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語らない仕事 ―人がもう一度、立つ場所を探す仕事―  作者: 比良野 瞬
第3章 回診する人

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第1話 枯れる松柏

 春の朝だった。


 診療所の庭では、鉢の上に乗った若葉が、やわらかい光を受けて揺れていた。

 昨夜の雨がまだ少し残っていて、盆栽の枝先には小さな水滴が光っている。

 いちばん奥の黒松は、森がいちばん長く手をかけてきた鉢だった。

 伸ばす枝と落とす芽を、森は毎年ほとんど迷わず決めてきた。


 掃いたばかりの土の上には、散った花びらがまだ少し残っていた。


 森秀三は、その庭をしばらく眺めていた。


 白衣の袖を肘まで折り返し、湯呑みを片手に立っている。

 白髪は朝の光に少し透け、分厚い眼鏡の奥の目は細められていた。

 盆栽の枝先を見ている時だけ、森の顔は診察室にいる時より少しやわらかくなる。


 待合室の中から、人の話し声が聞こえる。


「また先生に食べすぎって言われるよ」

「言われる前に分かってるよ」

「分かってたら来ないでしょ、あんた」


 笑い声が重なる。

 古いソファのきしむ音。

 受付窓口でカルテをめくる音。

 消毒液と湿布の匂い。

 三十年、ほとんど同じように繰り返されてきた朝の音だった。


「先生、また庭ですか」


 後ろから、よく通る声が飛んだ。


 森が振り向くと、白衣の上からエプロンをかけた大谷和代が立っていた。

 六十歳手前。

 丸みのある体つきで、動きはきびきびしている。

 採血トレーを片手に持ちながら、呆れたように眉を上げた。


「患者さん、もう座るとこないですよ」


「待つのも治療のうちだ」


 森は振り向きもせず、湯呑みに残った茶をすすった。


「そんな乱暴なこと言ってると、今どきは怒られますよ」


「怒られても治ればいい」


 和代は鼻で笑った。


「治らないから来てるんですって」


 そこへ受付の奥から、もう一人声が飛ぶ。


「お父さん」


 娘の孝子だった。


「お茶飲んでないで、早く始めて」


 五十代に入った顔には、疲れが薄く残っている。

 だが、薬袋を並べる手は速い。

 カルテは診察順にきっちり重ねられ、問診票の位置にもずれがない。


「待たせるとまた血圧上がるって言われるの、私なんだからね」


「上がる前に来る方が悪い」


「そういうこと言うから嫌われるの」


「嫌われてたら三十年もやれん」


 森が言うと、孝子は小さく息を吐いた。

 和代は横から口を挟む。


「はいはい、親子げんかはあとにして。先生、診察室。孝子さん、次の人入れて」


 この二人に急かされるのも、森にとってはもう日常の一部だった。

 森は湯呑みを窓際に置き、庭の盆栽にもう一度だけ目をやる。

 次に切るなら、右に伸びたあの枝だな、とぼんやり思う。

 春の芽は、放っておくと形を崩す。


「先生」


 孝子が診察室の扉を少し開ける。

 その呼び方は、娘というより、診療所の事務の声だった。


 森はようやく診察室へ入った。


 午前の診察は、いつものように始まった。


 咳の長引く老人。

 血圧を気にする婦人。

 膝の痛みを訴える農家の男。

 春先はどうしても、冬の疲れが遅れて顔を出す。


「先生、また血圧が高くてねえ」


 七十代の女性が、診察椅子に座るなり言った。

 森はカルテを見る前に、まず顔を見た。


「眠れてますか」


 女性は少しきょとんとする。


「え」


「夜、寝られてるかって聞いてるんです」


「ああ……そう言われると、あんまり」


 森は小さく頷いた。

 血圧計の数字より前に、答えは顔に出ている。

 まぶたの重さ、首の角度、声の張り。

 数字はあとからついてくる。


「塩分も大事だけど、それより寝なさい」

「夜中のテレビは消す」

「散歩は、昼じゃなくて朝」


 ぶっきらぼうな言い方だった。

 だが、女性は安心したように笑った。


「先生は薬増やさないから助かるよ」


「増やしたって、寝ない人は寝ない」


「相変わらずだねえ」


「相変わらずじゃなきゃ困るだろう」


 女性は笑いながら帰っていく。

 待合室から「先生に怒られたの?」という声が聞こえ、また別の笑いが重なった。


