第7話 新しい居場所
八月中旬の夕方。
昼の熱を抱えたまま、空気がゆっくりと沈みはじめていた。
蝉の声はまだ高く、アスファルトから立ち上る熱が足元にまとわりつく。
デイケアの駐車場の一角に、簡素な屋台が組まれている。
赤いビニール屋根が、夕陽を透かして鈍く光る。
風に揺れる音だけが、小さく鳴っていた。
近所の子どもたちが、すでに集まっている。
ビー玉みたいな汗を額に浮かべ、紙うちわで首元をあおぎながら、
機械のまわりをのぞき込んでいた。
利用者の家族が椅子を並べ、職員が延長コードを踏まないように声をかける。
焼きそばの油の匂いと、溶けはじめた砂糖の甘い匂いが混じっていた。
派手な飾りはない。
提灯も少ない。
それでも、いつもより人の声が多いだけで、そこはもう祭りの顔をしていた。
その中心に、田島がいた。
腕まくりをし、綿あめ機の前に立っている。
今日は長袖ではない。
シャツの肩口から、色の抜けた入れ墨がのぞいていた。
隠していない。
隠す必要もないみたいに、そこにいた。
ただ、最初の数秒だけは、肩に力が入っていた。
田島は棒の本数を確かめ、ざらめの袋の口を見て、機械の縁に右手をそっと置いた。
左手で棒を持つ。
右手は思うようには動かない。
それでも、その位置だけは迷わない。
少し離れた場所で、篭原が見ていた。
白衣の上からうちわで首元をあおぎながら、表情はほとんど動かさない。
その横に、宮本が立っている。
無精ひげは変わらないが、黒いジャージ姿だった。
声をかけるでもなく、手を貸すでもなく、ただ田島の背中を見ていた。
モーターが回る。
砂糖が溶ける音が、かすかに響く。
白い糸が、空気の中でほどけはじめる。
その瞬間、田島の肩から余計な力が抜けた。
「そんなに力、いらねえんだ」
綿あめ機をのぞき込んでいる子どもに言う。
声は大きくない。
だが、夏のざわめきの中でも、よく通った。
白い糸がふわりと舞う。
棒のまわりで、少しずつ雲になる。
田島は目線を落とし、左手の手首の角度だけを微妙に調整した。
右手は機械の縁に添えられたまま、身体の位置を支えている。
握れなくても、そこにあるだけで十分だった。
「ほら、ここで回すんだ。やってみるか」
子どもが棒を受け取って真似をする。
回すのが早すぎて、白い糸が片側に寄る。
綿あめが崩れる。
田島は笑わない。
責めない。
急がせもしない。
「いいんだ。もう一回やるか」
低い声で、そう言う。
教えるときの間の取り方が、昔から身体に残っているみたいだった。
子どもがもう一度、棒を回す。
今度は少しだけ形になる。
「そう、それでいい」
その声に、子どもが顔を上げる。
褒められたことより、ちゃんと見てもらえたことが嬉しい顔だった。
近くで見ていた高齢の利用者が、小さく手を叩いた。
職員がさりげなく椅子を寄せる。
別の子どもが「次、ぼく」と背伸びする。
母親たちは少し離れて、それを見ている。
「上手だねえ」
誰かが言う。
田島は軽く頷くだけだった。
照れたようにも、当然だというようにも見える頷き方だった。
子どもが完成した綿あめを持って母親の元へ走る。
母親は、田島に小さく会釈する。
それだけだった。
誰も、過去のことを聞かない。
誰も、事情を知らない。
ただ、上手に綿あめを作る人が、そこにいる。
そのことが、田島の背中を少しだけ広く見せていた。
フロアの端で、篭原が小さく息を吐く。
宮本は何も言わない。
田島の背中が、もう十分に語っていた。
やがて、近所の子どものひとりが言った。
「おじさん、すごいね」
田島の手が、ほんの一瞬だけ止まる。
おじさん。
昔なら気にも留めなかった呼ばれ方だった。
だが今は、その言葉が妙に胸の奥へ落ちた。
昔の自分からは少しずれていて、今の自分には不思議なくらい収まりがいい。
「別に、慣れてるだけだ」
ぶっきらぼうに返す。
だが、口元はわずかに緩んでいた。
夕暮れの風が、少しだけ吹いた。
右手は機械の縁に添えられたままだった。
自由には動かない。
それでも、左手の動きを下から支えている。
握れなくても、支えられる。
それで十分だった。
