第4話 立っていた場所
病院の敷地の木立から、蝉の声が絶え間なく降っていた。
外来入口の自動ドアが開くたび、熱気が中へ流れ込む。
本館を抜けて渡り廊下へ出ると、冷房の気配は途切れ、
ガラス張りの通路に熱がこもっていた。
その朝は、早い時間から暑かった。
冷房は入っているのに、訪問リハビリの事務所には熱が薄く残っている。
扇風機が首を振るたび、机の上の書類の端だけがかすかに揺れた。
宮本は机の上に田島の記録を広げていた。
机上の湯のみには、まだ口をつけていないコーヒー。
黒羽が腕を組んだまま、記録用紙を覗き込む。
「どうだ、例の人は?」
宮本はすぐには答えなかった。
記録に目を落としたまま答える。
「立ち上がりは少し安定してきています」
「身体機能が落ちてきたから、最近きつくなってきたんじゃないのか」
黒羽の言い方は直線的だった。
言葉に遠慮がないが、現実を先に見るための言い方だった。
長岡が椅子を後ろに傾けたまま続ける。
「二十年片麻痺でやってきたんですよね。そりゃ、いろいろガタはきますよ」
伊藤がパソコン画面を見たまま言った。
「喫煙があり、飲酒量も多い。運動習慣もありません」
「血圧は高めで、血糖値も、以前の受診記録では良くなかったです」
声に温度はない。
ただ、看護師として見えているリスクを、順に机の上へ置いていく。
黒羽が鼻を鳴らした。
「まあ、そうだろうな」
長岡も苦笑する。
「正直、ここから上向く絵はあんまり見えないですね」
柏は少し離れた机でキーボードを打っていた。
会話には入らない。
だが、指の速度がわずかに落ちる。
栗橋は奥の席で、そのやり取りを静かに聞いていた。
急かさない。
否定もしない。
丸い眼鏡の奥の目だけが、宮本の方を向く。
「宮本くんは、どう見てるの」
宮本は記録を閉じた。
「身体的なものだけではなさそうです」
黒羽の眉が動く。
「まだ何かあるのか」
「動作は不安定です。生活習慣にも問題はある。そこは間違いないです」
宮本は一拍置いた。
「でも、それだけなら、もっと前から崩れ始めていてもおかしくない」
伊藤が画面から目を上げる。
「……変化のきっかけが別にあるかもしれない、ということですか」
「ええ」
長岡が首を傾げる。
「でも本人、外に出てないんでしょう。独居で、生活も固まってる」
「だからだと思います」
宮本の声は低いままだった。
「今の生活のままでは、持たなくなってきているように見えます」
事務所に短い沈黙が落ちた。
黒羽が腕を組み直す。
「まだ、行くつもりか」
「……もう少し、行く必要があります」
即答ではなかった。
だが、迷っている声でもなかった。
深い息を吐いてから、栗橋は頷いた。
「分かった」
それだけだった。
賛成も反対も込めない。
ただ、任せるという響きだけがあった。
宮本は鞄を手に取る。
折り紙の束、水筒、記録用紙。
いつもの持ち物の中に、田島という一人分の時間が、今日も入っていく。
扉を開けると、蝉の声がいっそう強くなった。
田島の訪問は四回目になっていた。
市営住宅の通路を歩きながら、
宮本はいつもと同じように視線を流す。
錆の浮いた塗装。
踊り場のひび。
誰かが置いたままの空き鉢。
ここでは、ものが静かに年を取っていく。
田島の部屋の扉の前で止まり、ノックをする。
コン、コン。
「……おう」
返事は早く、すぐに扉が開いた。
前のように、鍵を探る間はなかった。
「おはようございます」
「おう」
田島はいつもの白いランニングシャツに短パンだ。
顔色が良くなったわけではない。
だが、目だけは少し違っていた。
こちらへ向ける焦点が、前よりも定まっている。
宮本は靴を脱ぎながら、室内を一度だけ見回した。
部屋の空気は、最初に来た日よりもわずかに動いていた。
畳の上に置かれた座布団の位置が、少しだけ変わっている。
壁に背を預ける位置ではなく、部屋の中央寄り。
誰かと向き合うような位置だった。
玄関の靴も、きちんと揃えられていた。
左右の向きは少しずれている。
だが、揃えようとした手つきが残っていた。
テーブルの上のパチンコ雑誌は、前回より減っている。
代わりに、ペットボトルの水が置かれていた。
蓋は開け閉めを繰り返した跡がある。
「水、飲んでますか」
宮本が聞くと、田島は鼻で笑った。
「……言われたからな」
「誰にですか」
「この前、来た看護師だよ。名前、なんだっけな」
「伊藤さんですか」
「ああ、それだ」
「タバコや酒は控えろとか、おふくろかってな」
覚えている。
それだけで十分だった。
動作確認はいつも通り進んだ。
立ち上がり。
方向転換。
玄関の上がり框。
布団からの起き上がり。
トイレ前の狭い方向転換。
ぎこちなさは残る。
右足は遅れてついてくる。
右腕の振りも遅い。
だが、視線が自然と前を向くようになっていた。
一つひとつの動作に、わずかな構えが生まれている。
動作確認がひと通り終わったあと、田島は胡坐をかいた。
汗を手の甲で拭う。
呼吸は少し荒い。
それでも、以前のようにふてくされた顔にはならない。
しばらく無言だった田島が唐突に言った。
「あのな」
蝉の声が、一瞬だけ強くなる。
「昔な、ちっとは名前の通った組にいたんだ」
宮本は顔を上げた。
表情に変化はない。
「知ってます」
そっけない返答だった。
田島は一瞬だけ目を細め、鼻で笑う。
「は、そうかよ」
少しだけ沈黙が落ちる。
