第6話 男の立ち位置
次の訪問の日は、小雨が降っていた。
今までの暑さはなく、蝉も休んでいるようだった。
濡れた手すりは鈍く光り、団地の通路には雨の匂いが残っている。
宮本が田島の部屋に入ると、空気がいつもより軽かった。
窓は少しだけ開いている。
畳の上に落ちる光も、前より明るく見えた。
田島は、宮本が聞くより先に話し始めた。
「小さい女が、あんまりリハビリをさせてくれねえんだ」
「職員がずっと走り回ってんだよ」
文句を言っているようで、声は楽しげだった。
「見てると分かるんだよな。危なっかしいのが」
宮本はそれを遮らずに聞いていた。
「そうですか」
「そうだよ」
「誰が何しようとしてるかってとこ、分かるんだよな」
田島は胡坐のまま、左手で膝を掻いた。
右手はいつものように、膝の上に置かれている。
少し間を置いてから、田島が言う。
「そういや、デイケアで夏祭りをやるらしいな」
田島の視線が、部屋の壁の向こうへ抜けていく。
何かを思い出すときの目だった。
「夏祭りでさ、子どもたちに綿あめをよく作ってたな」
左手が、空中で小さく円を描く。
綿あめの棒を回すような仕草だった。
「大きく作るコツがあるんだよ」
「芯をずらさねぇこと。焦ると、形が崩れる」
右手は膝の上にある。
動きはしない。
だが、左手の円は、昔の記憶をなぞるみたいに正確だった。
宮本は静かに聞いていた。
田島は少し照れたように鼻を鳴らす。
「まあ、今さらそんなこと言ったって仕方ねえけどな」
「そうですか」
それ以上、宮本は広げなかった。
広げれば、田島は引っ込める。
今はまだ、言葉に追いつかせるより先に、本人の中で形になるのを待つ方がいい。
そのあと、いつものように訓練をした。
立ち上がり。
方向転換。
玄関の上がり框。
田島の動きは相変わらずぎこちない。
右足は少し遅れ、右腕も思い通りにはついてこない。
だが、身体の扱い方には迷いが減っていた。
動作の前に、どう動くかを一瞬だけ考えるようになっている。
訓練が終わり、宮本が玄関にさしかかった時、思い出したように田島に声をかけた。
「機械の訓練は、やりすぎると逆効果です」
「ん、そうなのか」
田島は、曖昧な返事を返した。
聞いているのか、いないのか分からない。
だが、その視線はもう部屋の中にはなかった。
「無理に頑張ると、次の日に響きます」
「……ああ」
返事は短い。
それでも、前みたいな投げやりさはない。
宮本は頷いて、扉を開けた。
雨はほとんど上がっていた。
どこかでまた蝉が鳴き始めている。
季節はまだ、夏の中にいた。
宮本は車に乗り込んだ後、窓から市営住宅を眺めていた。
そして、左手で田島のように空中で小さく円を描く。
「……やるか」
そうつぶやいて、エンジンキーに手を伸ばした。
車は、濡れたアスファルトを静かに走り出した。
向かう先は、篭原の勤めるデイケアだった。
デイケアの建物の白い壁は黄色く染まっていた。
宮本は入り口を抜ける。
利用者の送迎が一段落した時間帯で、建物の中は比較的静かだった。
小柄なボブヘアはすぐに見つかった。
彼女は、フロアの端で記録を書いていた。
白衣の袖を少しまくり、髪を耳にかけて、机に向かっている。
年齢は三十代後半のはずだが、時間の跡があまり残っていない。
昔と比べて何が変わったのか、すぐには分からないくらいだった。
宮本に気づくと、篭原はペンを置いた。
すぐには立ち上がらず、一拍だけ遅れて小さく頷く。
「来たんだ」
そっけない言い方だった。
だが、距離のある相手に向ける声ではなかった。
「はい。少し話せますか」
「今なら」
二人は、フロアの隅に置かれた丸テーブルに移った。
周囲では、利用者がそれぞれの時間を過ごしている。
うとうとしている人。
