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語らない仕事 ―人がもう一度、立つ場所を探す仕事―  作者: 比良野 瞬
第2章 置かれた場所

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第2話 渡り廊下の向こう

 その年の夏は、朝から気温が下がらなかった。


 アスファルトの照り返しが、病院の白い外壁を焼いている。

 外来入口の自動ドアが開くたび、熱気が中へ流れ込む。

 救急搬入口では、ストレッチャーの車輪が乾いた音を立てていた。


 本館の喧騒を抜け、渡り廊下へ出ると、音が少し遠のく。

 看護師の呼び声も、モニターの電子音も、ガラス越しにぼやける。


 ガラス張りの通路の向こうに、古びた二階建ての建物がある。

 かつて職員寮だった建物だ。

 塗装は剥げ、外階段には錆が浮いている。

 本館とは渡り廊下でつながっているが、そこを越えると空気が変わる。


 訪問リハビリテーション部。

 退院した人の家へ行く。

 治療を終えた人の生活を見る。

 病院の外で続いていく時間に、関わる部署だった。


 宮本はその渡り廊下を歩いていた。

 相変わらず無精ひげが残り、髪も整っていない。

 兼務という形で、この部署に関わっていた。


 玄関の引き戸は重い。

 ガラ、と金属が擦れる音が室内に響いた。


「おはようございます」


 室内は、まだ冷房が効ききっていない。

 扇風機が低く回り、紙の擦れる音とキーボードの打鍵音が混ざる。

 壁には古いホワイトボードが掛かっている。

 訪問予定がびっしり書き込まれ、ところどころ赤ペンで書き直されている。

 玄関の脇には歩行器や杖が立てかけられていた。

 病院では使われなくなった道具が、ここではまだ現役だった。


 机に向かうスタッフは五人。


 奥の席にいるのが所長の栗橋。

 小柄で、白髪交じりの髪を短く整えている。

 丸い眼鏡の奥の目は穏やかだが、どこか芯がある。


 その向かいで、理学療法士の黒羽が予定表を睨んでいる。

 がっしりとした体格。

 腕を組み、必要以上に喋らない。

 徒手で身体を変えることにこだわる男だ。


 少し離れた机では、坊主頭の理学療法士の長岡が椅子を後ろに傾け、ペンを指で回している。

 作業療法士の柏は、静かに記録をまとめていた。

 キーボードを打つ指は速いが、顔はほとんど動かない。


 そして、看護師の伊藤。

 白いポロシャツにチノパン。

 髪は後ろでまとめ、余計な装飾はない。

 パソコン画面を見つめたまま、淡々とマウスを動かしている。

 宮本が入っても、顔は上げない。


 宮本は片付いていない机へ向かう。

 使い古した鞄を手に取ると、中身の整理を始める。

 机上の湯のみには、昨日のコーヒーが半分ほど残ったままだ。

 栗橋が顔を上げる。


「今日も暑くなりそうね」

「そうですね」


 短い応答。

 黒羽が鼻を鳴らす。


「夏は身体が鈍る。利用者も、俺らもな」


 長岡が笑う。


「鈍らないの黒羽さんくらいですよ」


 柏は顔を上げない。

 伊藤はキーボードを打ちながら言う。


「熱中症の相談、増えてます」


 宮本は何も返さずに、鞄に折り紙を入れる。


 そのとき、電話が鳴った。

 室内の音が一瞬だけ止まる。


 栗橋が受話器を取る。


「はい、訪問リハビリです」


 相手は馴染みのケアマネージャーの戸田らしい。

 栗橋は相槌を打ちながらメモを取る。

 だが、途中で表情がわずかに固くなる。


「……ええ。発症は二十年前ですか」

「……独居、市営住宅」

「……ええ、元……そうですか」


 黒羽が視線を栗橋に向ける。

 長岡のペンが止まる。

 伊藤は画面から目を離さない。


 室内に、ゆるやかな沈黙が落ちる。

 電話を切った栗橋は、メモを見ながら言った。


「五十代男性。くも膜下出血の発症から二十年経過。片麻痺は重度」


 紙を一枚めくる。


「……元暴力団員だそうです」


 空気がわずかに張る。

 黒羽が小さく息を吐いた。


「二十年か……」


 長岡が苦笑する。


「今さら、必要ですかね」


 伊藤が淡々と続ける。


「生活パターンは固定されているでしょう」


 否定も肯定もない。

 黒羽が言う。


「訪問リハビリに、何を期待してるんだろうな」


 柏は黙っているが、視線だけが動く。

 栗橋が最後に付け加える。


「最近、歩くのがしんどくなってきた、と」


 その言葉に、宮本の手が止まった。

 湯のみを口元へ運びかけたまま、動かない。


 ――しんどくなってきた。


 宮本はその言葉を頭の中で繰り返した。

 歩けない、ではない。

 出来なくなった、でもない。


 本当に助けが欲しい少し前、人は「しんどい」と言う。


 宮本は静かに湯のみを置いた。

 黒羽が腕を組んだまま言う。


「改善は望みにくい。二十年だぞ」

「ええ」


 伊藤は頷く。


 栗橋は黙って聞いている。

 黒羽が宮本を見る。


「お前、なにかあるのか」


 宮本は少し間を置いた。


「しんどい理由が、身体だけとは限りません」


 黒羽の眉がわずかに動く。


「どういう意味だ」

「二十年経過でしんどくなる。そこになにか、変化があったかもしれない」


 伊藤が初めて宮本を見る。


「生活環境か、加齢、心理面……」


 淡々とした声。

 宮本は湯飲みを机に置いて言った。


「だから、見てみないと分かりません」


「宮本さん、行きます?」


 長岡が両手を挙げて、椅子を前に戻す。

 栗橋は頷いて宮本を見ている。


 ほんのわずかな沈黙。


「そうですね、私が行ってみましょう」


 黒羽が肩をすくめる。


「まあ、お前ならな」


 否定でも賛成でもない。

 ただ、任せるという響き。


 伊藤は何も言わない。

 ただ、小さくキーボードを打つ音が戻る。

 賛成ではない。

 だが、止めもしない。


 栗橋がメモを差し出す。


「宮本くん」


 名前を呼ぶ声は柔らかい。


「無理はしないこと」


 宮本は短く頷く。

 そのやり取りを、柏は静かに見ていた。

 何かを言いかけて、やめる。

 代わりに、キーボードを打つ音だけが戻った。


 宮本がメモを鞄に入れる。

 黒羽が付け加える。


「元、ってのは気にするなよ」

「していません」


 即答だった。

 黒羽の口元がわずかに緩む。


 渡り廊下の向こう側は、医療の中心ではない。


 そこへ向かうのは、派手な仕事ではない。

 救急もない。

 手術もない。

 劇的な回復も、ほとんどない。


 それでも。

 ――しんどくなってきた。


 生活が崩れ始めるとき、人はこういう言い方をする。

 その言葉を、拾うかどうか。


 宮本は鞄を肩にかける。

 引き戸を開ける。

 金属の擦れる音が響く。

 渡り廊下の向こうは、夏の熱気が揺れていた。

 そこから先は、病院ではなく「生活」の領域だった。


 二十年という時間の先にいる男のもとへ、

 宮本は歩き出した。


 ――第2話 終


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