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語らない仕事 ―人がもう一度、立つ場所を探す仕事―  作者: 比良野 瞬
第2章 置かれた場所

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第3話 止まっていた部屋

 薄汚れたカーテンが白く透けて、今日も朝になった。


 まだ暗い六畳間は、夜の匂いが残っていた。

 畳の上には空の缶ビール。

 灰皿には吸い殻が山になっている。


 テレビはつけっぱなしだった。

 誰も見ていないニュース番組が、小さな音で流れている。

 アナウンサーの声だけが、部屋の空気を薄く揺らしていた。


 田島光太郎は畳の上に座っていた。


 右手は、膝の上で半分曲がったまま止まっている。

 手指は動くことはない。

 その存在を忘れてしまっているようだった。


「今日、来るって言ってたな」


 だるそうにつぶやいて、靴下を手に取る。

 左手だけで引き上げようとする。

 だが、うまくいかない。


 靴下が途中でねじれる。

 右足は思うように持ち上がらない。

 膝の角度が決まらず、身体が少し傾く。


「……くそ」


 低く吐き捨てる。

 強引に靴下を引き、右足をなんとか持ち上げる。

 だが、途中で重心が外れバランスを崩す。


 ドン、と尻もちをついた。


 畳が鈍く鳴り、テレビの笑い声だけが部屋に流れる。

 田島はしばらく動かなかった。

 息が、ひとつ遅れて上がる。


 やがて天井を見た。


「……なんでこうなった」


 誰もいない部屋で、小さくつぶやく。


 二十年前に身体の半分が、壊れた。

 仕事も友人も失った。

 それでも生活は続いてきた。


 なんとか歩けた。

 飯も食える。

 酒も飲める。

 だから、誰も頼る必要がなかった。


 ――必要がない、と思い込むことで、やってこれた。


 だが最近、少しずつ歯車が合わなくなっている。

 立ち上がりが億劫になる。

 足が出るまでに時間がかかる。

 外へ出ることを考えるだけで、身体が重くなる。


 生きていること自体が、少しずつ手応えを失っていく。


 その時、玄関の扉をノックする音がした。


 田島は顔をしかめる。

 立ち上がるまでに、少し時間がかかった。

 壁に手をつき、身体を引き上げる。

 右足が遅れてついてくる。


 玄関まで数歩。

 その数歩が、やけに遠い。

 右足を出す。

 身体が左へ流れる。

 左足で踏ん張って、また右足を出す。

 腕の振りが片方だけ遅れる。

 床の上で、影だけがぎこちなく追いついてくる。


「もう来たのか……」


 田島は舌打ちまじりに、玄関へ向かった。



 宮本は、市営住宅の駐車スペースに車を停めた。

 エンジンを切った瞬間、車内にこもっていた熱が肌にまとわりつく。

 ドアを開けると、外気のほうがさらに重かった。

 アスファルトは昼の熱を抱えたまま、足裏からじわりと上ってくる。


 同じ形の建物が、一定の距離を空けて並んでいる。

 塗装はくすみ、階段の手すりはところどころ錆びていた。

 ベランダには色褪せた物干し竿。

 風鈴が鳴らないまま揺れている。


 目的の住所付近には、人影はない。

 テレビの音も聞こえない。

 昼前なのに、時間が止まっているような静けさだった。


 玄関脇には、屋外用の洗濯機が置かれている。

 蓋は閉まっている。

 乾ききらない洗剤の匂いが、わずかに残っていた。


 表札には、田島光太郎。


 宮本がノックをすると、少し時間が空いて扉が開いた。


 白いランニングシャツに短パン姿の男が立っていた。

 背は高く、腹が少し出ている。

 シャツの肩口から、色の抜けた入れ墨がのぞく。

 しかめっ面での出迎えだった。


「……訪問リハ?」

「はい。作業療法士の宮本です」


 田島は宮本を値踏みするように見たあと、無言で中へ招いた。


 部屋は狭い。

 玄関から奥まで、視線が通る。

 玄関に、空の缶ビールだけが入ったゴミ袋。

 流しの脇には、複数の焼酎のボトル。

 テーブルの上には、パチンコ雑誌が何冊も積まれている。


 物は多くない。

 だが、動いていない。


 空気が、淀んでいる。

 生活の流れが、どこかで止まったままの部屋だった。


 二十年、変わらない生活。

 変えられなかった生活が垣間見えた。


 田島は畳の上に胡坐をかいた。

 右手は膝の上に置かれ、指は軽く曲がったまま。

 そこにあるが、使われていない形だった。


 宮本は正面に座る。

 視線を合わせすぎない距離で、声を落とす。


