第5話 踏み出した場所
その日の夜。
流しの水滴が、ぽたりと落ちた。
呼び出し音が鳴る。
一度。
二度。
二度目で、つながった。
「……久しぶり」
篭原の声は、変わっていなかった。
少し低く、感情をあまり乗せない声だった。
宮本は、部屋の白い壁に視線を向けたまま言う。
「今、大丈夫ですか」
「うん。ちょうど終わったところ」
背後に、食器の触れ合う音が小さく混じる。
「折り入って、相談があります」
宮本は必要な情報だけを伝えた。
五十代。
くも膜下出血で倒れてから二十年。
右片麻痺。
独居。
最近、立ち上がりと歩行が不安定になってきている。
「……正直に言うね」
篭原の声が少し硬くなる。
「簡単なケースじゃないと思う」
「そうですね」
短い応答。
「デイケアに合うかどうかも、分からない」
「ええ」
沈黙が落ちる。
呼吸の音だけが、わずかに重なる。
「でも」
篭原の声が、ほんの少しだけ変わった。
「話を聞く価値はある人?」
確認のようだった。
宮本は即答しなかった。
田島の、祭りの話を思い出す。
綿あめの棒を回す手。
人の流れを読む目。
「人の中に立っていた人です」
それだけだった。
電話の向こうで、小さな息が漏れる。
「……分かった。会ってみる」
「ありがとうございます」
「ただし、無理はさせない」
「分かっています」
通話が切れる。
画面が暗くなる。
宮本は、暗くなった画面をしばらく見ていた。
遠くで、蝉がまた鳴き始めた。
数日後。
八月の空気は、七月よりも重かった。
湿り気が肌に貼りつき、シャツの背中を離れない。
デイケアの送迎車が、市営住宅の前に止まった。
白い車体のエンジン音が、古い建物の壁に小さく跳ね返る。
止まった瞬間、蝉の声だけが残った。
田島は、建物の陰からゆっくり姿を見せた。
帽子を深くかぶっている。
髭はきれいに剃られていた。
右手はズボンのポケットの奥に沈められ、肩から先の形を隠している。
長袖の黄色いシャツ。
真夏には不自然なほど厚い布地の下に、色の抜けた入れ墨も見えない。
普段のランニングシャツ姿とは、別人のようだった。
送迎車の前まで来ると、田島は一度だけ足を止めた。
ほんの数歩の距離なのに、そこに見えない段差があるみたいだった。
「田島さんですね」
運転席の職員が窓を開け、やわらかく声をかける。
「……ああ」
田島は短く答える。
左手で帽子のつばを直す。
指先に、汗がにじんでいた。
「暑くないですか?」
軽く笑いながらの問いに、田島は少し間を置いた。
「……ああ、大丈夫だ」
大丈夫、という言葉ほど当てにならないものはない。
シャツの背中は、すでにじっとり濡れていた。
職員はそれ以上言わない。
車内は冷房が効いていた。
外の熱気が切り離され、乾いた空気が顔に当たる。
田島は黙って窓の外だけを見ている。
見慣れた景色が、今日は少しだけ遠く見えた。
助手席の職員が振り返る。
「初めてだと、緊張しますよね」
田島は窓の外を見たまま答えた。
「別に」
即答だった。
だが、その声はわずかに硬い。
職員は笑うでもなく、受け流すでもなく、小さく頷いた。
やがて、車がゆっくり速度を落とす。
田島は、窓の外に現れた建物を見た。
想像していたより、小さい。
白い外壁。
入り口脇の花壇には、弱ったマリーゴールドが咲いている。
「着きましたよ」
職員の声に、田島はすぐには答えなかった。
帽子の下で一度だけ目を閉じて、短く息を吐く。
それから、左手でドアの取っ手に触れた。
施設の自動ドアが開く。
冷房の風が顔に当たる。
消毒液の匂いと、煮物の匂いが混じる。
床には車椅子のタイヤ跡が、薄く残っている。
奥から笑い声が聞こえる。
フロアには十数人の利用者が見える。
椅子に座り、新聞を読む人。
テレビを見ている人。
忙しそうに動く職員らしい人。
田島は、一歩遅れて入った。
そのとき、小柄な女性が近づいてきた。
ボブヘアが揺れる。
白衣の袖が少し余っている。
「はじめまして。作業療法士の篭原です」
声は落ち着いているが、視線はまっすぐだった。
田島は、目線を少し下げる。
「……リハビリが受けられるって聞いたから来ただけだ」
予防線を張る。
篭原は、田島の右手を見たが、触れなかった。
「今日は、体験で十分ですよ。どうぞ、こちらに」
篭原は余計なことは言わない。
篭原の案内でリハビリテーションルームへ入る。
平行棒。
レッグプレス。
エルゴメーター。
バランスボール。
整然と並ぶ訓練機器。
田島の目が、変わる。
帽子の影の奥で、瞳がわずかに明るくなる。
「へぇ……こんなにあるのか」
その声には、少年の響きが混じっていた。
