者であろうとしているんじゃない」
「医者として長く繰り返してきた根が、まだ残っているんです」
ナースステーションに、一瞬だけ沈黙が落ちた。
廊下の向こうでは、どこかの部屋でコップを置く音がした。
沼田はクリップボードを抱えたまま、小さく言う。
「でも、危ないのは危ないです」
「ええ」
宮本は否定しなかった。
「でも、そこを切ってしまう話ではないと思います」
相馬の視線が少し動く。
「安全に残す方法を、探す必要があります」
その言葉で、相馬はわずかに目を細めた。
沼田はまだ完全には分かっていない顔をしていたが、
さっきまでみたいに単純な困った患者を見る目ではなくなっていた。
ちょうどそのとき、森が自室の前でまた立ち止まった。
引き戸の表示を見て、ほんの少しだけ首を傾げる。
それから、ナースステーションの方を見た。
「今日は、忙しいですね」
誰に言うでもない声だった。
だが、その調子は、長年ずっと同じ言葉を繰り返してきた人のものだった。
宮本が短く答える。
「ええ」
森は少し照れたように笑った。
「皆さん、いろいろありますから」
それだけ言うと、森はまたゆっくり歩き出した。
左に少し傾きながら。
それでも、向かう先を身体が覚えているみたいに。
ナースステーションでは、しばらく誰も声を出さなかった。
窓の外では、夏の日差しが植え込みを照らしている。
土の中には見えない根があり、誰にも見えないまま、水のある方へ伸びている。
目に見えるものだけでは、草木は立たない。
宮本は廊下の先を見つめたまま、小さく言った。
「形が変わっても、残るものはあります」
相馬は何も答えなかった。
だが、その沈黙は否定ではなかった。
――第3話 終




