第72話「それでも、撮りに行く」
数日ぶりに、何も追いかけられていない午後だった。
何も起きていない――と言い切るには、帝都の空気は少しだけ変わっていた。音が一枚薄い布を通して聞こえるような、そんな静けさ。路面電車の軋みも、商店街の呼び声も、いつもより遠い。遠いのに、消えたわけではない。むしろ、残ったものの輪郭だけが、丁寧に立ち上がっている。
花の店の併設喫茶スペースは、光がやわらかい。窓際のカーテン越しに午後の日差しが落ち、テーブルの木目に淡い影を作っていた。湯気の立つ珈琲の匂いが、店の花の香りと混ざる。焙煎の苦味と、湿った茎の青さが、同じ空間に同居する。
テーブルの上には、黒い手帳――あの日から“手帳”と呼ばれるようになった黒い器と、これまで撮ってきた写真のプリントが広げられていた。壁際の棚には、小さな額縁がいくつか並び始めている。まだ空の額もある。これから埋まる場所。
「“任命お疲れさま会”ってことで、今日はちゃんと座ってくださいね」
花が、珈琲のカップを私の前に置きながら言った。語尾に笑いが乗っている。笑いが、ちゃんと生活の温度をしている。
「……座ってるよ」
「座ってる“だけ”じゃだめです。ほら、背中丸い。肩も」
花は私の肩を軽く押して、椅子の背に寄せた。まるで疲れた猫を定位置に戻すみたいに。
七瀬が、椅子にどさっと座り直す。
「こんな平和なときぐらいしか落ち着いて座れねえからな」
「お前、平和じゃなくても座ってるだろ」
相馬が即座に返す。七瀬は鼻で笑った。
「座ってるだけで落ち着ける性格なら、今頃もう少しまともな稼業してる」
九条は手帳の横に小さな録音機を置いて、わざとらしく咳払いをした。
「ネタになりそうな会話は、ちゃんと録音しておきますから」
「やめろ」
相馬が短く言う。
「冗談ですよ。……半分」
「半分でも嫌だ」
花が焼き菓子の皿を置きながら、ため息をつく。
「今日は、記事にしない日。お願いします」
九条は両手を上げた。
「善処します」
灰島は、喫茶店の客のふりが板についている。背筋を伸ばし、カップの持ち方まで静かだ。いつもの端末もタブレットも持っていない。代わりに、紙のメニューを一枚、律儀に見ている。
「私は今日はただの客ですので」
そう言いながら、灰島の目線はテーブルの上の写真の端から端へと、ゆっくり移っていった。計測ではなく、観察。たぶん、それが彼なりの“客”なのだ。
御影は黒い手帳を手元に置き、何も言わずにページをめくり始めた。紙の擦れる音が、午後の静けさの中で心地よい。
ぱらり。
ぱらり。
手帳の中には、字がある。私の字と、九条の字と、時々、御影の字。そこに、写真を貼るための空白。空白は、ただの余白じゃない。これから“残る”ために用意された場所だ。
私はプリントを一枚取った。
第七河岸区の霧の朝。川沿いの家々が白い靄に溶けていく中で、神社の鳥居だけが妙に濃く立っている。あのときの空気の冷たさが、紙から立ち上がる気がした。
次に、路面電車。車内で眠る子ども。揺れの中で、首だけが小さく頷くみたいに傾いている。窓の外の光が、頬を淡く照らしていた。
坂の上から見下ろした住宅街の夕焼け。屋根の連なりが、波みたいに連なる。あのとき私は、“全部は写らない”と思った。今も思う。
商店街アーケード。雨の日の反射。濡れた床に、電灯が逆さまに映り、通る人の足が光を踏んでいく。生活は、いつも光を踏んでいる。
小さな神社で撮った、誰かの背中。誰かの背中は、いつも未来へ向かっているのに、背中しか見えない。見えるのは、去っていくことだけ。
「こうして並べると」
私は、言葉が勝手に落ちたみたいに呟いた。
「大きい事件も、小さい日常も、同じページに混ざっちゃうんですね」
御影が手帳から目を上げずに返す。
「実際に起きた順番通りでもないしね。大事だった順番とも、ちょっと違う」
花が焼き菓子を手で割りながら言った。
「“この写真があったから今日のごはんが出来た”っていう日も、ありましたよ」
私は思い出す。第七河岸区の神社で、誰かが持ってきた古い写真。花が店先でプリントして渡したあの一枚。手の中の紙が、人を動かした。線が、少しだけ動いた。
七瀬が口を曲げる。
「“この写真のせいで今日のシノギが潰れた”って日もあるけどな」
「自業自得だろ」
相馬が言う。
「うるせえ」
相馬は珈琲を一口飲み、少し間を置いて続けた。
「“この写真がなかったら、あの現場のこと、もう忘れてたかもしれない”って日もだな」
その言葉の後ろに、相馬の“守れなかった事件”の影がちらつく。彼は語らない。語らないまま、目だけが遠くなる。
九条は、珍しく真面目な顔でプリントを指で揃えた。
「……だからこそ、ぜんぶまとめて“帝都らしさ”なんでしょうね」
花が頷く。
「そう。きれいなとこだけじゃない。嫌なとこも、怖いとこも、眠いとこも」
灰島が、珈琲の湯気を眺めながらぽつりと言った。
「記録の価値は、均一ではありません。しかし……均一ではないものを同じ器に入れてしまうところに、都市の性格が現れます」
相馬が眉をひそめる。
「難しい言い方するな」
灰島は少しだけ口元を緩めた。
「すみません。……要するに、“混ざってる”のが街、ということです」
