第2話 向日葵の向く先
「失礼しますよ」
森はそう言って、病室の引き戸を少し開けた。
四人部屋の窓際には、家族が持ってきた向日葵が一輪だけ挿してあった。
エアコンの風が届きにくいのか、花びらの先が少しだけ乾いている。
開いた窓からは、ぬるい夏の空気がゆっくり流れ込み、薄いカーテンを揺らしていた。
ベッドにいた高齢の男性が顔を上げる。
最初はきょとんとしたが、森の落ち着いた声につられるように、小さく背を起こした。
「調子はどうですか」
森はベッドのそばに立った。
聴診器はない。
白衣もない。
病院のパジャマの襟元は少し曲がり、ボタンがひとつ掛け違えている。
靴下も左右で色が違っていた。
それでも、その立ち方だけはどこか自然だった。
森は胸ポケットのあたりをまさぐった。
何かを探すように指先が動く。
聴診器か、メモ帳か。
そこにあるはずのものが見つからない。
一瞬だけ眉が寄る。
だが、すぐに相手の顔へ視線を戻した。
「夜は眠れていますか」
「ええ……まあ」
男性は戸惑いながらも答える。
森はゆっくり頷いた。
「それなら、いい」
それだけ言う。
途中で遮らない。
問いを増やしすぎない。
答えを聞いたあとの沈黙の取り方だけが、妙に長年の癖みたいに残っていた。
森は満足そうに頷いて、病室を出た。
廊下に出たところで、看護師の沼田が小走りに近づく。
「森さん、また勝手に出ちゃってるじゃないですか」
二十三歳の声はまだ若い。
明るく染めた髪をきっちりまとめているが、忙しくなると前髪が少し落ちてくる。
森は沼田を見た。
一瞬だけ、相手が誰なのか確かめるような目になる。
「回っていたんですよ」
「それは分かるんですけど」
沼田は困ったように笑ってみせる。
まだ強く言い切るだけの経験がない。
「転ぶと危ないんで、いったんお部屋戻りましょう」
森は素直にうなずいた。
言葉は通る。
その素直さが、かえって沼田を戸惑わせる。
病識がないわけでもない。
ただ、どこに向かっているのかだけが、本人の中で違っている。
沼田は森の少し前を歩き、部屋まで連れていった。
森は部屋に入る前、廊下の向こうを振り返る。
まだ行くべき場所が残っていると思っている顔だった。
「少し休みましょうね」
そう言って引き戸を閉めたあと、沼田は小さく息を吐いた。
ナースステーションに戻ると、相馬が記録を打っていた。
モニターの光に照らされた横顔はいつも通り冷静で、表情に余計な動きがない。
「また回ってました」
沼田はクリップボードを胸に抱えたまま、声を潜める。
「今日だけで何回目だろ。ほんと目が離せないんですけど」
相馬はキーボードを打つ手を止めなかった。
「転んでないなら、まだまし」
「いや、ましとかじゃなくて」
沼田は眉を寄せる。
「普通に危ないじゃないですか。人の部屋入っちゃうし」
相馬はそこでようやく視線を上げた。
「危ないのは、その通り」
それ以上は続けない。
言葉を足しすぎないのが、相馬の話し方だった。
沼田は口をへの字にした。
「森先生が昔この辺で有名だったって話は聞きますけど、今は患者さんですよね」
そのときだった。
廊下の向こうを歩いていた森の姿が、また視界に入る。
さっき部屋へ戻したはずなのに、もう出てきている。
今度は少し先に、孝子の姿があった。
薄い色のカーディガンを羽織り、細い肩を張らせて立っている。
森の少し前に回り込み、行く手をふさぐようにした。
「お父さん」
声は抑えていた。
だが、抑えたぶんだけ苦しそうだった。
「そこはお父さんの部屋じゃないのよ」
森はきょとんとした顔で娘を見た。
目の前の相手が娘であることは分かっている。
だが、今そこで言われていることの意味が、すぐには噛み合わない。
「わかっています。診ていない部屋です」
「違うよ」
孝子の声が細く震える。
「お父さんは、入院しているのよ」
森は少しだけ首を傾げた。
「……入院?どこも悪くない」
「なんで、わからないのよ」
孝子の言葉は、森に届くことはなかった。
「この部屋の患者を、待たせてはいけない」
その言い方は、ごく自然だった。
呆然とする孝子を置いて、歩き出そうとする。