 診察室の外では、和代が次の患者の血圧を測っている。

「ほら、腕の力抜いて」と言う声が聞こえる。

 孝子は窓口で薬の説明をしている。

 それぞれの持ち場が、長年かけて身体に染みついた動きで回っていた。


 その町では、森は名医ではなかった。

 テレビに出るような医者でもない。

 難しい手術をするわけでもない。

 だが、長く続けてきた。

 同じ場所で、同じように人の顔を見てきた。


 引退の話が出なかったわけではない。

 七十を越えた頃から、周囲は何度も言った。

 和代にも孝子にも言われた。

 だが、森は首を縦に振らなかった。


 跡を継ぐ者はいない。

 息子はいない。

 娘の孝子は、離婚して戻ってきてから、事務を手伝っている。

 だが、医師ではない。

 森が辞めれば、この診療所は終わる。


 それが分かっていたから、辞めなかった。

 町の人間も、それを知っていた。

 だから、あえて強くは言わなかった。


 昼前になり、最後の患者を見送るころには、待合室のざわめきもだいぶ薄くなっていた。

 和代が診察室のドアを半分開ける。


「先生、午前終わりです。さすがに少し休んでください」


「休んでるよ」


「それ、休んでる人の顔じゃないです」


 孝子が帳簿を閉じながら言う。


「昼、どうする?」


「あとでいい」


 和代が呆れたように首を振る。


「先生はいつもそれ。で、あとで低血糖みたいになるんだから」


「ならん」


「なります」


 和代はきっぱり言い切った。

 孝子は苦笑しながら、森の湯呑みに茶を入れた。

 診療所の裏口から差し込む風が、わずかに暖かい。


 森は湯呑みを受け取り、一口すすった。


 そのときだった。


 茶の表面が、わずかに揺れたように見えた。

 いや、揺れたのは手の方だったのかもしれない。


 森は、何かを言おうとした。

 だが、言葉がうまく出ない。


 窓の外の盆栽が、急に白くにじむ。

 湯呑みが傾き、茶が畳にこぼれた。


「先生?」


 和代の声が変わる。


 森の身体が、ゆっくり左へ傾いていく。

 立て直そうとしたが、左足が思うように出ない。

 椅子の脚が床をこすり、鈍い音がした。


「お父さん!」


 孝子の叫び声が響く。

 和代はすぐに森の肩を支えた。


「孝子さん、救急車!」


 その声は太く、迷いがなかった。

 さっきまでの診療所の空気が、一瞬で別のものに変わる。


 森は遠くで誰かが叫んでいるのを聞いていた。

 自分の身体が、もう自分のものではないように感じていた。

 視界の端で、庭の盆栽だけが春の光を受けていた。


 それを最後に、森は意識を手放した。



 春の終わり。

 庭の盆栽は、まだ青かった。


 初夏。

 若葉は濃くなり、切られるはずだった芽がそのまま伸びた。

 だが、水をやる人はいない。


 梅雨。

 鉢の土は雨を吸う。

 形を整えられていた枝先が、少しずつ輪郭を失っていく。


 盛夏。

 葉先はところどころ色を失い、乾いた土には細いひびが入った。

 診療所の窓は閉ざされたままだ。

 看板には、白い紙が一枚貼られている。


 休診のお知らせ。

 やがて、それも色を失った。


 鉢のいくつかは、とうとう葉を落とした。

 朝ごとに水を受けて光っていた枝先は、もう動かない。



 半年後。


 病棟の廊下を、白髪の男が歩いていた。


 白衣ではない。

 名札も下げていない。

 病院のパジャマの裾が、足首でわずかに揺れる。


 それでも、その歩き方にはどこか職業の匂いが残っていた。


 左に少し傾き、左足をわずかに引きずる。

 ときおり身体が流れ、転びそうになる。

 だが、そのたびに立ち止まり、体勢を立て直す。


 森秀三、七十五歳。

 右放線冠の脳梗塞で入院して、もうすぐ半年が経つ。


 手足は動く。

 少しぎこちないが、歩ける。

 話もできる。

 病院にいることも分かっている。


 ただ、ときどきここを、自分の仕事場だと思っていた。


 森は病室の前で足を止めた。

 扉の表示を見て、軽く頷く。


 分厚い眼鏡の奥の目が、静かに細められる。


「失礼しますよ」


 そう言って、森は扉に手をかけた。


 ――第1話 終


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