「歩くのが、しんどくなってきたと聞きました」

「ああ。年だろ。もう五十二だしな。麻痺もあるし」


 麻痺。

 二十年間、更新されていない言葉だった。

 田島の言い方は、諦めと開き直りが混ざっている。


「一番つらいのは、どんな時ですか」

「そうだな……立ち上がる時だな」


 ほんのわずかに眉間にしわが寄った。

 宮本は頷いた。


「そこだけ、見せてもらっていいですか」


 田島は左手を畳につき、ゆっくり身体を前に倒す。

 右足は少し遅れてついてくる。

 膝が伸びきらないまま体重が乗る。

 身体が前に出過ぎ、慌てて左足で踏ん張る。


「今、少し前に行きすぎています」


 宮本は視線の高さを指で示した。


「ここを見ると、身体が安定しやすいです」


 田島は、もう一度。

 今度は視線を上げる。

 身体の前方移動が、わずかに小さくなる。


「……ああ」


 今度は崩れない。


「今の方が、マシだな」


 それ以上は言わないが、少しだけ安堵の色が見えた。


 そのあとも、玄関の上がり框、

 トイレの方向転換、布団からの起き上がり。


 宮本は、その場で田島の生活を確認していく。

 できていること。

 難しいこと。

 いますぐ変えられること。

 変えられないこと。


 すべてを変えようとはしなかった。

 少し楽になる形だけを残した。


 田島は再び胡坐をかいた。


「……あんた、分かってんな」


 それは褒め言葉ではなかった。

 警戒が、少しだけ緩んだ音だった。


 宮本は話をしながら、部屋を一度だけ見回した。

 田島の背後の壁に、古い釣り竿が立てかけてあった。

 全体に埃が積もっている。

 新品ではないが、古すぎもしない。


「釣り、やってたんですか」


 宮本がそう聞くと、田島の視線がわずかに揺れた。


「……ちょっと前にな。やれるかと思ったんだよ」


 若いころに釣りが好きだった。

 久しぶりにやりたいと思った。

 だが、左手だけで竿を持つこともできなかった。

 それきりだった。


「よく考えたら、河原まで行くのも……きついのによ」


 少しだけ田島の顔に悔しさが滲んだ。

 宮本は話題を戻す。


「この手、普段はどうしてますか」


 田島は鼻で笑った。


「どうもしてねぇよ。二十年だぞ」

「もう終わってる」


 言い切りだった。

 自分に言い聞かせるような、強い断定。

 宮本は否定しなかった。

 否定すれば、この会話はそこで終わる。


「終わってるっていうのは、動かない、ですか」

「動かねえし、使えねえ」


 田島は少し苛立ったように、右手を左手で持ち上げて放した。

 重力に従って、だらりと落ちる。


「ほらな」


 宮本は、その落ち方を見ていた。

 意思とは無関係に落ちるように見えて、

 落下に抗おうとする張りが、わずかに残っていた。


「……全部じゃないですね」


 田島の表情が強張った。


「は?」

「肩と肘、少し動いてます」


 田島は黙った。

 沈黙が、少し長く続いた。


「そうやってさ」


 低い声だった。


「期待させて、ダメだったって言うんだろ」


 視線は床に落ちている。


「もういいんだよ。治らねぇのは分かってる」


 二十年分のあきらめが、その言葉にはあった。

 宮本は、間を置いてから言った。


「治す話は、してません」


 田島がゆっくり顔を上げる。


「……じゃあ、何だよ」


 宮本は釣り竿に視線を向けた。


「支える話です」


 田島は黙った。

 その言葉の意味を、少し遅れて考えているようだった。


「右手を貸してください」


 田島の右手をそっと持ち上げて、釣り竿のグリップの下に残した。

 握らせない。

 引っ張らない。


「落とさないでくれれば、それでいいです」


 田島の左手が竿を握る。

 右手は、その下に添える。

 竿がわずかに揺れる。


 そのとき、右手がそこにあるだけで、

 左手の負担が少し軽くなる。

 田島は、自分の手を見下ろす。


「……ああ」


 それは驚きより、納得の声だった。


「使えねえと思ってた」

「掴めなくても、役に立つ場面はあります」


 宮本はそう言って、手を離した。

 右手は相変わらず不器用で、思い通りには動かない。

 それでも、その位置から動かなかった。


 部屋の空気が、わずかに動いた。


 その日、この部屋は、少しだけ違う場所になった。

 二十年間止まっていた空気が、ほんのわずかに動いた。


 ――第3話 終


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