相馬がナースステーションで、沼田に短い指示をした。
「行って」
沼田がすぐに駆け出す。
その前で、森は孝子の制止を軽く振りほどくように一歩出た。
「入りますよ」
そう言って、次の病室へ向かおうとした瞬間、左足がもつれた。
身体が大きく傾く。
「あっ」
沼田が飛び込み、森の腕を支えた。
間に合わなければ、確実に転んでいた。
「危ないです!」
思わず声が大きくなる。
森は息をつき、ゆっくり姿勢を戻した。
「……ありがとうございます。年のせいか、足腰が弱くなりましたね」
「いえ、じゃなくて」
沼田は言いかけて、そこで言葉を失う。
森の礼は、驚くほど落ち着いていた。
その横で、孝子の堪えていたものがとうとう溢れた。
「もうやめて!」
廊下に、はっきりと響く。
「ここは家じゃない!」
「診療所でもない!」
「お願いだから、もう……やめてよ……」
最後の方は、声になりきらなかった。
怒りと疲れと、どうしようもなさが一緒にこぼれる。
森は娘を見た。
その顔を見て、一瞬だけ静かになる。
だが、次の瞬間にはまた病室の方へ目が向いていた。
病室の奥から、年配の患者の声が飛ぶ。
「先生」
森がそちらを見る。
「こっちも診てくれますか」
冗談とも、本気ともつかない声だった。
だが森は小さく頷いた。
「ええ」
その返答は自然だった。
まるで、今日ずっとその仕事をしてきた人のように。
相馬はナースステーションからその様子を見て、小さくため息をついた。
そのタイミングで、後ろから声がかかる。
「森先生ですか」
高瀬医師だった。
白衣のポケットに手を入れたまま、廊下の先を見る。
相馬は視線を外さずに答える。
「今日も回ってます」
高瀬は短く頷いた。
「この辺りじゃ、知らない人のいない先生でしたからね」
「今は、転倒リスクの高い患者さんです」
相馬の言葉は冷たくはなかった。
ただ、現実だった。
高瀬は口元をわずかに動かした。
「立派だった人でも、認知症になれば仕方ない、では済ませたくないですが」
「病棟としては、そうも言っていられませんね」
相馬はそこで、ようやく高瀬を見た。
「退院、近いんですよね」
「ええ」
「自宅に戻る方向だと聞きました」
高瀬は少し間を置く。
「娘さんひとりでは厳しいと思っています」
「うつの既往もあるそうですし」
相馬は廊下の向こうの孝子を見る。
泣きそうな顔のまま、父を止めることも、突き放すこともできずにいる。
「安西さんとも、もう一度話した方がよさそうですね」
「そうします」
高瀬はそれだけ言って去っていった。
そのころ、森はようやく自室へ戻されていた。
病室の前で、孝子は壁に寄りかかるように立っていた。
沼田はそのそばで、どう声をかけていいか分からない顔をしている。
「すみません」
結局、そんな言葉しか出てこない。
孝子は首を横に振った。
「謝らなくていいです」
そう言いながらも、目は赤かった。
「倒れるまでは……ちゃんとしてたんです」
沼田は黙る。
「診療所で毎日診察して」
「庭の盆栽に水やって」
「同じことを、ずっと……」
声が途切れる。
「半年で、全部なくなるなんて思ってなかった」
沼田は何も言えなかった。
森は病棟を歩き回る、困った患者に見えていた。
今も危ないことに変わりはない。
だが、その言葉を聞いたあとでは、それだけの人には思えなかった。
ナースステーションでは、相馬の前に新しい影が立っていた。
宮本だった。
相変わらず無精ひげが残り、髪も整っていない。
白衣のポケットに手を入れたまま、相馬に視線を向ける。
「最近、転びそうになることが増えていると聞きました」
「ええ」
相馬は短く答える。
「どこへ行くか分からないので、目が離せません」
宮本はすぐには言葉を返さなかった。
記録にも、相馬にも、孝子にも目を向けない。
ただ、廊下の向こうを見ている。
森が自室の前で立ち止まり、次に行く部屋を思い出そうとするみたいに、しばらく扉の表示を見つめていた。
「今も、回っています」
相馬が静かに言う。
宮本は、わずかに目を細めた。
「そうですか」
それだけだった。
だが、その目は、ただ困っている患者を見る目ではなかった。
――第2話 終