私は黒い手帳に視線を落とした。そこには、世界側の印章が押され、例外条項が書き込まれている。あの一文の下に、制度が乗ってしまった。それでも、ページの上には、珈琲の輪染みも、鉛筆の消し跡も残っている。制度の上に生活の汚れがある。汚れがあるから、安心する。
話題は、自然とあの問いに戻る。
“この街は誰のものか”。
判定と任命を経ても、答えは一つに定まらない。むしろ、答えが増えた。
私が口を開く前に、花が言った。
「灯子、あの質問、もうしないの?」
「……する」
私は珈琲のカップを両手で包んだ。熱が掌に染みる。現実の熱。
「“この街は誰のものか”って、たぶんいまだにちゃんとは分からないんですけど」
言いながら、自分でも笑いそうになる。最終話みたいなことを言っている。けれど、今日は最終話だ。言うべき日は、今日だ。
「少なくとも——“ここにいた人たちのことを、覚えていたいと思う誰か”のものでもあるんだな、って」
花が静かに頷いた。相馬が目線を落とした。七瀬は目を逸らし、でも何も言わない。九条は録音機に触れそうになって、手を引っ込めた。
御影が、ようやく手帳から顔を上げる。
「それでいいさ。その“誰か”のひとりに、我々が混ざっていれば十分だ」
灰島が、少しだけ言葉を選ぶように続ける。
「記録は所有ではありませんから。“預かる”というのは、案外そういうことなのかもしれません」
預かる。
任命状の言葉が、ようやく私の中で生活の言葉になった気がした。預かるのは、支配するためじゃない。返せないものを、せめて落とさないために持つ。
花が立ち上がり、奥から新しく焼き上げた焼き菓子を運んできた。甘い匂いが広がる。バターと、少し焦げた砂糖。平和の匂いだ。
「判定も任命も済んだことですし、これからは“いつも通り”でいいんですよね?」
花は、みんなの顔を見回した。“いつも通り”の言い方が、祈りみたいに聞こえる。
御影は短く頷く。
「いつも通り。事件があれば出かけて、なければ日常を撮る」
相馬が肩をすくめる。
「“世界規模の異常”なんてものは、できれば二度と勘弁してほしいけどな」
七瀬が笑う。
「無理だろ。どうせまたどっかで、線引きがズレる」
「縁起でもない」
花が言って、でも否定しきれない顔をする。
九条が、窓の外の街を見ながら言った。
「そのたびに、誰かが撮って、書いて、残す。そういう役回りの人間が、世界のどこにでもいるんでしょうね」
「“帝都の外”にも、ですか?」
私は思わず聞いた。帝都の外。そこにも“線”はあるのか。そこにも“判定”はあるのか。
九条は曖昧に笑った。
「さあね。でも、いたほうが世界としては健全ですよ」
そのとき、店の小さなラジオが、ニュースの切れ端を流した。遠い街の写真が映る、とアナウンサーが言った。画面はここにはないのに、私はなぜか“映った”気がした。
そして一瞬。
耳の奥で、ざり、とノイズが走った。
見覚えのある、細い粒の乱れ。写真の粒子じゃない。もっと別の、世界の境目のノイズ。
花が首を傾げる。
「今、なんか……変な音しませんでした?」
「してない」
七瀬が即答した。
「したよ」
相馬が言う。
「……したな」
御影も、静かに言った。
灰島は何も言わなかった。ただ、カップの縁を指でなぞり、目を伏せる。その仕草が、答えに見えた。
私は息を吐いた。世界は、まだ終わっていない。終わっていないけれど、今日は終わらせ方を選べる日だ。
夕方になり、喫茶スペースを片付けた。テーブルの上の写真は、丁寧に束ねて袋に入れる。黒い手帳は、最後に閉じる。表紙を撫でると、紙じゃないみたいに冷たい。
私は黒い手帳を鞄にしまい、カメラを肩にかけた。いつもの重さ。いつもの重さが、今日は少しだけ頼もしい。
「今日ぐらい、もう上がっていいのに」
花が、店の戸口で言った。真面目に言うほど、心配の匂いがする。
「ちょっとだけ、川沿いを回ってきます。光がきれいそうなので」
花は唇を尖らせる。
「……灯子、光がきれいだからって、すぐ撮りに行く」
「撮りに行く人だから」
「そうだけど」
御影が、奥から声をかける。
「暗くなる前には戻るように。任命されたばかりの“記憶管理者”を、いきなり見失うわけにはいかないからね」
冗談めいた口調なのに、そこに責任の匂いがある。私は頷いた。
「はい」
外に出ると、風が冷たかった。川沿いの道へ向かう。路面電車の音が遠くを走り、坂の住宅街の明かりがぽつぽつ灯り始める。商店街のアーケードは、昼の色から夜の色へ移り変わっていく。
川面に夕焼けが映り、赤と金が揺れている。その上を、路面電車のシルエットが横切った。街の灯りが、水面に細い線を引く。
私は立ち止まり、ファインダーを覗いた。
全部は撮れない。ぜんぶは守れない。
それでも。
シャッターを切る指が、迷わない。迷わないことが怖いくらい、自然だった。
カシャ。
夕焼けの川。走る電車。遠くの商店街。坂の上の灯り。画面の端に、鞄の口から覗く黒い手帳の角が、ほんの少しだけ入った。
私は息を吸って、静かに胸の中で言葉を置く。
知ってしまった以上、撮らないでいるほうが、きっと落ち着かないから。
川面の光は揺れる。路面電車は去っていく。街の灯りは増える。六角形の格子は、今は見えない。
それでも、帝都はここにある。
私はもう一度、ファインダーを覗いた。