「倒れる前はさ、的屋してたんだよ」
田島の視線が、どこか遠くへ向く。
部屋の壁ではない。
壁の向こう、もっと遠いどこか。
「関東から東北までな。寺社の縁日や夏祭り、秋祭りをさ」
「寝ないでトラックで回ってたんだよ」
左手が、空中に小さな円を描いた。
綿あめの棒を回すみたいな手つきだった。
「綿あめ、かき氷、金魚すくい、いろんなことをしたな」
「子どもが次にどこ見るか」
「カップルには、声のかけ方があんだよ」
「迷子とかな、親より先に見つけたりしてよ」
「まぁ、彫り物見られて泣かれることもよくあったけどよ」
蝉の声の向こうで、遠い祭囃子が鳴っているようだった。
「人の流れってのはな、見てると分かるんだよ」
「次に誰が止まるか」
「誰が迷ってるか」
「誰が、ちょっと背中押してほしいか」
そこまで言って、田島は小さく笑った。
「人が嫌いだったら、できねえ商売だ」
今度は、はっきりと言った。
宮本は相槌を打たない。
ただ、腑に落ちる。
この人は、人の中に立つことが仕事だった。
品物を売っていたというより、人の流れの中に場を作っていた。
人を呼び込み、人に囲まれて生きていた。
今は、狭い部屋の中で、一日をやり過ごしている。
問題は、麻痺だけではない。
役割が、止まっている。
訪問は週に一度。
田島は、その一時間を正確に覚えていた。
玄関の前に座って待つようになった。
玄関のたたきには、いつも同じ場所に汗の跡が残っている。
帰ったあとも、教えた動きを一人で確かめている形跡がある。
座布団の位置が変わったのも、そのせいだろう。
その日、宮本が帰る支度を始めたとき、田島が言った。
「もう一回来れねえの?」
何気ない調子だった。
だが、その声の奥には、漠然とした焦りがあった。
せっかく動き出した時間に、また置いていかれる怖さ。
宮本は靴を揃える手を止めずに答える。
「週一が基本です」
「……だよな」
田島は短く吐く。
納得したふりをする。
だが、視線が部屋のどこにも落ち着いていない。
確かに、動こうとしている。
だからこそ、この部屋の中だけで終わらせてはいけない。
家の中で動きが変わっても、それだけでは世界は広がらない。
宮本は言葉を選んだ。
「通って、リハビリを受けられる場所があります」
田島は眉をひそめる。
「前にも勧められたことがあるけどよ。年寄りばっかのとこだろ」
吐き捨てるような言い方だった。
だが、完全な拒絶ではない。
そこにいる自分の姿を、まだうまく想像できないのだ。
「……外に出るの、めんどくせぇな」
本音だった。
身体が重いから、だけではない。
外に出れば、何者でもない自分がそこに立つ。
宮本の視線が、壁際の釣り竿へ向く。
「外に出る理由が、あればいいんです」
田島が眉を寄せる。
「理由?」
宮本はそれには答えなかった。
まだ、今の田島は答えを受け取れない。
自分で見つけないと、持てない。
「今日はここまでにしましょう」
田島は不満そうに口を曲げる。
だが、立ち上がる。
玄関までの数歩。
以前より、わずかに迷いが減っている。
「また、来週だ」
田島が言った。
「来るな」ではない。
「また来週」だった。
宮本は小さく頷いた。
「はい」
扉が閉まる。
鍵が回る音が遅れて聞こえた。
宮本が事務所へ戻ると、夕方の熱が建物の中にこもっていた。
事務所の職員は、仕事を終えて戻っていた。
栗橋は記録を見ながら言った。
「田島さん、どうだった」
宮本は鞄を置いた。
「ひとつ、わかったことがあります」
黒羽が椅子に深く座ったまま、視線だけを向ける。
「なんだ?」
「人の中にいた人です」
宮本はそれだけ言った。
長岡は持っているペンを止めて首をひねる。
「……どういう意味ですか」
「このまま家の中だけで見ていても、足りないと思います」
伊藤が短く息を吐いた。
「訪問だけで抱えるより、通所の方がいいかもしれませんね」
栗橋が眼鏡を外しながら頷く。
「他にも依頼はあるし、この先を考えるなら、通うサービスに繋いだ方がいいかもしれないわね」
黒羽も腕を組む。
「そうだな、訪問でできることには限界がある。人がいる場所の方が合うなら、通所の方がいい」
柏は黙って記録を打っていた。
だが、一瞬だけ視線を上げてつぶやく。
「……あの人、利用者としては若いですが、大丈夫ですか?」
栗橋が宮本を見た。
「どうする?」
宮本は少しだけ間を置いた。
「リハビリに力を入れているデイケアに相談してみます」
栗橋の表情が、ほんのわずかに止まる。
「……篭原さんのところ?」
宮本は頷いた。
「はい」
短い沈黙が落ちる。
栗橋は、それ以上踏み込まなかった。
ただ一度だけ、確認するように言った。
「いいの?」
宮本は記録用紙を鞄に入れた。
「必要だと思います」
その答えに、黒羽が何も言わず宮本の肩を軽く叩いた。
励ましとも、茶化しともつかない、短い接触だった。
宮本は振り返らない。
だが、その意味は分かっていた。
その夜。
蝉の声は少し弱まっていた。
弱まったぶん、部屋の静けさが目立つ。
流しの水滴が、ぽたりと落ちる。
冷蔵庫が低く唸る。
壁の向こうで、誰かのテレビの音がかすかに揺れる。
宮本は机の上のスマートフォンを手に取った。
連絡先の一覧の中に、ひとつの名前がある。
篭原千都子。
指先が、画面の上で止まる。
まだ発信はしない。
ためらいというより、そこにある時間の長さを測るように。
――第4話 終