祭りが終わるころには、駐車場の熱も少し引いていた。
赤い屋根の影が長く伸びる。
砂糖の甘い匂いだけが、まだ空気に残っている。
田島は最後の紙棒を箱に戻し、機械のスイッチを切った。
モーターの音が止まると、急に蝉の声が大きく聞こえた。
「お疲れさまです」
若い職員が声をかける。
「……ああ」
田島は短く答える。
右手を機械から離すと、指先が少しだけ震えていた。
疲れている。
だが、その顔には、部屋の中にいたころの重さがない。
篭原が近づく。
「無理、してませんか」
「してねえよ」
即答だった。
だが、声が少しかすれている。
篭原はそれ以上言わない。
代わりに、冷えたお茶を差し出した。
田島は左手で受け取る。
「……ありがとよ」
聞き逃しそうな声だった。
篭原は返事の代わりに、小さく頷いた。
宮本は少し離れたところで、それを見ていた。
田島は片付けが進む駐車場を見回した。
椅子を運ぶ職員。
帰り支度をする家族。
笑いながら綿あめを食べる子ども。
誰も自分を特別扱いしていない。
そのことが、不思議なくらい悪くなかった。
祭りの片付けが一段落したころ、篭原が冷えたペットボトルを持ってベンチに腰を下ろした。
宮本は少し離れて立っていたが、篭原が何も言わないので、そのまま隣に腰を下ろした。
「無理してる顔じゃなかったね」
「ええ」
「ああいう顔、昔から見逃さないよね」
宮本はペットボトルの水滴を指でなぞったが、何も言わなかった。
夕方の空には、まだ熱が残っていた。
数日後の訪問。
蝉の声は少し減り、窓から入る風にほんのわずかに涼しさが混じっていた。
田島は、胡坐をかいたまま言った。
「祭りの日さ、小さい女も見てたな」
宮本は黙ったまま小さく頷く。
「ありがとな」
田島は一度、視線を畳に落とした。
「……ああいうの、嫌いじゃねえ」
少し間があってから、田島が言う。
「デイケア行くのも、楽しいんだけどさ」
田島は、窓の外に視線を向けた。
「……あそこで働くのも、悪くねえな」
決意でも宣言でもない。
ただ、思いついた言葉を置いただけのような言い方だった。
宮本は、すぐには返さない。
田島の右手は膝の上にある。
力は入っていない。
だが、完全に落ちてもいない。
「そうですか」
それだけだった。
それで足りることを、二人とも知っていた。
窓の外を見ていた田島がつぶやいた。
「今度、川にでも行くか」
壁に立てかけた釣り竿に目を向ける。
ふいに、行けなかった川まで行ける気がした。
「そうですね。外を歩くのも考えましょう」
宮本の言葉はいつもと同じだった。
「おい、リハビリにするのかよ」
「そうです」
部屋の中だけだった景色が、少しずつ外へ伸びている。
だが、宮本はそれを言葉にはしなかった。
開いた窓から風が入る。
前なら閉じたままだった窓が、今日は開いている。
季節は秋に変わった。
遠くの山々が赤く色づきはじめ、朝晩は上着が欲しくなる。
川辺は静かだった。
川向こうに、釣り人の影がいくつか見える。
水の流れは一定の音を立て、秋の風が草を撫でていく。
宮本と田島は並んで竿を出していた。
風は弱い。
水面に細かい波紋が広がる。
田島の右手は、相変わらず自由には動かない。
それでも、竿の下に確かに添えられている。
左手が角度を調整し、右手が重さを受け止める。
数か月前、ここまで歩いて来ることを田島は考えていなかった。
宮本は、それを口にしない。
田島も振り返らない。
「なあ」
竿先を見たまま、田島が言う。
宮本は視線を水面に置いたまま、耳だけを向ける。
「デイケアで、働くことになった」
仕事内容の説明はない。
条件も、時間も、語られなかった。
だが、宮本にはそれで十分だった。
「そうですか」
宮本は、ゆっくり頷く。
そのあと、しばらく誰も何も言わなかった。
風が吹き、水が揺れる。
竿先が、わずかにしなる。
治ってはいない。
麻痺も消えていない。
それでも、田島はもう、部屋の中にはいなかった。
浮きが、わずかに沈む。
田島の左手が動き、右手がその重さを受ける。
秋の風が、二人の間を静かに通り過ぎた。
――第7話 終
第2章 完