田島はエルゴメーターに手を伸ばした。
「筋力はありそうですね」
篭原はエルゴメーターを調整しながら話す。
田島は帽子を脱ぐ。
汗が首筋を流れ、シャツの襟に染みる。
回転が上がる。
呼吸が荒くなる。
右脚が遅れ始める。
「今日はここまでにしましょう」
篭原の声は柔らかいが、動かない。
「まだいける」
「いける、で続けると、明日がなくなります」
田島は舌打ちしそうになって、飲み込んだ。
目の前の女性は、小さい。
だが、その声は少しも揺れなかった。
その引かなさが腹立たしく、それでいて妙に納得できた。
「……分かったよ」
昼食後のフロアは少し落ち着いている。
利用者がうとうとしている。
職員が配薬を確認している。
誰かがテレビのボリュームを上げる。
田島は椅子に座り、全体を見ていた。
職員の動線。
利用者の表情。
誰が落ち着かないか。
誰が手持ち無沙汰か。
的屋のときと同じ目になっていた。
テーブルに水の輪ができている。
田島は立ち上がる。
布巾を取り、左手で拭く。
右手は、最後までポケットの中にあった。
拭き残しがないか、目で確認する。
若い職員が気づく。
「あ、ありがとうございます」
田島は帽子をかぶり直す。
「別に」
だが、口元がわずかに緩んでいる。
高齢の男性が落ち着かない様子で立っているのが目に入る。
田島はそれを見て、すぐに職員を見る。
「あの人、トイレだろ」
「助かります」
田島は視線をそらす。
「……仕事でもねえのに」
夕方、ひとりの女性利用者が田島の横に座った。
「背が高いねえ。息子みたいだ」
田島は利用者を見て固まる。
息子。
その言葉は、胸の奥に小さく触れた。
二十年、誰にも呼ばれなかった呼び名だった。
「そんな歳じゃねえよ」
田島は照れて横を向いた。
だが、その場を離れなかった。
帰りの送迎車。
窓の外を見ながら、田島は右手をポケットから出した。
汗で湿っている。
動かない。
だが、その手は今日、ずっと人の中にあった。
翌日の訪問リハビリの後。
田島は宮本の前で、いつものように胡坐をかいていた。
だが、空気が少し違う。
前より、部屋の中に言葉が残っている。
黙って終わる空気ではなかった。
「ジムみてえだったな」
田島が先に言う。
宮本は頷く。
「そうですか」
「機械、あんなにあるとは思わなかったな」
「でっかいのも、小せえのも、いろいろあったな」
田島は視線を畳に落とし、指先で畳をなぞる。
「……あの小さい女、すぐ止めるし」
篭原のことだとすぐ分かった。
「そういや、あそこの職員、忙しそうだったな」
「ええ」
「じじいもばばあも、好き勝手してるしよ」
言い方は悪い。
だが、声の奥に嫌悪はない。
見ていた、という響きの方が強い。
「でも、ああいうとこって分かるんだよな」
「誰が何しようとしてるか」
宮本は何も言わない。
田島が自分でそこに触れるのを待つ。
「でもまぁ……悪くねえな」
その言い方は、認めたくない何かを認めた響きだった。
宮本は、小さく頷いた。
部屋の空気が、ほんのわずかに抜けた。
閉じていた窓が、見えないところで開いたように。
その日の夜。
宮本が仕事を終えて帰宅したとき、不意にスマートフォンが震えた。
手を洗おうとしていた水道の音が、一瞬だけ大きく聞こえる。
画面には、見知った名前が表示されていた。
篭原千都子。
宮本は一拍だけ指を止めて、通話を押す。
「田島さん、来たよ」
用件だけを言う声だった。
「どうでした」
「最初は警戒してた。でもね」
背後で書類をめくる音がする。
誰かが笑う声。
デイケアの事務室だろう。
「人の動きを、よく見てる」
宮本は、何も言わない。
「頼んでないのにテーブル拭いてくれたし、他の利用者さんのトイレにも気づいた」
そして、少しだけくすりと笑う。
「リハビリと筋トレ、勘違いしてるけど」
宮本の口元が、わずかに緩む。
「やっぱり……」
「田島さんに頑張りすぎないように言ってよ」
軽い調子だが、責めている。
篭原が続ける。
「……でもね」
声が少し低くなる。
「人の中にいた人だってことは、分かった」
宮本は目を閉じる。
田島がテーブルを拭く姿が浮かぶ。
「彼は、通えそうですか」
即答はなかった。
「本人がいいならね」
それは、篭原なりの肯定だった。
「そうですか」
声は淡々としている。
だが、指先の力が抜けている。
「無理はさせない」
「分かっています」
短いやり取りのあと、通話が切れた。
画面が暗くなる。
宮本はしばらく動かなかった。
篭原の声。
田島の視線。
湿った夏の空気。
それぞれが、まだ少しずつ耳の奥に残っていた。
――第5話 終