窓の外を見ている人。
職員が静かにコップを片づけている。
「田島さんのことなんですが」
宮本は余計な前置きをしなかった。
「夏祭りをやると聞きました」
「うん。毎年、規模は小さいけどね」
篭原はそう答えて、宮本の次の言葉を待った。
「綿あめの機械はありますか」
篭原は、すぐには返さなかった。
一拍置いてから言う。
「相変わらず、言葉が足りない」
宮本は目を伏せ、一言だけ足した。
「的屋でした」
篭原の視線が、一瞬だけ止まる。
「……本人がやりたいって言った?」
「いえ」
「じゃあ、まだ決めてないんだ」
「決めるのは、本人です」
篭原は、少しだけ口角を上げた。
先日の電話の意趣返しみたいでもあった。
「そうだね」
宮本は続ける。
「夏祭りの話が出たときだけ、手つきが違いました」
「綿あめの作り方も、体が覚えているようでした」
篭原は黙って聞いている。
「昔みたいに、できると思ってるわけじゃないよね」
「できなくても、いいんです」
宮本の声は静かだった。
「立つ場所があれば」
篭原は、しばらく宮本を見ていた。
視線の中に、仕事の計算と、それだけでは割り切れない何かが混じる。
「失敗したら、本人が傷つくかもしれない」
「ええ」
「疲れすぎるかもしれない」
「分かっています」
「それでも?」
宮本は頷く。
「選べる形にしたいんです」
短い沈黙が落ちる。
篭原は小さく息を吐いた。
「綿あめの機械は、手配できるよ」
その返事は短かった。
宮本は何も言わない。
篭原が続ける。
「ただし、やるかどうかは本人次第」
「無理はさせない」
「見せ場なんて、作らない」
「それでいいです」
篭原は視線を外し、窓の外に目をやった。
雨上がりの駐車場に、薄い夕方の光が残っている。
「……だから、あなたは変わらないんだね」
その言葉に、宮本は答えなかった。
答える必要がないことを、二人とも知っていた。
宮本が事務所へ戻る頃、再び雨が降り出していた。
濡れたアスファルトが、夕方の薄い光を鈍く返している。
引き戸を開けると、湿った空気がまだ室内に残っていた。
栗橋が記録から顔を上げる。
「どうだった?」
宮本は鞄を机に置いた。
「デイケアの夏祭りで、綿あめをやるそうです」
長岡がすぐに反応した。
「綿あめ?」
黒羽が眉間にしわを寄せて腕を組む。
「……それ、本人がやりたいって言ったのか」
「まだです」
伊藤が記録から目を上げる。
「右手が使えない状態で、機械を扱うのは危なくないですか」
「だから、やらせる話ではありません」
宮本の声は静かだった。
「立つ場所になるかもしれない、という話です」
黒羽の眉間のしわは変わらないが、口は開かない。
長岡は首をひねる。
「昔みたいにできなくて、逆につらくなることもありませんか」
その言葉に、栗橋が宮本を見る。
「本人が、本当にそれを望むなら、ね」
宮本は短く頷く。
「決めるのは本人です」
伊藤が静かに言う。
「デイケア側が受けてくれるなら、形にはなると思います」
柏は黙ってキーボードを打っていた。
だが、その手が一瞬止まる。
「……上手くできるかどうかより、そこに立てるかどうか、ということですか」
室内が一瞬だけ静かになる。
黒羽が鼻を鳴らした。
「相変わらず、回りくどいこと考えるな」
だが、否定ではなかった。
栗橋が小さく頷く。
「じゃあ、ケアマネにも話しておくわ」
「本人が引けなくなる形にはしないようにしましょう」
「ありがとうございます」
宮本は短く頷いた。
扇風機が首を振る。
書類の端が、かすかに揺れる。
夏祭りはまだ先だった。
それでも、その場にはもう、始まる前の静けさがあった。
まだ見えない綿あめの白い糸が、
どこか遠くで、ゆっくりほどけ始めているようだった。
――第6話 終




